第11話 雨降りの放課後

 昼休みが終わると、外では驟雨が降り始めていた。

 教室からでも雨粒の地面を叩く音が聞こえる。


「あらら、せっかく部活休みなのに雨かよ」


 五時間目の授業中、タツは残念そうに小声で話しかけてくる。


「……今日のランニングはやめておいた方がいいだろうな」


 バスケ部は週四日という、高校の運動部にしては些か少ない練習日数。

 休みの日はなるべく近所の川沿いをランニングしていたのだが今日は地面のぬかるみが心配だった。

 体力づくりで怪我をしては元も子もない。


「藤堂誘ってボーリングでも行かね?」

「悪い、金ないや」

「えー、1ゲーム300円とかだぜ?」


 300円。ボーリングとなれば1ゲームで終わらないことは分かり切っているので、ざっと3ゲームといったところ。

 親からのお小遣いだけで過ごす身としては、900円は結構な金だ。

 漫画の単行本が二冊も買えてしまう。

 休日に遊ぶ分にはお金を渋らないが、元々遊ぶ予定のない放課後にお金を使うのは少し抵抗があった。


「いや、俺はやめとくよ」

「まじかよー、まあ金欠なら仕方ないかあ」


 渋々といった様子で諦めるタツは顔を引っ込めてノートに落書きをし始める。

 どうやら先生の似顔絵を描いているらしく、これがなかなか上手かった。


◇◆


「あー、傘忘れた」


 放課後の玄関口で、カバンに折り畳み傘を入れ忘れていたことに気付く。

 タツ達はまだ学校で遊んでそうだが、探すのはどうも面倒臭い。

 確か生徒会室で傘の貸し出しがあったはずだ。

 生徒会室は二階にあるため、階段を上っていく。

 雨の湿気で、上る度に上履きがキュッキュと音が鳴った。

 生徒会室のドアをノックして開ける。


「あれ? 桐生君じゃん。どうしたの?」


 中にいたのは生徒会と思われる人たちと、戸松先輩だった。


「あれ、先輩。こんなところで何してるんですか?」

「何って、私生徒会の書記だよ。入学式後の全校集会で挨拶してたけど、気付かなかった?」

「寝てました」

「ええ、入学式後早々なのに度胸あるなあ……」


 戸松先輩は頰をポリポリと掻きながら苦笑いする。


「それで、何の用事?」

「あ、そうでした。傘の貸し出しとかやってないかなって」

「ああ、そういうこと! あるよ、これ最後の一本。そこの貸し出し欄に名前記入してね」

「了解です」


 名簿に桐生陽介と書き込んで戸松先輩に渡すと、後ろのドアがまた開いた。


「すみません、傘を忘れたので貸して欲しいのですが」

「あれ、いらっしゃい藍田さん! でもごめんなさい、今最後の一本を貸し出ししたところでもう傘は無いのー」


戸松先輩が両手を合わせる。

藍田は気にした様子もなく、にこりと笑った。


「そうなんですね。ありがとうございます」

「もう少し待ってくれるなら、私が家まで送っていってあげるけど」

「いえ、そこまでご迷惑はかけれません。走って帰りますね」


 藍田はお辞儀をして、生徒会室から出ようとした。


「藍田、ほら」


 今しがた借りた傘を藍田に差し出す。


「え?」

「さすがに女子を置き去りにしてまで傘借りられないって。これ使ってくれ」

「わお、かっこいいね」


 茶化す戸松先輩はスルーする。

 藍田は俺の差し出した傘をチラリと見たが、首を振った。


「ううん、先に借りたのは桐生くんだし。そんなの悪いよ」

「だーもう、確かに藍田のためでもあるけどそれ以上にこれは俺のためなの」


 このまま藍田を見送ったとなると、帰宅後の俺は後悔するに違いない。

 正直な気持ちで言うと、藍田は控えめに口角を上げた。


「……桐生くんらしい。それじゃ、お言葉に甘えようかな」


 藍田の微笑に、戸松先輩は「わぁ」と声を漏らした。

 それほど、女優を彷彿とさせる笑みだったのだ。

 何気ない一面でこんなにも胸を昂らせることができるなんて、本当に神様は不平等だ。


「でも、それで桐生くんが濡れて帰るんじゃ私だって嫌だよ。一緒に帰ろ?」

「い、いや、それは悪いって」


 走って帰る気満々だったため、思わず断る。


「それじゃ……これは私のためなの。さっき桐生くんが言ってたこと、そのまま返すよ」


 ……そう言われては、何も言い返せない。

 戸松先輩に見送られて、俺は藍田と玄関口に向かった。


「傘は俺が差すから」

「うん、お願いします」


 傘を開くと、かなり大きめの傘だということが分かる。

 これなら二人とも濡れずに済むだろう。

 差した傘を上に掲げると、藍田がそろっと隣に入ってくる。

 周りからはどんな風に見られるのだろうか。カップルに、見えたりするのだろうか。

 そんな風に思っていると近くにいる一年生の会話が聞こえてきた。


「あれ藍田さんじゃね? なんで男といるんだ」

「男が土下座して相合傘頼んだのか?」

