第6話 朝のひと時

 カーテンの隙間から溢れる春の日差しを感じる。

 こんなにぽかぽかと暖かいと、起きるのが億劫だと目覚ましのアラームを予め止めておいた。

 時計を見ると七時。

 まだ三十分も寝る時間が残されている幸せを噛み締めながら、再び意識を手放そうとする。

 だが、部屋に誰かがいる様な気がした。

 何か忘れているような。

 寝起きの回らない頭で少し考え、すぐに放棄した。

 今はそんな些細な違和感よりも、あと三十分も寝られる幸せを甘受しよう。

 すると今度は確実にベッドが軋んだ。

 まだ七時だというのに、もう母さんが起こしに来たのか。

 それとも部屋にある何かを取りにでも来たのだろうか。

 起こす気がなかろうと、現にこうして眠りを妨げられているのだから迷惑な話だ。


「ぐっもーにん!」

「うああ!?」


 突然上から降ってきた大声に驚き、ベッドから飛び跳ねる。

 勢いよく上体を起き上がらせると柔らかい感触が伝わってきて、「ぎゃっ」という声がした。

 勢い余って、どこかに顔を埋めてしまったらしい。


「……」


 大声から一転、部屋が再び静寂に包まれる。

 寝ぼけた頭を覚醒させながら顔を離すと、わずかに目線が上となった理奈がこちらを見下ろしていた。


「お、おはよ理奈。随分早いな」

「おはよ、陽介。今日来るって言ったじゃない」

「あぁ……そっか」

「朝ごはん、もうできてるって。ほら、立った立った!」


 理奈は俺を急かしながらベッドから降りる。


「うん、おっけー。理奈は今日朝ごはんウチで食べるのか?」


 こちらも平常通りの表情を装い返事をするが、上手く表情を作れているか自信がない。

 昨日こいつを女子だと改めて意識し始めた次の日にこれだ。動揺しないほうがおかしいな話だろう。


「うん、そのために早くに起こしたんだから。それじゃあ私はリビングに降りるけど、二度寝しちゃダメだからね!」


 理奈はそれだけ告げると、部屋から出て行った。

 ……一階に下りるまでに、ひとまずこの記憶を忘れなければ。

 そうしないと、いつも通りに話をする自信がなかった。

 制服に着替えてリビングに降りると、理奈と聡美が賑やかに喋っていた。

 降りてくる俺に最初に気付いたのは朝ごはんの支度を済ませていた母さんだ。


「あら陽介、今朝は早いのね! やっぱり理奈ちゃんが起こしに来てくれると陽介も早起きできるのねぇ」


 キッチンから首を伸ばしてからかってくる母さんは、久しぶりに理奈と会うことができて朝からご機嫌の様子だ。

 聡美も話を中断して俺にからかいの視線を投げる。


「陽介あんた、朝から理奈ちゃんに起こしてもらったからって周りに自慢しちゃダメよー? 男子同士の妬みだって十分怖いんだから」

「なにそれ、姉貴の経験談?」

「私は女だっつの!」


 理奈越しに睨んでくる視線を逸らしながら、俺は理奈の隣の席を見た。

 昔理奈がよく家に遊びに来ていた時期は、一緒にご飯を食べるときの定位置が自然と決まっていた。

 理奈の席は普段俺が使っている席で、小さい頃はどちらがその席に座るかで喧嘩をしたこともある。

 最終的にこっちが折れて、理奈が俺の家でご飯を食べるときだけ一つ席をズラして食べるという暗黙のルールができていた。


「理奈、まだ俺の定位置に座りたいのか? どけよ」


ため息と共に疑問を投げかけると、理奈は少し意外そうに否定した。


「え? 違うよ、陽介が座りたい席に座りたかっただけ」

「それって同じことじゃ……」

「細かいわよ男子」


 理奈はいきなりプイと横を向いてしまった。やはり今朝のことを怒っているのではないか。

 無論今朝のことをこの場で謝るわけにはいかないが、登校中に謝ってしまおう。


「なになに、痴話喧嘩?」


 実に面白そうに聞いてくる聡美に、理奈は慌てて否定した。


「違う違う、そんなんじゃないです。懐かしくなっちゃって、からかってただけです」


 どうにも腑に落ちないが、ここは穏便に済ませたいので素直に隣に座る。

 そのあとは理奈といつも通りの会話、母と聡美のからかいを上手く躱しながら朝食を終えた。


 母さんと聡美の見送りを経て、俺と理奈は今日も二人で登校した。

 途中他人の目が全く気にならなかったと言えば嘘になるが、それでも今朝の動揺は胸の奥にしまい込むことに成功したと思う。


「なんで今朝はこんなにぎこちないのよ」


 ……成功したと思っていたのだが、理奈にはいつもと違うように映っていたらしい。


「こんなって、どんなだよ」

「どんなって、そんな態度よ。どうにも歯切りが悪い返事ばっかりっていうか。まあ多少素っ気ないのはいつものことだけど、それとはまた違うっていうか……」


 参った。

 どうやら理奈には心の動揺すら見抜かれてしまうらしい。いくら小さい頃からずっと一緒にいたとしても、中学三年間は違う学校だったのだからと油断した。


「まあ何でそんな変な感じになってるかは知らないけど、何かあるなら言いなさいよ?」


 ……お前だよ。そう言えたら少しは気が紛れるだろうか。調子に乗りそうなので口が裂けても言わないが。


