5-6 ツカベック山の衝動




 ──まさか、自分が脱がされる立場になるとは。



 先ほど上着を脱いでいたため、残り一枚となったシャツのボタンが、彼女の細い指に一つずつ外されてゆくのを。

 クレアはどこか、他人事ひとごとのように眺めていた。


 熱によるものか、それとも興奮によるものなのか、エリスの指は微かに震えている。

 荒い吐息が、徐々に露わになる肌にかかりくすぐったい。

 やがて全てのボタンを外し終えると、エリスはシャツを開きクレアの引き締まった身体を外気に晒した。



 ……さて、とうとう脱がされてしまったわけだが。

 ここから彼女は、どうするつもりなのだろうか。



 と、こんな状況にも関わらず、クレアにはまだ、エリスの指先の行方を見守るほどの余裕があった。

 ……否。『余裕』とは、少し違うかも知れない。


 いや、ぶっちゃけ美味しいよ?美味しすぎるでしょ、こんな展開。願ってもないチャンスだ。

 だけど。


 ……この機に乗じてしまうのは、なんだか違う気がして。


 とにかく、こちらからは手を出さず、彼女の好きなようにさせているのだ。



 時折、外から吹く風に煽られ、焚き火の炎がゆらりと揺れる。

 それに照らされたエリスの赤い瞳が、虚ろげにクレアの身体を見下ろしていた。


 彼女は「ごくっ」とのどを鳴らした後、微かに唇を開け。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 顔を、近付けてきた。




 ……嗚呼、こんな形で、してしまうのか。

 確かに、こうなることを望んでいなかったと言ったら、嘘になるが……

 

 ………彼女の心は、それでいいのか……?




 なんて。

 答えが出ないまま、反射的に目を閉じる………

 ……………と。




 ──がぶっ。



 エリスは、開いた唇を彼の首筋に押し当て。

 吸血鬼のように、かぶりついていた。



「………………へ?」



 完全にキス待ちをしていたクレアは、首元に感じた痛みに、思わず間の抜けた声を上げる。

 戸惑う彼をよそに、エリスは一度口を離すと、今度は肩の辺りに齧りつく。

 ガジガジと甘噛みされる感触を肩に感じながら、クレアは。



 ……………え?

 『食べたい』って………そういうこと??



 と、彼女の想定外の行動に、暫し混乱する。



「……あ、あの……エリス? 一体なにを……」



 夢中で歯を立てるエリスに、恐る恐る聞いてみる。

 すると彼女は顔を上げ、相変わらず熱を帯びた瞳でクレアを見つめ、



「……ごめ………あんたのこと、たべたくて……おさえらんない……」



 荒い息の合間に、途切れ途切れになりながらもそう答えた。



 ……恐らくだが。

 が乏しいあまり、これが性的な衝動で、どうすれば満たされるのかが、彼女にはわからないのだろう。

 だから、食欲と混同してしまっている、とか……?

 或いは、彼女の中にこうした類いの性癖があるのかもしれないが……


 当たり前だが、こんな風に他人の身体を甘噛みするだけで解消されるような衝動でもあるまい。


 ……いっそ彼女の身体に触れ、欲求を満たしてやった方がいいのでは…?

