2.5 セイレーンの街(裏)




 時間は少しさかのぼり。

 エリスとクレアがまだ、セイレーンの街を目指し街道を歩いている時のこと。



「ほら、はやく! 若い男女の二人組を追って!!」



 チェロは馬を操る御者に向かって、必死の形相で叫んでいた。




 ──エリスが王都を出発した後。

 チェロは見回りに来た門兵に拘束を解いてもらい、大急ぎで乗合馬車を手配した。


 最後に耳にした、あのストーカーを名乗る男との会話によれば、エリスはオーエンズ領にあるイリオンという街を目指しているらしい。

 ならば、道は一本である。隣のエステルア領へと伸びる街道を進んでゆくに違いない。

 今から馬車で追えば間に合う。あのヘラヘラしたいけ好かない男から、エリスを奪還するのだ。


 そんな強い決意を胸に、チェロは馬車へ乗り込んだ。

 しかし手配したその馬車、御者も馬も、お世辞にも若いとは言えず、人の足で歩くのと変わらないのでは?というようなまったりとした速度で進み始めたものだから、チェロはいよいよ焦った。

 こんなことでは日が暮れてしまう。ストーカー男の毒牙にかかる前に、エリスを連れ戻さなければならないのに。



「もうっ! もっと鞭を打ちなさいよ!! 一人の少女の純潔がかかっているのよ?! 馬を走らせて!!」

「そう言われましても……私もこいつも老いぼれで、これ以上速くなんて無理ですよ」



 箱馬車の中から抗議するチェロに、老いた御者は困り顔で返事をする。

 チェロは奥歯を軋ませ、「斯くなる上は」と白衣の内側にぶら下げた精霊の小瓶を一つ開け、



「ユグノ! 鞭になりなさい!!」



 解き放った樹木の精霊に命ずる。すると、小瓶から溢れた光はみるみる内に姿を変え……

 植物の蔓のような、しなやかな鞭の形状を成した。

 それを握りしめ、チェロは馬車の窓から身を乗り出すと、



「年寄りだってなんだって、やってみなきゃわかんないでしょ! ほら、行くのよ!!」



 ハエが止まりそうな速度で、のんびりと歩いている馬の尻に向かって……

 思いっきり、鞭を振り下ろした。すると、



「!! ヒヒィィイン!!」



 突然の痛みに、老馬は雷に撃たれたような声を上げ、そのままものすごい勢いで走り始めた!



「お、おい! グレイス、落ち着け!!」



 御者が手綱にしがみつきながら馬をなだめようとするが、効果なし。グレイスというらしい老馬は、痛みから逃げるように猛ダッシュを続けるばかりである。

 チェロは馬車の窓から顔を出し、風に長い金髪をなびかせながら、



「ひゃっほぉう! ほらね、やればできるじゃない!」



 と、楽しげに笑った。

 その後も定期的に鞭を入れ、蟻も逃げ出すような速度でガンガン街道を進んで行くと……



「……!! 待って! あれは……」



 前方に、一組の男女が歩いているのが見えてきた。

 あの後ろ姿……間違いない、エリスだ!



「よし、追いついたわ! グレイス、速度を落として!!」



 チェロが意気揚々と命じるが、老馬は一向に速度を落とす気配がない。

 そのまま、みるみる内にエリスへと迫ってゆき……



「ちょっ、ちょっと! このままだと轢いてしまうわ! 早く止めて!!」

「いや無理ですよぉお! まったく言うことを聞きません!!」



 手綱を握る御者の言葉に、チェロは顔から血の気が引くのを感じる。

 そんな……エリスを取り戻すどころか、取り返しのつかないことになってしまう……!!



「エリス避けて! 避けてぇぇええっ!!」



 ガタゴトという音の合間に、チェロは涙目になって声を張り上げる。

 すると……先に反応したのはクレアの方だった。気付くのが遅れ、今まさにこちらへと振り返ったエリスに抱きつくようにして、そのまま道路脇の茂みへと飛び込んだのだ。



「なっ……!!」



 間一髪、あの男のお陰でエリスは轢かれずに済んだ。が……

 アイツ、どさくさに紛れてあの娘を押し倒したわね!? しかも、なかなか起き上がらない! どういうこと?! 一体ナニをしているの?! こんな野外で!!


