5-7 ツカベック山の衝動





 ──洞穴の入り口から、ほのかに光が差し込む。


 雨は、夜明けと共に止んだらしい。

 草木に残る雨粒が朝日を浴びて、真珠のようにキラキラと輝き。

 青い空には、晴天を祝う小鳥たちの声が響く。



 その、さえずりを聞きながら。



「………………」



 クレアは、自身の肩に顎を乗せ寝息を立てるエリスを、そっと抱きしめていた。

 媚薬による興奮状態のまま、クレアの肩に噛り付いた彼女は……

 やがて薬の効果が切れると同時に、気絶するように眠りに就いた。


 ……で。

 そんな彼女を離し、硬い地面に転がすわけにもいかず、向かい合うように抱きしめたまま眠らせていたわけだが。

 ……クレアの方は、こんな密着した体勢でおちおち眠れるはずもなく。

 薬が切れてもなお己の理性をフル稼動させて、一夜を明かしたのだった。



 さて。離れるのはなかなかに惜しいが……そろそろ起こすか。

 と、クレアが動こうとした……その時。


 洞穴の奥で、ピシッ、パキパキッ、という音がし、彼はそちらを見遣る。

 チェロを閉じ込めていた氷が、少しずつ割れ始めていた。時間が経ち、エリスの魔法の効果が消えたのだろう。

 割れた氷の間から、青白い発光体が次から次へと、浮かんでは消えてゆき……

 それが完全に消えたかと思うと……中から、疲れた顔をしたチェロが現れた。


 彼女はふらふらよろめきながらクレアに近付くと。

 エリスを抱きしめたままの彼に、物言いたげな視線を向ける。

 クレアはその視線を、にこりと微笑んで受け止めて……

 一言。



「生きていたんですね」

「……初めてマトモに口利くっていうのに、随分とご挨拶じゃない」

「ああ、すみません。そういえばまだ、きちんと自己紹介もしていないのでしたね。クレアルド・ラーヴァンスと申します」

「……チェルロッタ・ストゥルルソンよ。エリスは……大丈夫なの?」



 起きる気配のないエリスの顔を、チェロは心配そうに覗き込む。



「大丈夫です。あなたの持っていた媚薬を口にして、一時的に興奮状態に陥りましたが……今は疲れて眠っているだけです」

「……そう」

「ちなみに私も少しだけ口にしてしまいましたが、彼女に危害は加えていません。……って、こんな体勢で言っても信じてもらえないかもしれませんが……」

「いいえ、知っているわ。見ていたもの」



 遮るように放たれたチェロの言葉に、クレアは驚く。



「……あの状態で、意識があったのですか?」

「ええ。もう、生殺しの生き地獄だったわよ。まさか自分が持ってきたコレのせいで……あんな思いをすることになるだなんてね」



 チェロは、エリスの鞄の横に転がっていた"ヘブンスリリー"の小瓶を拾う。

 僅かに残ったその蜜を、チェロはしばらく見つめてから……

 クレアの方に視線を戻し、




「………………あんた、童貞なの?」




 唐突に、そんなことを尋ねた。

 クレアはぱちくりと、二回ほど瞬きをして、



「………それは、ひょっとしなくても私に聞いているのですか?」

「当たり前でしょ? で、どうなのよ。そんな顔面ぶら下げて、童貞なのかって聞いてんの」

「………質問の意図がわからないのですが……」



 困惑するクレアに、チェロは憮然とした表情を浮かべる。



「……あんな状況で、この娘に手を出さなかったんだもの。ヘタレな童貞野郎なのかと思って」

「あはは。それこそ、初対面なのに随分な言われようですね」



 露骨な悪意をも笑って受け流す彼に、チェロはますます不機嫌そうな顔をする。

 そして、



「………嘘よ」



 俯きながら、ぽつりと。



「……本当は全部、聞いていたわ。あんたのセリフ。

 あんたが何故……この娘を襲わなかったのか」



 そして、ゆっくりと顔を上げ。

 真っ直ぐに彼の目を見つめながら。

 言う。




「…………愛しているのね。このを」




 突きつけられた、その言葉に。

 クレアは…………





「…………え? これ、"愛"なのですか?」




 チェロの作り出した雰囲気をまるでぶち壊すような、軽い口調で聞き返した。

 思わずチェロは、ズコッとコケかける。



「な……なに聞き返してんのよ! 自分の感情でしょ?!」

「しかし、世に聞く"愛"というのは、もっとこう、純粋で清らかなものだと思うのですが……私なんか今この瞬間も、エリスの胸と太ももの感触に全神経を集中させたりなんかしていて……」

