6 山あいにて
──チェロが去った、洞穴の中。
クレアは一人、先ほどの言葉を思い返していた。
『………愛しているのね。この娘を』
『それを"愛"と呼ばずに、何と呼ぶの?』
「………………」
この感情の名が、ずっとわからないでいた。
だから、醜い"欲"なのだと、そう思っていた。
しかし……
これは、"愛"と呼べるもので。
どうやら自分は、彼女を愛してしまっているらしい。
あらためて自問してみても、なんとも不思議な感情だ。
エリスに、思うままに生きて欲しいと思う一方で。
全てを自分のモノにしてしまいたいという気持ちも、確かにある。
美しくて、醜い。
二律背反な感情。
それが、"愛"。
そう認識すると同時に、クレアは「なるほど」と思う。
エリスを愛していると自覚した途端、その気持ちを彼女に伝えたくて、仕方がなくなってきたのだ。
だからチェロは、あれほどまでにエリスに付き纏っていたのか。
エリスのことをどれほど愛しているのか、伝えたくて。
『愛してる』、だなんて。
烏滸がましくて、とても口にはできないけれど。
………ぎゅっ。
これで、少しは伝わるだろうか?
と、未だ腕の中で眠る彼女を抱きしめる。
………すると。
──がぶぅっ!!
エリスが思いっきり、彼の肩に噛み付いてきた!
「……ってぇええっ!!」
クレアがたまらず声を上げると、彼女は「んぁ」と目を開けて、
「あ、ごめ、間違えた……おはよ」
「お……おはようございます」
「………あれ? あたし、なんであんたの上で寝てんの?」
肩の痛みに耐えながら笑顔を向けるクレアを、エリスは目をこすりながら眺める。
「ひょっとして……覚えていないのですか? 昨日の夜のこと」
「昨日の、夜? たしか……お魚を焼いて、食べて、それから………………………あ」
口を開け、硬直したかと思うと。
その顔を、みるみる内に赤く染め上げ、
「あ……あわわわわ………あああその、あの、ご、ごめん! 変なことして!! 痛かったでしょ? その……あちこち、噛んじゃって」
バッ! とクレアから離れ、平謝りをするエリス。
彼はそれに、首を横に振り、
「いいえ、謝る必要はありません。チェロさんから奪ったあの蜜のせいで、あんな風になってしまったのですから。貴女は悪くありませんよ」
「えっ? あれ、ただの蜜じゃなかったの?」
「ええ。強力な媚薬だったようです」
「……びやく?」
「えっちな気分になるお薬のことですよ」
「え………っ?!」
顔どころか、全身真っ赤にするエリスを見て。
クレアの悪戯心が、うずうずと
「……エリス、えっちな気分になると、あんな風になるんですね」
「は、はぁっ?! 別にそんなヘンな気分になんかなってないし!!」
「好きなんですか? 噛むのも、噛まれるのも」
「だから! そんなんじゃないから!!」
「そうでしょうか……私に首筋を噛まれた時、随分と可愛らしい声を上げていましたよ? 普段、私のことを散々『変態』と罵っているくせに……」
──ニヤッ。
と、いやらしい笑みを浮かべて。
「……噛まれて、感じてしまうなんて。エリスもなかなかの、変態なのですね」
言った。
さぁ、飛んで来るのは火の玉か。それとも電撃か。
クレアは怒りの攻撃魔法が飛んでくるのを覚悟して、すぐに身構える……が。
目の前のエリスは、魔法陣を描くどころか。
「……………ッ!」
顔を赤くしたまま、しおしおと肩を落として、小さくうずくまってしまった。
……これは……少し、いじめすぎたか。
「すみません、エリス。冗談ですよ」
「……あたし、ヘンタイなのかな……どっかおかしいのかな……」
「そんなことありません。薬のせいなのですから、誰でもああなりますよ」
「……あんたのこと、あんなに噛んだんだもん……何言われても文句言えない……引かれて当然……」
「引くだなんてとんでもない。貴女が何をしたって、嫌いになんてなるはずがありません。だって、私は……」
私は……
貴女を、愛しているから。
そう、言ってしまおうかとも思ったが。
まだ、もう少し、大事にとっておきたくて。
「………貴女の、忠実なる番犬ですから」
いつもの笑顔で、いつものように、言った。
エリスは。
その、『番犬』というフレーズに。
「…………あ」
思い出す。
熱に浮かされ、朦朧とする意識の中──
『こんな、君の心を置いてけぼりにした状態で……………君を、奪いたくない』
『私をまだ……貴女の番犬で、いさせてください』
いつもと違う口調。
いつもと違う、余裕のない声。
振り絞るように発せられた、その言葉を。
……そうだ。
たしか、彼と旅を始めたあの日も、こんなことを言っていたっけ。
『これからも貴女を護る番犬でいたいのですが……いつか抑え切れなくなって、
………やっぱり、あんたは悪い人間じゃなかった。
ちょっと……いや、かなりヘンタイな部分もあるけれど。
美味しいものは半分こしようと言ってくれて。
あたしが食べたいと言ったものを手に入れるため、全力で頑張ってくれたりもした。
昨夜のあたしの失態も……何もせずに、受け止めてくれて。
……たぶん、あたしのことを、すごく大切に思ってくれているのだ。
だから、いつの間にか。
そんな彼のことを、あたしも……
あたしも…………
……ん? 『あたしも』、なんだ??
…………いい人。
そう、いい人だなって思う。うん。
などと。
エリスは、何故だか鼓動の早まる胸を、そっと押さえながら。
「……ありがと。とりあえず、一刻も早く昨日のことは忘れてくれると助かる」
「はは、何を言っているのですか。死んでも忘れませんよ。当分の間、夜のオカズにさせていただきます」
「お、おかず…? こんなんでご飯が進むだなんて……意味わかんない。あんたこそやっぱりヘンタイだわ!」
「ええ、そうなんです。だから、また噛みたくなったらおっしゃってくださいね。……噛まれたくなった時も」
「………っ! だぁから! ちがうってばぁっ!!」
クレアのセクハラ発言に、エリスは思わず声を張り上げる………と。
………ぐぅぅうぅ。
彼女の腹の虫が、悲痛な叫び声を上げた。
「ああぁ……お腹すいた……」
「そう言えば昨日は、まともな食事をしていないのでしたね。早く山を降りて、次の街で朝食を食べましょう」
「賛成! 超賛成!! そうと決まれば、早速しゅっぱーつ!!」
エリスは自身の荷物を素早く手にすると、あっという間に洞穴の外へと飛び出して行く。
その背中を目で追いながら、クレアもようやく痺れの取れた両足でゆっくりと立ち上がり、同じく外へ出る。
雨上がりの朝の空気は、美味しいと感じられるほどに澄んでいた。
思わず深呼吸をして、肺いっぱいに味わう。
………が。
空気なんかで、腹が膨れるわけもなく。
こんなものより早く美味い飯を食いたいと、そう思ってしまうほどには。
すっかり、エリスに毒されているなぁ、なんて。
少し、口元に笑みを浮かべてから。
「──ところで、エリス。今日は、何を召し上がるご予定ですか?」
どんどん先へと進む後ろ姿に向かって。
この幸せな空腹感の行方を、尋ねてみた。
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