第24話 大会前
ボールをつく心地よい反響音が、今日も体育館に鳴り響く。
半分に区切られた男バスのコートで、俺はいつもの練習メニューに取り組んでいた。
タツ、藤堂は俺と同じ数少ない一年生部員。
二人とも大会に備えて、いつもより熱心に練習に参加している。
そんな練習風景を、俺は眩しいものを見るように目を細めて眺めていた。
──藍田と付き合ってから、一ヶ月が経った。
梅雨も明けてジメジメとした湿気も少しはマシになり、バスケ部には地区大会が迫っている。
当初危惧していた生活の変化は、周りの妬み嫉み以外は変わっていない。それに慣れたら、かつての俺が憧れた生活がここにあった。
藍田と歩けば、通りすがりの赤の他人がハッと顔を上げる。俺を見て悔しそうな顔をする。
……ほんと、憧れてた生活だ。
「あっ! ちょい桐生!」
呼び声に反応し視線を起こすと、既にオレンジ色の球体は鼻先まで迫っていた。
「うっ!?」
ガツンとボールが顔面に直撃した衝撃に目が眩む。頭の中で火花が飛び散った。
「う、うわあ桐生が! キャプテン、主将!」
「ちょ、試合近いんだぞ! 何やってんだよ藤堂!」
「すいません! よく見ないままパス出しちゃって!」
ボールをぶつけた藤堂が慌てて様子を見に来る。
それを追うように、その近くで練習をしていた部員たちが周りを囲んだ。
「桐生、大丈夫か?」
清水主将が屈んで俺の様子を伺う。
整った顔立ちを心配そうに曇らせている。
そうこうしている内に反対方向のコートで練習をしていたタツたちもこちらに走ってきて、号令もかかっていないのに円陣で全員集合という形になった。
「だ、大丈夫です。ちょっとボーッとしてて。百パー俺が悪いです」
「そっか、無事ならいいけどな。来週は地区予選なんだし、頼むぜ?」
「はい。
周りを囲む全員に頭を下げる。
主将はホッとしたように頷き、藤堂は「いいよいいよ!」と慌てて手を振った。
「あっ鼻血」
誰かがそう言うが早いか、鼻下にドロリとした不快感。……鼻血なんて何年ぶりだろうか。
清水主将はそれを見ると大慌てで騒ぎ出した。
「ティッシュ、ティッシュティッシュ! お前らは持ってないよな! マネージャー!」
「主将ー、せめて返事は聞いてほしかったです!」
「あ、タツ持ってた!? そりゃ悪い!」
「持ってません!」
「死ね!」
慌ててティッシュやら、コートを拭くモップやらを取りに行く先輩たち。とりあえず天井を仰いで、鼻血が止まるのを待つ。
本当は仰向けより座った状態から顔を下に向けるほうがいいらしいが、体育館を汚すのも気がひけた。
「大丈夫? 桐生くん」
ざわざわとした喧噪の中から、清流のせせらぎのような声がした。
それは決して大きい声ではないのに、不思議と俺の耳に届く。
「藍田」
「見てたよ、ボーッとしてたでしょ」
仕方ないなぁ、と言いながらジャージからポケットティッシュを取り出す。
まだ開けられていない封を躊躇なく開くと、二枚、三枚と取り出して俺の鼻に当てた。
「あ、ありがと」
「気にしないで。こういうのは持ちつ持たれつなんだから」
そう言って藍田は微笑んだ。
藍田の言葉を聞いて周りにいた部員、主にタツが声を大にして反応する。
「うへえ、男が憧れるシチュエーランキングベスト10くらいのやつ! そこに膝枕が加われば完璧!」
分かる。でもそれを本人たちの目の前で言うのはどうかと思うぞ。
そんな意味合いを含めた視線を投げかけるが、察しの悪いタツは「俺も鼻血出して膝枕されたい」と言って身をくねくねとよじらせている。
藍田はそれを聞いて可笑しそうにクスクスと笑った。
「タツくんも、もしかしてハンカチのほうがよかったり?」
「藍田さん、それ良い! 今度桐生にやったげて!」