「土下座で相合傘できるなら既にしてる人もいそうだけどなあ」


 ……カップルとは思われていないようだ。

 まあ、傍から見たら釣り合いが取れていないのだろう。大してモテもしない俺と、中学時代大人数に告られた藍田とは扱いが違うことは当然だ。

 俺はそう無理矢理納得した。


 ◇◆


 北高は山を少し登ったところにある高校で、帰り道は途中まで下り坂が続く。

 途中からは車通りのある歩道だが、それまでは滅多に車の通らない道を十分ほど歩く。

 山を下れば街が賑わいが迎えてくれるが、この道を歩いている時間だけは木々の静けさが辺りを包む。

 街の賑わいから隔離されているような自然の中にある道。

 俺はこの道が好きだった。

 傘を叩く雨粒の音が強くなる。


「雨。激しくなってきたね」


 柔らかそうな髪が、少しずつ濡れていくのを眺める。


「だな。もう少し傘大きかったらよかったのに」

「肩、濡れてるよ。気を遣わないでいいから、もう少し近付いて」


 そう言って藍田は自ら身体を寄せてくる。

 歩いて身体が揺れる度、お互いの肩がコツンと触れ合う。


「ね、寄り道しよっか」


 唐突な誘い。

 こちらを見上げる藍田の大きな瞳に俺が映っている。

 悩ましげな長い睫毛に、二重の大きな瞳は神秘的なまでに黒々しくて吸い込まれそうだ。


「……どこに?」


 たった一言に、充分な時間をかけて聞き返す。

 誘いにすぐに食い付いたと、そう思われるのが恥ずかしかった。


「猫公園。この道から抜けた後、別の道から登ったところにあるらしいの」


 猫公園と呼ばれる場所には、二十分ほど歩かなければならなかった。

 登り道が主であるため、わざわざ帰り道に立ち寄る生徒は殆どいないだろう。

 公園に着くと、藍田は疲れたように息を吐いた。


「ここに来るの、ちょっとしんどいね。なんだか軽く登山した気分」

「標高200メートルくらいはありそうだな」

「それくらいあるかな? あ、見てみようよ景色」


 藍田に促されて、景色がよく見えそうな場所に移動する。

 階段以外は木々と柵に囲まれたこの公園だが、景色を唯一綺麗に見渡せそうな場所があった。

 それはこの公園の中で唯一屋根のある東屋だった。

 外壁がなく柱と屋根だけの構造をしている東屋だったが、雨を防ぐには十分な広さがある。

 ベンチに座り、山下を眺める。


「……灰色だな」


 曇天の空が一面に広がって、まるで誰かが街に蓋をしてしまったみたいだ。

 晴れているときの景色が見てみたいな、と思った。


「そういえば、なんで猫公園なんだ? 園名板に載ってたのとは違う名前だけど」


 猫公園なんて名前と、響きも似つかない正式名が園名板に記載されていた。

 俺の疑問に、藍田は肩についた水滴を払いながら答えた。


「この公園、たまに野良猫がすごーい集まるんだって。北高の生徒がかなり高い頻度で遊びに来るようになっても、時々集まってくれるらしいよ」

「へー、なんかひと昔前にありそうな逸話だな」


 そういった逸話を聞くのは、結構好きだ。

 俺は園名板に視線を投げて、息を吐いた。

 それにしても、藍田はなぜ俺を誘ったのだろう。

 ベンチに座ったのはいいものの、なんとなく暇を持て余して足をプラプラと泳がせる。

 強くなってきた雨であたりがどんどん霞んでいくのを目にしながら、その景色がまるで藍田みたいだなと唐突に思う。

 傍からは仲良くなったように見えても、心の距離は出会った時からほとんど変わっていないのかもしれない。

 話しかけられる回数が増えたりだとか、身体の距離が近くなったりしても、心だけは最初の位置から動いていないのかもしれないと思ってしまう。

 たまにもやが晴れたように見えても、次の瞬間にはまた霞がかかってしまうような、そんな印象だ。

 中三の秋、そんなもやを取り払ったと思った俺は告白した。

 周りを囲む男子と比べて過ごす時間は少なかったかもしれないが、そいつらに負けるとは微塵も思わなかった。

 振られたのは俺も周りと同様、土俵にすら上がれていなかっただけなのかもしれないと最近思う。

 俺を部活に誘ったことも、恋愛対象と見ていないからこそ。

 それでも優しい言葉をかけられたり、身体が近付けばドキドキするが、それは別に藍田に対してだけではないだろう。

 年頃の男子高校生は些細なことですぐドキドキするもので、それは恋愛と多分関係ない。

 だから、いま目の前に濡れたシャツが張り付いているのを見て顔が赤くなるのも普通のことだ。

 今日誘ってきたのも、大方バスケ部に関することだろう。


「ねえ、桐生くんってさ」

「ん?」

「──私のこと、まだ好き?」


 藍田の問いは、簡単に俺の予想を越えてくる。

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