第25話 理奈の伝えたいこと

 バッシュを念入りに拭く。

 いきなり理奈に1on1を申し込まれたのは驚いたが、不思議と拒む気にはなれなかった。

 コートは女バスの陣地。

 いつの間に面識を持ったのか、理奈はちゃっかり戸松先輩に許可を得ていた。

 戸松先輩は俺を見かけるなりパチクリとウインクして「楽しんできて」と言った。どうやら気を遣われたらしい。


「じゃ、ルールは普通の1on1。ただしオフェンスになったほうが好きなボールを使えるってことで」


 理奈は短くそう告げて、男子用のボールを俺に寄越す。

 女子のボールより一回りだけ大きいそれが掌に収まった。


「で、接触プレーはなしな」


 女子にパワーや背丈を活かしたプレーをするのは、やはり気が引ける。

 だが理奈は首を横に振った。


「別にしてもいいわ。そんなことされても、私勝つから」

「……いやいや」


 さすがにそんな自信に溢れた顔をされると、色々感じざるを得ない。

 絶対接触プレーなんてしてやるもんか。


「じゃあスマートに勝ってる、みたいに思ってたでしょ」

「へ?」

「顔に書いてあるわよ」


 理奈はニヤニヤと自分の頬を指差した。


「うっせ、ほっとけっての」

「あっはは!」


 ふて腐れたように言うと、理奈は可笑しそうに笑った。

 周りには女バス部員がボトル片手にこちらを見物している。

 中でも一番熱心な視線を送ってくるのは女バスの主将で、俺たちの久しぶりの対決を楽しみにしている様子だった。

 女バスの主将を中心に、部員たちも雑談をパタリとやめている。


「……緊張するんだけど」

「あれだけ試合出てたのに?」


 ──それとこれとはまた別だ。

 試合終盤、数点差を争う中でのフリースローでそれほど緊張することのない俺でも、今の空気はどうにも緊張してしまう。


「ていうか、あんた注目されるの好きだったじゃん」


 理奈は小首を傾げてそう言った。

 ……確かに、ずっと好きだった。

 好きなバスケで活躍して、自分がディフェンスの間を縫うように馳ける姿を見てほしかった。


 でも今は──


 ボールを掌からゆっくりと落とす。

 体育館の床でボールが跳ねる。

 ダン、という小さく、だが確かに反響する音が1on1開始の合図となった。

 理奈はグッと腰を落とし、オフェンスの揺さぶりをものともしない隙のない体勢となる。ピンと張り詰めた空気に喉が鳴った。

 数度に渡りその場でボールをつく。

 理奈から少し距離を離して一定のリズムを刻む俺のドリブルは、恐らくこの場にいるどの人間よりも完成度が高い。

 特別な動きをしなくとも、この動作だけでレベルの違うことがバスケ経験者には分かるだろう。

 ……目の前でドリブルカットを狙い、こちらを凝視してくる理奈以外には。

 大きな瞳は、俺が作る隙を今か今かと待っているようだ。


 右手でついていたボールを、背中の後ろに回し左手へと移す。理奈はピクリと反応したが、さすがに手が届く距離ではなくそれ以上動きはしなかった。

 理奈が距離を詰めずにその場から動かないのは、その詰めるという動きがディフェンスの隙となってしまうからだろう。

 試合となると話は別だが、スペースの確保された1on1においてはその動きが仇となることもある。

 まして俺はチェンジオブペースをはじめとした緩急を付けたドリブルが得意で、こういった1on1では人に負けることは殆どない。


 ……バックドリブルで一定の距離を置いて、ロールからのレッグスルー。これでいこう。


 そうと決めると、ダムダムとドリブルのリズムを変えて理奈の体勢を崩しに行く。

 バックチェンジやビハインドといった小技に脚の間にボールを通すレッグスルーを加え、これを次々と速くこなしていく。

 以前見せなかったドリブルに女バスの部員たちが「わあ!」と声を上げた。


 理奈の表情は変わらない。神経を研ぎ澄ました様子の理奈は、俺が繰り出す小技を目だけで追って、しかし隙を見せることはない。