 こんなに息を荒くして……可哀想だ。然るべき場所を、然るべき方法でいじってやれば、少しは楽に……

 いや、そんな薬の作用につけ込むような真似、するわけには……



 ………と、頭の中でぐるぐると葛藤していると。




 ──ドクンッ。




 クレアの心臓が、一際大きく脈打つ。

 同時に、身体の中心から沸き上がる、狂おしい程の熱。


 ……きたか。

 ほんの僅かではあったが、クレアもあの媚薬を口にしてしまったのだ。

 耐性がある自分には効かないのでは、と思っていたが……想像以上に強力な代物だったらしい。

 全身が、精神が、みるみる内に、欲望に支配されてゆくのがわかる。



「………これは……」



 なかなかに、やばい。

 と、クレアが額に汗を滲ませると。



 ──かぷっ。



 再び、エリスがクレアの首筋に噛み付いてきた。

 瞬間、



「……ぅあっ……」



 先ほど噛まれた時とは違う感覚が、クレアを襲う。

 脳天が痺れるような……甘い感覚。

 ……まずい。これは、非常にまずい。

 噛まれただけで、こんな……情けない声が出るくらいに……



 …………キモチイイ。




「ぇ、エリス……やめ……」



 彼女の肩を押さえ制止しようとするが、エリスは止まらない。

 それどころか、ますます彼に顔を近付け……

 耳に、甘噛みをしてきた。



「く……っ、ぅ……」



 目の前がチカチカするような快感に、クレアは再び声を漏らす。




 耳に直接感じる、彼女の熱い吐息。

 軟骨を口内で弄ばれる感覚。

 脳髄に響く、くちゅくちゅという湿った音。


 加えて。

 すぐ目の前にある彼女の白い首筋と。

 その下に覗く、柔らかそうな胸の谷間。

 そこから漂う、なんとも言えない甘い香り。



 ……嗚呼、くそ。

 こんなん、薬がなくったって充分やばいのに。



 クレアが暴力的なまでの性衝動に耐えていると、エリスは耳から唇を離し、今度は鎖骨、胸、腹と順番に齧ってゆく。

 そして、



「……クレアぁ…」



 彼の身体を貪る、荒い息の合間に、




「…………たべ…て……?」




 ふいに発せられた、その言葉に。

 クレアは、目を見開く。


 エリスは、クレアの腰に跨りながら。

 潤んだ瞳で、切なげに懇願する。



「………昨日、指を舐めた時みたいに…………あたしのことも………たべて……?」

「…………ッ」



 なんて……なんて甘い誘惑。

 クレアは思わず、息を飲む。



 ……きっと彼女は言葉通り、身体を甘噛みしたり、舐めたりすることを要求しているのだろう。

 今、自分にしているみたいに。

 快感が得られる方法を、他に知らないからだ。

 決して、自分と……"そうなりたい"わけではない。


 ………けど。




「………本当に、いいんですか?」



 こんな表情で、こんなことを言われて。

 突き放せという方が、酷である。


 その問いかけに、エリスはこくんと頷く。

 クレアはエリスを膝に乗せたまま上半身を起こし、向かい合うようにして座り、



「………どうなっても……知りませんよ……?」



 彼女の瞳を、じっと見つめてから。

 そっと、その首筋に近付き……


 歯を、立てた。

 刹那、



「……んぁっ……」



 エリスの口から、甘い嬌声が漏れる。

 同時に、びくんっと跳ね上がる身体。

 密着した腰が、悩ましげに揺れる。


 そんな彼女の反応に、クレアは。

 頭の中が、欲望で埋め尽くされてゆくのを感じた。




 嗚呼、今すぐにでもキスしてやりたい。

 唇をこじ開け、舌を差し込み、深く深く絡めたい。

 服を剥いで、胸を弄び、脚を開かせて。

 指で、舌で、散々彼女を啼かせてから……

 それから………


 それが、今ならできる。

 たぶん、簡単にできてしまう。

 そして、その方が互いに楽になれるだろう。



 ………だけど……




 ────本当に、それでいいのか……?





「…………ぁあああっ! クソッ!!」

「きゃ……っ!」



 クレアは、何かを振り払うように叫ぶと。

 エリスの身体を、ぎゅうぅっ、と力いっぱい抱きしめた。

 そして、



「……ごめん、エリス……俺の肩、思いっきり噛んでいいから…………それで、我慢して……?」



 エリスを、そして自分自身を押さえ込むように。

 強く強く、抱きしめながら。

 言う。



「………やっぱり、だめだ。こんな状態のエリスに手を出すなんて……できるわけがない」



 それから、少し自嘲気味に笑う。




「……エリスが言う通り、俺、変態なんだ。薬で乱れた君よりも……いつもの君の、困った顔や、恥ずかしがる顔を見る方が……興奮する。本当の君の……本当の心を、乱したいんだよ。薬なんかの力で、簡単に手に入れてたまるか。だから……こんな、君の心を置いてけぼりにした状態で……………君を、奪いたくない」




 その、普段の口調とは似ても似つかない、余裕のない声を。

 エリスは、朦朧とする意識の中で、静かに聞いていた。

 クレアが続ける。



「……じきに、薬の効果が切れる。それまで、俺の肩を噛んでていいから……噛みちぎってもいいから………どうかこのまま、おとなしくしていてもらえませんか? ただでさえ貴女は魅力的なのですから、これ以上何かされたら……もう、我慢できそうにありません」



 言いながら、だんだんと冷静な思考が戻ってくる。

 媚薬の効果が、切れ始めているのだ。

 エリスの方は、耐性もない上、結構な量を摂取してしまったため、薬が切れるのにもう少し時間がかかるかもしれないが……



「………エリス、お願いします。私をまだ……貴女の番犬で、いさせてください」


 

 抱きしめる腕にさらに力を込め、縋るように言うと。

 彼女は、



「…………………」



 無言のまま。

 目の前にあるクレアの肩に。

 がぶっと、噛り付いた。


 彼は、頭に手を添え、



「……いい子ですね」



 肌に食い込む犬歯の感触に、ほんの少しの快感と、痛みと、愛おしさを感じながら。


 彼女の髪を、そっと撫でた。


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