「それと、今朝のあれ・・は不可効力だからなにも言わなかったけど。味しめて次もやったら、その時はぶん殴るからね」

「……気付いてたのかよ!」


 ここまで何も言ってこないのだから俺が胸に顔を埋めたことに気付いていないものだと思い始めていたが、きちんと分かっていたらしい。


「気付いてるに決まってんでしょ、バカ。それで今の話わかったの?」


 今更少し赤面して訊いてくる理奈に、俺もつられて恥ずかしくなる。


「わ、わかってるよ。でも朝見逃してくれたのは意外だった」

「早起きは三文の得ってことで見逃すわ。でも自慢しちゃダメよ?」

「しねえよ、どんな噂が立つか分かったもんじゃない」

「ならよし!」


 そう言うと理奈は、「また放課後!」と言うと自分の教室に駆けて行った。

 理奈の後ろ姿を見ながら今朝の感触を思い出す。

 胸に閉まっていた気持ちも、また俺の中で膨れ上がっている気がする。

 つまり、あいつも一人の女子だってこと。

 馬鹿みたいなきっかけだが、男ってそんなものだと思う。


◇◆


 教室に入ると、俺の席の傍で、女子三人が立ち話をしていた。


「藍田さんって結局部活決めたのー?」

「うん、男バスのマネージャーになるの」


 藍田がいるグループだ。

 三人で話をしているが、正直その席から離れてほしい。

 三人の内の一人が俺の一つ前の席なので、恐らくそこを中心に集まっているのだろう。

 藍田はともかく、他の二人とは話したことがない。

 知らない女子が自分の席を囲うように話し込んでいる状況は、朝のテンションだと少しハードルが高かった。

 後ろの席のタツが登校していたなら気は楽だったが、どうやら今朝はまだ来ていないらしい。


「マネージャーって、なんかかっこいいよね! 私もマネージャーに憧れてる……」

「あんたに男子のサポートは無理でしょ、バスケどころか球技すらやったことないのに」


 そんな女子二人のやりとりに、藍田はフォローを入れる。


「ううん、私が教えるから大丈夫だよ! 男バスってマネージャーがほとんどいないから、きっとみんな喜ぶと思う!」


 藍田はそこまで言うと近づいてくる俺に気付いたようで、ニコッと笑顔を向けてきた。


「おはよう、桐生くん」

「おはよ、藍田」

「今朝はよく眠れた?」

「まあな」


 ここ数日藍田とかなり喋ったおかげで、ごく普通の会話なら問題なくできるようになっていた。

藍田と問題なく会話を進めることのできる男子は、まだこの学校では殆どいないはずだ。

そのことを象徴するかのように、藍田の友達は驚いた表情を浮かべた。


「桐生くんって藍田さんと友達だったんだ! 高嶺の花と友達なんてやるなお主」


 先ほどマネージャーになるかを迷っていた女子だ。


「まあ、そんな感じ」


 まさか告白して振られたことがあるだなんて言えないので、言葉を濁す。


「中二の時、バスケ部の大会の会場で桐生くんと知り合ったの。色んな話をして、今でも仲良い友達なんだよ」


 藍田は俺の言葉にそう付け足した。

 仲良い友達。藍田にそんな評価を貰っているなんて、男子としては素直に嬉しい。


「すごくハイレベルなチームの元レギュラーで、今は一年生ながらチームのスタメン候補なの」


 藍田の説明に女子はますます意外そうな顔を見せた。


「わぁ、そう聞いたらかっこよく見えてきたかも」


 そう聞かないとかっこよくは見えないと遠回しに言われた気がしたが、気にしないことにする。

 そこまで話すと、予鈴のチャイムがなり始めた。

 チャイムが鳴ると、「またね」と藍田の友達は自分の席に戻っていった。

 まだ着席の時間までは五分あるが、予鈴のチャイムを鳴らすことで生徒の着席を前もって促すのが北高の方針らしい。

 藍田も自分の席へ戻ろうとしたが、ふと何かを思い出したように再びこちらに向き直った。


「桐生くん、これまだ内緒なんだけど」


 耳貸して、とジェスチャーされて素直に耳を貸す。

 耳元で藍田の吐息がわずかに聞こえ、思わず全身を硬ばらせる。


「女バスと試合、するかもしれないんだって」

「え?」

「じゃまた」


 ニコッと笑って今度こそ自分の席に戻っていく藍田の後ろ姿をボーッと眺める。

 クラスでも特別な扱いをされている藍田に周りの席の人たちが物珍しそうにこちらを見ていることに気付き、思わず目線を下げる。

 周りの注目を集めるのは割と好きなほうだが、こういったデリケートな問題だけはその限りではなかった。


「お前って高嶺の花と内緒話するような関係だったんだな」

「タツ」


 いつの間にか登校していたタツは後ろから背中を小突いてくる。


「そんなんじゃねえって」


 今朝、聡美が言ってたことを思い出す。

 男子同士の嫉妬も怖い。

 もしかしたら藍田と話すことで、こうした友達関係も崩れる事態になったりするのだろうか。


「あやからせてください」


 ……素直に金髪の頭を下げるタツには、全く縁遠い話のようだった。

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