第9話 希望(3)
「何だかんだあっても、やはり自宅は落ち着くな」
久しぶりにの帰宅にゼスカは顔を綻ばせる。
郊外の閑静な住宅街の一軒家。それがゼスカの自宅である。
このあたりは、十数年くらい前までは新興住宅街として若い家族で賑わっていたのだが、ここ最近は子供世代が巣立っていき、急速に高齢化が進んでいる。
御多分に洩れず、ゼスかの二人の息子は既に自立してそれぞれに家庭を持っており、現在の家族構成は夫婦ふたりだけになっている。
「お疲れさま。君はいつも一人で頑張りすぎるんだ。少しゆっくりすればいい」
ゼスカの夫、モルベスは、紅茶を用意しながら声をかける妻を労い、。
だが、ゼスカは疲れた体をソファに委ねてたまま、視線を落として首を横に振る。
まだ、何も解決していない。
むしろ、状況は悪化するばかりだ。
日を追うごとに発症者は増え続け、既に百人を超えた。
研究所周辺で座り込みをしていた者たちも、もはやそんなことをしている場合ではないと気付いたのか、解散している。
何しろ、元から運動不足の者が座り込んでいたら、発症する率が格段に高くなるのだ。
彼らも今頃は社会的な市民運動ではなく、物理的な肉体運動に励んでいるだろう。
「そういうわけにはいかないさ。私はこのまま座して死を待つつもりはないよ」
「気持ちは分からなくもないが、例の病気の前に過労で倒れてしまっては元も子もないんだってことだけは忘れないで欲しい」
モルベスの言い分ももっともなのだが、ゼスカの表情は晴れない。
「まあ、今日はゆっくり休めば良い」
「そうだね。だけど……」
「だけど?」
「ジョギングは休むわけにいかない」
ゼスカの返答にモルベスは苦笑しながら紅茶に口をつける。
「久しぶりに一緒に走ろうか」
紅茶を飲み終わって着替えると二人並んで家を出る。
市道を抜けて、河川敷を走るいつものコース。見慣れた景色に馴染みのジョガーたちも多くいる。
だが、変わっていることもある。
「やあ。モルベスとゼスカが並んで走っているのを見るのは久し振りだな」
唐突に声をかけられた。
振り向くと、知り合ってもう二十年以上にもなるジョグ友が気安い笑みを浮かべていた。
「ああ、ノスツ。幸か不幸か仕事も忙しくてね。中々時間が合わないものさ」
モルベスも気安く声を返す。
「子どもができる前はいつも一緒に走っていたんだけどなあ」
子供が小さい頃は意識して交代していたし、大きくなり手が掛からなくなってきた頃には二人とも仕事が忙しくなり、必然的にジョギングの時間も別になっていた。
職業柄、休日も合わないことが多いため、夫婦二人の時間はジョギング以外に充てられることが多い。
「しかし、この道も随分とジョガーが増えたな」
「そりゃあ、あんなニュースが出たらねえ」
「これだけの人が運動不足だと自覚していた、ってことか」
河川敷のコースにはにわかジョガーたちが列をなしている。
数日前まではこの半分もいなかったのだが。
走り始めたばかりの初心者ジョガーは、ちょっと見ればすぐにわかる。走るフォームもそうだが、位置取り、すれ違う人との挨拶など、初心者とベテランでは大きな差があるものだ。
「運動しないと死んでしまうって、本当なのかい?」
ノスツはゼスカが医療系研究者であることは知っているが、話題の奇病の中心にいることまでは知らない。
「……そうだな。ハッキリどの程度かとは言えないが、運動不足は確実に発症を早める。そして、済まないがニュース以上の情報を提供することはできない」
「まあ、機密情報とかあるだろうからな」
曖昧な表情でノスツも頷くが、ゼスカは「そうじゃない」と否定した。
実のところ、全ての情報は公開されているのだ。
真偽が定かではない『憶測』は幾つかあるが、そんなものを公開することはないし、医療研究者として他人に話すこともない。
「とにかく、今は、しっかり運動をするようにとしか言いようが無い、というのが現実なんだ」
他の疾病や怪我で寝込むのもリスクが高い。
元々が健康な成人であれば、普通の風邪や、手足の骨折程度の怪我の場合だと、身体全体としての代謝機能は殆ど衰えない。それどころか治癒のために活発化することもあるのは今更研究するまでも無いことだ。
そのため、健康な者と同等程度の運動が必要と考えられており、その裏付けも取れつつある。
一方で、臓器不全や内臓破裂など、自力での生命維持が困難であるほどの重篤な状態からの発症者は今のところゼロのままである。
「とにかく、健康に気を付けろって事かあ」
半ば他人事のように呟くノスツ。
身近なところに犠牲者がいなければそんなものなのであろうか。
具体的にあれをしろ、これをしてはいけない、というのが無いのも大きいのだろう。
「ニュースでは言っていないことがあるとすれば」
少々の逡巡の後に、ゼスカは言葉をつづけた。
「この辺りは既に感染が広がりきっていると予想されている。運動することで感染を防止できるのではないんだ。だから、今から遠くに引っ越しても、発症は免れない」
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