3-2 リリーベルグの夜




 一方、盗聴されていることなど知る由も無いエリスは。


 シャワーを浴び、パジャマに着替え。

 自身が発見し開発した暖気の精霊・ウォルフの魔法を使って髪を乾かし。


 ベッドにうつ伏せに寝転がると、メモ帳代わりにしている『魔導大全』を広げ、今日食べた料理のレポートを付箋にまとめ始めた。

 美味しかった料理の見た目や味を思い出しながら文字に起こしてゆくこの時間は、エリスにとって至福のひと時なのである。



「ふふーん♪ 今日食べたものも、ぜーんぶ最っ高に美味しかったなぁーっ♡」



 完成した今日の食事の記録を眺め、エリスはにっこりと笑う。

 そして、この仕事に就くことができて本当によかったと、しみじみ思う。(と言っても、まだ何の職務も果たしてはいないが……)


 魔法で望む食べ物が生み出せないことがわかった時には、この世の終わりだというくらいに絶望したけれど……

 こうして働きながらも自由に、様々なお店の味に触れることができるのは、結果的に大正解だった。


 それに……



「…………………」



 ふと、エリスは白い壁……クレアのいる部屋の方に、視線を向ける。



『治安調査員になることを許可する。ただし、条件として同行者を一名つける』



 学院アカデミーの理事長にそう言われた時には、「お堅い監視役をつけられるのだろう」とそれなりの覚悟をしていたし、馴れ合うつもりもなかった。

 しかし、実際に同行者となったあの男は、国の金で食べ歩くことを咎めるどころか、こちらの思うままにさせてくれていて。

 さらには、美味しいご飯を食べることを一緒に楽しんでくれている。


 ……たまに、ちょっと何考えてるのかわからない変態チックな部分はあるけれど。


 彼も過去にいろいろあって、この末端の仕事に回されてきたようだ。悪い人間ではないし、これからも一緒に旅の歩を進めるのだから、仲良くするに越したことはない。


 そこで。

 彼女は昨日、クレアに言われた言葉を思い出す。



『これからも一緒に、美味しいものをたくさん、分かち合わせてくださいね』



「………………………」



 ……うう、だめだ。何故だか頬が緩んでしまいそうになる。

 そう言ってもらえたことが、なんというか………素直に、嬉しかったらしい。


 女手一つで自分を育てた母親は夜まで働き詰めで、ゆっくりと一緒に食事を楽しむ余裕もなかった。

 タブレスの親戚宅では、良くしてもらってはいたが……居候の身ゆえ、どこか遠慮しながらの食事であった。

 学院アカデミーにいた頃は友だちも作らず勉強に没頭していたから、必然的にいつも一人で食事をしていた。


 だから、こんな風に誰かとゆっくり食事をすることが、人生においてほとんど初めてで。

 そしてそれは、一人でいた頃よりもずっと楽しく、美味しく感じられるものであることがわかったから。

 ……彼に、これからも一緒に食べようと言ってもらえたことが、想像以上に嬉しかったのだ。



「………えへへ」



 嗚呼、明日の朝ご飯も、楽しみだなぁ。

 一緒に食べる相手がいることが、これほどいいものだとは。


 ……しかし。



「……やっぱり、なぁんかどこかで会ったような気がするのよね………」



 昨日、街道で馬車と激突する寸前。守ってもらった際に感じた匂いに、どうにも覚えがあるような、ないような……


 …………まさか。

 本当に、あたしのストーカーだったりして……



「……………いや、ないない」



 エリスは首を横に振って。

 もう一度、今日の分をまとめたページを眺めてから、『魔導大全メモちょう』を閉じ。

 部屋の明かりを消して、ベッドに潜り、目を閉じた。


 明日もお腹いっぱい、美味しいものが食べられますように──






 * * * *






 ──よし、寝たな。


 壁に聴診器を当て、エリスの部屋の様子を伺っていたクレアは、静かに頷いた。

 ベッドに入ってから何度か寝返りを打ったようだが、衣擦れの音が完全に止まった。どうやら深い眠りに入ったらしい。

 もう幾度となくエリスの部屋へ忍び込み、寝込みを見計らっては"秘密の身体測定"をおこなってきたのだ。彼女の睡眠サイクルは、完全に把握済みである。


 クレアは意識を隠密モードに切り替え、足音と気配を完全に殺して、自室から廊下へと出る。

 他にも数名、ここに宿泊している客がいるようだったが、時刻は既に深夜を回っている。遭遇する可能性はゼロに等しい。


 エリスの部屋の前に立つと、クレアは懐から先の曲がった針金を取り出す。所謂いわゆる、ピッキングというやつである。

 フロントからこっそり合鍵を拝借してもよかったが、エリスは明日、この宿で取る朝食を心底楽しみにしている。万が一、鍵を盗み出したことがバレては、宿を追い出されかねない。だったら、自分の力で開けるまでだ。


