第10話 蔓延
突然血を吐いて倒れた。
そう言ってイヌがキンザカ動物病院に運び込まれたのは、二番目の発症者がエーゼス病院に運ばれるよりも前だった。
運び込まれた患畜は、体長七十センチほど、豊かな毛並みに、くるりと丸まった太めの尻尾が特徴であるウェイキ種のオスだ。
すでに冬毛に生え変わり、赤いモコモコの塊と化したそれは、呼吸、心拍ともに停止しており、反射反応を調べても何も反応が無い。
「残念ながら、既に死亡しています」
院長のキンザカは、一通りの検査、というより死亡確認を終えると飼い主に告げた。
「どうにかして、何とか……!」
飼い主がいくら泣き叫んでも、獣医師には為す術など無い。
人間であれ、動物であれ、死んだ者を生き返らせる方法など無いのだから。
それでも食いさがる飼い主の勢いに押されて、キンザカは検査をすることにした。
今更治療できることは何もない。飼い主を納得させるために、どこがどれだけ悪かったのかを説明する。ただそれだけのための検査だ。
目立った外傷はない。よく手入れされた艶やかな赤毛は特に乱れもなく、死に際して苦しみ暴れた様子でもない。
そして、その美しい毛並みは、少しも衰弱を感じさせることはなく、今にも起き上がり駆け回っても不思議ではないほどだ。
悪性腫瘍などで苦しんでいたのならば、このような亡骸となることはあるまい。
飼い主の話によると、血を吐いたということなので、咽喉から胃、あるいは肺の疾患であろうか。もしくは、変な物を食べてしまったのだろうと予想される。
口を大きく開けてみると、なるほど、血の跡が付いているのが確認できた。
口腔内に光を当てて、傷や異常が無いかを調べていると、喉の奥に異物が見える。
キンザカはピンセットを手にすると、喉の奥から一片の物体を摘まみ出した。
一センチほどの大きさの肉片。それは、どう見ても食べた物とは思えない物だった。
「何だこれは……」
怪訝そうな顔をして呟いてみても、その正体が分かるはずもない。
分からないならば、分かるようにするまで。とばかりににX線写真を撮影したところ、その結果はキンザカの想定していたものからは大きく外れていた。
「故障でもしたか? いや、違うな…… 一体、何だこれは?」
腫瘍や傷の影が見えるどころか、臓器の影が見当たらない。
だが、骨格や四肢の筋肉は見慣れた像が写っている。
もちろん、X線写真に肝臓や腎臓がくっきりはっきり明確に写るわけではない。それでも、通常ならば、肺や心臓は位置や大きさが識別できる程度には写るはずなのだ。
しかし、向きを変えて数枚撮影したX線写真は、胸部から腹部にかけて、胴体が全体的に一様に塗りつぶされた状態になっていて、骨格以外が全く分からないのだ。
「何がどうなっている……?」
見た目どおりに判断するならば、肺が完全に潰れていることになる。喉の奥の肉片は肺の一部なのだろうか。
しかし、それも不可解なことである。
X線写真にきれいに写っている肋骨には損傷があるようには見えないし、撮影をする際に抱きかかえた感触でも、異常は全く感じられなかったという。
彼はその症状診て、まず、虐待を疑った。
内臓が無惨に破壊されていれば、誰だって病気を疑わない。
既知の疾病にそのような症状を呈するものは無いのだから。
もこもこの毛を掻き分けて皮膚の状態を調べていくも、死に至るような傷など見つからなかった。
「散歩、あるいは食事中に変わった様子はあるませんでしたか?」
キンザカは飼い主に確認するも、飼い主にも全くわからないようで「いつもと変わらない。突然、何の前触れもなく倒れた」と答えるのみだった。
結局、飼い主には、手の施しようが無いということで納得してもらったのだが、その後も、キンザカ動物病院に急患が次々と飛び込んできた。
立て続けに運び込まれた五匹の動物は、すべて同じ症状だった。
だがキンザカは、その時点では感染症の可能性を考慮しなかった。
ペットフードに異物を混入されたのか。あるいは、散歩中の道端にばら撒かれていた何かを口にしたのか。
非常に悪質なイタズラである可能性が高い。
今日から突然、聞いたこともない新しい病気が流行するなどとは普通は思わない。
『猛毒をばら撒いたバカ野郎がいる』
『ペットフードに小型爆弾を仕込んだイカレ野郎がいる』
そう考えた方が自然である。
同じ症状を呈しているのは全てがイヌであり、ある日突然同じ症状を起こしたとなれば、真っ先にエサを疑うのは当然だ。
だから、彼ら獣医師どうしで互いに情報交換をしても、人間で同じ症例がないかの問い合わせもしなかった。
それが感染症、しかも、ヒトにも感染するものとは思いもしなかったことを責めることはできまい。
この時点では、キンザカは新型感染症の存在すら知らない。
獣医師・動物病院へは内臓全体が破裂するという新型の疾病についての案内が回されていなかった。
キンザカたち獣医師がノデンス医療研究所の発表を見て、それが感染症であると気付いた時には、既に手遅れだったのだ。
ノデンス医療研究所の扱っている研究は、本質的に人間の疾病や怪我の治療に関してのものである。
だが、ウサギから感染したのだから、当然、動物へも感染するという想定であるべきだったのだ。
そのため、普段、連携を取っているのも人間を対象とした医療機関だけであり、新型感染症の案内を出したのも、人間を対象にした医療機関だけだった。
これは明らかにノデンス医療研究所の不手際である。
『突発性多臓器破裂症』
「突発性」とか必要なのか、という議論はさておき、取り敢えず症状に名称が付けられることになった。
現状では、細菌性のか、ウイルス性なのかも定かではない。
政府により新型感染症対策本部が立ちあげられるも、少々どころではない手遅れ感が漂っている。
感染域、数万平方キロメートル。感染者数は予備群を含めて、およそ二千万人超。
それが政府の出した試算だ。
万に近い死亡者を出し、さらに拡大していく見込みだ。
というと、恐ろしく大変なことのように感じるが、逆に死亡率は一万人に数人ほどと考えると、それほど重大な事案でもない。
しかも、発症者の傾向は明確であることも、大パニックとはならない要因なのだろう。
だが、ペットや家畜に関してはその数値は適用されない。
発症の数も率も、ヒトとはケタが違うなどと言うレベルではないほどの差があった。
しかも、ペットや家畜の発症はヒトよりも早いようだ。それだけ運動不足なのなろだろうか。
そのため、行政としては、予想される家畜の被害の方が頭の痛い問題である。
既に、農村部のウシやブタなどの家畜類の発症報告も上がってきている。
このままでいけば、程なく、畜産業に壊滅的な被害を齎すだろうことは想像に難くない。
これは畜産農家の経営の問題、ではない。
重大な食料問題に発展する可能性が高いのだ。
大統領や大臣たちも大変だろう。
マスコミに「どうするのか?」などと訊かれても、何も答えられるはずがない。
検討したって、専門家の意見を募ったって、どうすることもできはしない。
事態を収める有効な方法があるならば、既にそれをしている、あるいは初めから「こうする」と発表しているのだ。
「ごちゃごちゃ言っている暇があったら、
そう言って記者会見を切り上げてしまった大統領を批判するマスコミは多かった。
大統領が引責辞任をしたところで、事態は何も好転などしないのだが……
そして、極秘とされていることがあることは大統領すら知らない。
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