「うん、また桐生くんが鼻血出したら考えてみるね」
「いいなー桐生。明日は俺が鼻血出させてやるから感謝しろよ!」
「か、勘弁してくれ……」
タツは物騒なセリフを吐きながら呆れ顔の田村先輩に引きずられ、やっと反対側のコートへと戻っていった。
藤堂をはじめとする、俺と一緒に練習していた部員たちも元の位置に戻り2on2を始める。
いつの間にか一滴、二滴ほど垂れた血は綺麗に拭かれていた。
「隅に椅子用意してくれたから、そっちにほうに移動しよっか」
藍田はそう促すと「じゃあ私、向こうのコートに戻るね」と言って戻っていった。
俺は隅に用意されたパイプ椅子に腰をかけ、鼻血が止まるのを待つ。
……いや、実はもう止まっている。それなのに、俺は再びボーッと練習を眺めていた。
最近、練習に身が入らない。
別に集中しなくても、とっさの判断は効くので大抵のことは問題なくこなせるし、実際今日ファンブルという名の顔面キャッチをするまでは何事もなかった。
藍田と付き合ってからだとか、そのことを考えてだとか、まぁそういう原因であることは否定できない。
悪くない、なんて思い始めている自分がいるのだ。
藍田は恋人関係をバラすくらいしか行動を取ってないし、それからは話す機会が多くなった程度だ。
もちろん付き合うこと自体がそれで充分害と捉えられるのだが、それを心のどこかで受け入れ始めている。
あの日は、俺の抱いていた藍田奏という像が最悪な形で崩され、これまでの関係が全てリセットされたような気がしていた。
だが結局、俺はまたこうしてかつての様に練習中に考えてしまう。
理奈も言っていた。
「あんたは藍田さんのことを、そう簡単に嫌いにはなれないよ」って。
「うぜぇ……」
俺 、うぜぇ。
口に出したことは今となっては自分でもよく分からず、理奈へはその場その場の感情でペラペラと言葉を並べていただけだ。
被害者面で、男が女に頼りっぱなし。
かつての短絡的な思考回路しか持ち合わせなかった中学時代のほうがまだマシかもしれない。
少しは考えるようになったと思った今の結果が、これなのだから。
藍田は笛を咥えて反対側のコートで3on3の指導を始めたが、その姿だってこうして思わず目で追ってしまう。「可愛いならOK」だなんて言葉をタツがよく言っていたが、かつて「安直すぎだ」と思っていた過去の自分は大人ぶっていただけなのかもしれない。
一月前に行ったデートで、それがますます思い知らされた。
私服を見ただけで、動悸が激しくなるのだから。
コツン、とつま先に感触がした。視線を落とすと、一回り小さなバスケットボールが転がっている。
「陽、ごめん! それ投げて」
「……理奈」
ボールを放ると、理奈は危なげなくそれを受け取る。
「ボーッとしてたね」
「ゲッ、見てたのか」
「なにその反応ムカつく!」
そう言いながらも理奈はいつもの様に笑う。
いつもと変わらないその笑みに、俺の心がほぐされていくのを感じた。
「お前、こんな隅のほうまできて大丈夫なのか? 休憩中っぽいけど、目立つだろ」
「いいのいいの。それで、何考えてたの?」
「別に。夕飯のこととか」
「ダウト。まあ、教えてくれないならいいよ」
理奈は「言うと思ってたし」と微妙な表情をした。
体育館の窓から入る横風が理奈の髪を揺らす。
夕陽に照らされて一層綺麗な光を放つそれは、何故だか幻想的に見えた。
「ね、1on1しよっか」
「は?」
「それで大体何を思ってるって分かるんだから。私はあんたの……」
理奈そこで一度言葉を切って、まるで俺以外の誰かに言い聞かせるように
「……幼馴染だし!」
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