 ドアに耳を当て、ゆっくりと鍵穴に針金を差し込む。内部の音を聞きながら何度か動かしてやると、ものの数秒で鍵が開いた。アストライアーでの任務において、より厳重に施錠された施設や建物へ侵入してきた彼にしてみれば、古びた宿屋の一室など赤子の手をひねるより容易く開けられる。


 音を立てないよう慎重にドアノブをひねり、開ける。案の定、部屋の中は真っ暗だ。学院アカデミーの寮にいた時もそうだったが、エリスは寝る時に部屋を完全に暗くするタイプである。夜目が利くクレアにとって、むしろ好都合だった。


 家具の配置などは、クレアの部屋のそれとほとんど同じだ。入って左手にシャワー室とトイレ、右手に鏡台、そして正面奥にベッドがある。

 ベッドにそっと近付き、覗き込むと……毛布の中で横向きに、丸まるようにして眠るエリスの姿があった。


 すぐ横にしゃがみ、しばらくその寝顔を見つめる。

 純粋に眺めていたいという気持ちもあるが、呼吸のリズムを見ているのだ。彼女は熟睡すると仰向けになる癖があるから、横向きの状態では眠りが浅いのではと思ったが……うん、しっかりと眠っているな。


 しかし、問題はここからである。エリスは今、布団にくるまって、横向きで眠っている。

 身体にメジャーを当てるには……布団を捲って、仰向けにする必要があるのだが。



 ……さぁ。どうやって、眠っている彼女を仰向けにするか。

 クレアには、策があった。



 彼はズボンのポケットから、何かを取り出す。それは……銀紙に包まれた、チョコレートだ。

 その甘い香りで彼女を誘い、寝返りを促そうという作戦である。


 クレアは銀紙を破き、チョコレートを剥き出しにする。そしてそれを、エリスの鼻へ近付ける。と……



 ………すんすん。



 さっそく彼女が、寝たままの状態で反応する。以前、ショートケーキの匂いがついた指をしゃぶられたことがあったが……恐るべき嗅覚、そして食欲である。


 クレアはそのままチョコレートを動かし、まるで糸で人形を操るようにしてエリスを誘導する。

 彼女は匂いを求めるように身体の向きを変え……狙い通り、仰向けにすることに成功した。副産物として、布団も少し捲れてくれた。パジャマの裾から、白い足首が覗いている。

 クレアは内心ガッツポーズをし、チョコレートを引っ込め、代わりにメジャーを取り出そうとする………が、その時。



 ──ニャアァオ。



 窓の外からそんな声が聞こえ、クレアは思わず動きを止める。


 今のは……猫?


 その声が耳に入ったのか、エリスは少しだけ鬱陶しそうに顔をしかめるが……瞼は閉じられたままである。

 よし、このまま起きないでいてくれ。クレアがそう願うも、窓の外からは再び、



 ──ニャアァオゥゥ。



 猫の、鳴き声。しかもさっきより少し大きい。

 ちょ、まじふざけんな。こんなんで起こされたらたまったモンじゃないぞ。

 窓を開けて追い払ってやろうか……いや、その音で起こしてしまう可能性もある。


 これは……一旦引くべきか。

 と、クレアが迷っていると、次に声を上げたのは……



「………かえして………それ、あたしの………」



 ベッドに横たわるエリスだった。

 クレアはビクッ!と身体を強張こわばらせる。


 しかしそこから彼女が動く気配がないので、そぉっと顔を覗き込むと……案の定、瞼は閉じられたまま。どうやら寝言だったようだ。

 クレアがほっと胸をなで下ろした………その直後!



 ──ゥミャアァアアアッ!!



 外から一際大きな鳴き声が聞こえてくる!

 直後、エリスがむくりと起き上がり、



「だぁかぁらぁ……それ、あたしのチョコだっつってんでしょ! この泥棒猫!!」



 叫びながら、クレアに飛びかかってきた!!


 って、どんな夢?! 完全に寝ぼけてるよね?!


 突然のことにクレアは避けることができず……そのまま床へ、後ろ向きに倒れ込んだ。

 エリスはその上に馬乗りになり、チョコレートを探すようにクレアの服を脱がせ始める……が、しばらくして。



「……………あり?」



 ぴた、と手を止め、そんな声を上げた。

 クレアが恐る恐る彼女の顔を見上げると……

 目が開いている。どうやら、完全に覚醒したようだ。

 そして彼女は、目の前の状況を確認するかのように、ゆっくりとその瞳を動かし始めた。


 エリスは考える。

 ここは、間違いなく自分の宿部屋。

 なのに、クレアがいて。

 しかも、服がはだけた状態で、自分に押し倒されていて。



「……………………………」



 いや、わからん。どういう状態??

 なんか猫におやつを奪われる夢を見ていた気がするが……


 とりあえず、鍵をかけたはずの部屋にこの男がいるのはおかしいので。

 エリスはベッド脇のサイドテーブルから、分厚い『魔導大全』を手に取ると。



「えいっ」



 ボカッ!と、クレアの頭をしたたかに殴りつけておいた。

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