 さすがだな、と内心舌を巻く。

 男バス部員にこれをしようものならとっくに体勢は崩れ、下手したらまたアンクルブレイクで倒れ込んでしまうだろう。


 俺は体勢を屈める。理奈はそれで俺の次の動きを察したようだった。

 弾丸のごとく床を蹴り上げた俺は、次の瞬間にはスリーポイントラインからフリースローラインへとドリブルインしていた。

 理奈は──

 付いてきてる。

 右脚を前に出し急ブレーキ。ギギッというバッシュと床が擦れる音と共に流れる景色が止まり、視界の隅でついに理奈に隙が生まれるのが見えた。

 右サイドに侵入していた俺は遠心力を使って右外、後ろにロール。

 ぐるりと回る視界に理奈が映ることはなく、次のレッグスルーによる切り返しで完全にディフェンスを千切れる。


 ロール直後、左手に持ち替えたボールを膝下へ──


 手が、それを遮った。


 小気味良い音が体育館に響いた。


 膝を潜るはずだったボールが後ろに弾け、人の支配から離れたボールが虚しくバウンドする。

 それでようやく、俺は理奈にドリブルカットをされたことに気付いた。


「なっ……」


 女バスの面々が歓声を上げた。自チームエースの実力を再確認し、「今年はほんとに、ほんとにいける!」とガッツポーズしている。


「ふう」


 手をひらひらと振って、理奈はため息をついた。

「なによ、今の体たらく。あんた真面目に勝つつもりだったの?」


 理奈の姿は消えたはずだった。

 ドリブルインから急ブレーキをかけた時、確かに理奈の体勢は崩れたように見えた。ロールをした時に至っては、完全に視界から姿が外れていたのだ。

 にもかかわらず、直後右手から左手にボールを移した時にボールを奪われた。念を入れて、ボールを理奈から一番遠い位置に移したのにだ。


「……いや、びびったわ」

「陽、1on1の最中色々考えてたんじゃないの。ロールしよう、次にレッグスルーしよう、とか。じゃないとあんたがあんな散漫な動きするわけない」

「散漫?」

「私が体勢を崩したように見えた時、あんたはそのまま空いたスペースに突っ込めばよかった」


 理奈の言葉にハッとした。1on1で相手の隙が見えたら直ぐそこを突くのが当たり前なはずなのに。


「なのにあんたときたら、事前に決めてた動きをなぞってわざわざ私に時間をくれた。私はあんたがやりそうな動きを予測して、そこに手を伸ばすだけでよかった」


 理奈は前髪をかき上げて息を吐いた。

 その仕草で、理奈にとってこの結果が不本意であろうことは察することができた。


「だからってまさかこんな簡単にボール取れちゃうとは思わなかったけど。大会で結果残すって、これじゃ無理じゃないの?」


 ……ぐうの音も出ない。

 確かに最近調子は良くなかったが、ここまで圧倒されるとは思わなかった。こうして理奈に教えてもらうまで、負けた原因すら分からなかったのならこの先いくらやっても同じ結果になるだろう。


「男バス、地区大会の決勝進出目指してるんだっけ。今のあんただけで進めるほど、甘くはないと思うけど」


 理奈は転がったボールを拾い、指でクルクルと回し始めた。

 俺はこれまでの普段の練習を思い返す。

 個人技ばかりで連携プレーなんて最低限のものばかりしかしてこなかった。その個人技がこのザマじゃ、確かに厳しいかもしれない。


「俺は……」

「陽が練習中何考えてるのか、分かる気がするけど」


 そこまで言うと、理奈は一息吐いて窓の外に視線を投げた。

 橙色に染まった空には雲ひとつなかった。それをどこか遠い眼差しで見つめる理奈は、またひどく幻想的に見えた。


「男バスが好きなんでしょ、中学の時と違ってさ。……大切にしなよ、新しい居場所」


 西に傾いた橙色の夕陽が理奈の髪を照らす。

 思わず微睡まどろむように、目を瞑った。

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