「あんたねぇ……今すぐエリスから離れなさい!!」



 クレアのふざけた態度に、チェロは声を荒らげる。

 しかしクレアは離れるどころか、エリスの髪をそっと撫で、



「……確かに、昨晩は我慢できました。ですが……私の中には今も、醜い欲望が渦巻いています。少しでも油断すると、また……この細い首筋に牙を立てる、獣になってしまいそうで。こんな感情を、果たして"愛"と呼んで良いものなのでしょうか?」



 今だ腕の中で眠る彼女を。

 目を細め、見つめながら。



「……こんな人間じゃなかったんですよ。私情を捨て、私欲を捨て、ただ国に忠義を尽くす剣であること……それが、私の全てでした。しかし、エリスに出会ってから変わってしまった。ものすごく、欲深い人間になってしまったのです。最初は、見ているだけでよかった。なのに……いつの間にか、彼女の全てが欲しくなっていた。だから、これは………何なのでしょうか。"愛"だなんて綺麗なものではなく、ただの"欲"なんじゃないかと……そう、思っているのですが」



 そんなことを言うので。

 チェロは……ギリッ、と歯軋りをする。



「……馬鹿ね。このとエロいことがしたい! って気持ちも、愛の一部なのよ。私なんか女同士だから、特にそうだわ。友だちとの違いは何? って言われたら、ってところに、最終的には行き着くもの。好きだから……愛しているから、触れたい。触れられたい。そうすることで、伝わる気持ちもある。だから……私の想いは、友愛じゃなくて、情愛なのよ、って……伝えたかったから……」



 そこで一度、言葉を止め。

 手のひらの中の、小さな瓶に目を落とし、



「………こんなものを使ってでも、エリスに触れたかった。だって、そうでもしないと伝わらないと思ったから。エリスの心なんかお構いなしに、一方的に気持ちを押し付けようとしていた。でも……あんたは、違った。エリスの本心と向き合いたいからと……こんな形では奪えないと、何もしなかった。自分の欲望よりも、エリスの心を優先させたのよ。薬による衝動をも、押さえ込んで。それを"愛"と呼ばずに、何と呼ぶの? それに気付いていないだなんて、ほんと馬鹿だわ、あんた。………だけど」



 ぎゅっ、と。

 媚薬の残る瓶を、キツく握ると。




「…………私はもっと、大馬鹿者」




 クレアに、聞こえるか聞こえないかというくらいの、小さな声で呟く。

 それから、



「………あんたたちは、イリオンに向かっているのよね?」

「ええ。そうですが」

「………そこに、何があるの?」



 今度は鋭い視線を向けながら、チェロが尋ねる。

 クレアは、やはり微笑みを返して、



「……さぁ。私にもまだ、わかりません。それを調べるのが、調査員の仕事ですから」

「まだそのていを装うつもり? あんたやエリスほどの使い手が、単なる治安調査員なワケがないでしょ。何か……あんたたちでないと太刀打ちできないような危険が、待ち受けているんじゃないの?」



 チェロに突き付けられた指摘に。

 クレアは少し、沈黙してから。



「……例え危険があったとしても、エリスのことは護り抜きます。彼女にはあくまでも、美味しいものを巡る旅を楽しんでもらいたいですから」



 否定も肯定もしない、そんな答えを返した。

 しかしそれは、チェロが"肯定"と判断するには、十分な言葉だった。


 チェロは無言のままきびすを返すと、外へ向かって歩き出す。



「何処へ行かれるのですか?」



 クレアに呼び止められ、一度その足を止めて。



「………罪滅ぼしよ」



 低い声で、そう呟くと。

 振り返らないまま、洞穴の外へと足を踏み出した。



 見上げた空は、雲一つない快晴。

 その眩しさに、チェロは目を細め、



「………………」



 エリスの旅の幸せを祈って。

 イリオンの街を目指し、歩き始めた──


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