 と、どんどん遠ざかって行く後方を見つめながら、チェロはわなわなと震え、



「止まりなさい! 止まりなさいったら! お願い、止めてーっ!!」



 走り続けるグレイスに向かって、虚しく叫び続けたのだった──






 ──走り疲れたグレイスが足を止めたのは、セイレーンの街とその隣街・リリーベルグとのちょうどさかい。何もない小川のほとりだった。


 もう夕刻である。どう考えても進み過ぎた。エリスたちは今頃、一つ前のセイレーンで宿を取っていることだろう。

 来た道を馬車で戻るよう御者に頼むも、グレイスは小川の水を飲むばかりで一歩も動こうとしない。まぁ、当然と言えば当然である。文字通り、老体に鞭打って全力疾走したのだから。

 「どうだ、お望み通り走ってやったぞ」とでも言わんばかりにブルルッと鼻を鳴らす老馬を尻目に、チェロは仕方なくここまでの馬車代を御者に支払い、別れを告げ、リリーベルグの街へと向かった。


 エリスが最短ルートでイリオンの街を目指しているのなら、次に通りかかるのは恐らくリリーベルグだ。

 明日、彼女がこの街を通ることを信じて、今夜は宿を取ろう。



 程なくしてリリーベルグの街に辿り着いたチェロは、手頃な宿を押さえると、すぐに酒場へと繰り出した。何もかも上手くいかなくて、もう飲まなきゃやっていられないのだ。

 メイン通りに面した、大勢の人で賑わう大衆酒場へと足を踏み入れる。まだ日は沈みきっていないが、既に酔っ払いたちがご機嫌な声を上げ騒いでいた。


 彼女はカウンター席に座ると、ほぼ毎晩飲んでいるサリーチェ・ルヴィニヨンなる赤ワインと、生ハムやチーズや揚げ物といったつまみを手当たり次第に注文した。

 そして、それらが運ばれて来るなり、半ばヤケクソに、がっつくように飲み食いを始めた。



 くそう。なんでこんなことに。

 私はただ、エリスのことを一番に考えてきただけなのだ。


 あのは、"中央セントラル"にいるべきだ。研究所に入れば、間違いなくトップクラスの地位につける。

 それだけじゃない。あの特異体質は、価値が解る者なら皆のどから手が出るほど欲しがるはずのものだ。

 もし、悪意のある人間が彼女の能力を知ったなら……どんな危険な目に合うか、知れたものではない。


 それなのに国の上層部ときたら、あの娘を野放しにするような仕事に就かせるなんて……どう考えてもおかしい。国は、あの娘を何か重要なことに利用しようとしているに違いない。あの、ストーカーを名乗るいけ好かない男を通じて……


 だから必死で止めたのに。エリスは、行ってしまった。

 何故だ。あんな信用ならない男よりも、私の方がずっと付き合いが長いのに。私の方が、ずっと……




「……エリスと二人で…………魔法少女、やりたかったのに………っ」




 ダンッ! とカウンターテーブルに拳を振り下ろし、チェロは涙を流す。


 エリスと共に、魔法の力でこの国の平和を守る。それはチェロが、自作の官能小説に描くほどに夢見たシチュエーションだった。

 それを、どこの馬とも知れないあの男が……治安調査員という形で、まんまとエリスの相棒ポジションを奪っていったのだ。

 チェロにはそれが、何より我慢ならなかった。



「ああ、エリス……今ごろ何しているのかしら……あの男に、ヘンなことされていなきゃいいけれど……」



 と、エリスの純潔がクレアに奪われるところを想像して……

 チェロはワイングラスを握りしめながら、さめざめと泣いた。


 すると、突然、



「お姉さん。どうして泣いているんだい? 失恋でもしたのかな?」



 真横から声をかけられ、チェロは顔を上げる。いつの間にやら隣の席に座っていたのは……スキンヘッドに黒いサングラスをかけた、怪しい雰囲気の男だった。



「………なによ。ナンパなら他所よそでやって頂戴」

「あらら、そりゃ残念。なら、せめてお近付きの印に……」



 言いながら男は、ジャケットのポケットから何かを取り出し、チェロの前に差し出す。

 それは、水飴のようにとろみのある半透明の液体が入った、小さな瓶だった。



「滅多に手に入らない希少な品なんだが……"ヘブンスリリー"って花、知ってる? これ、その花の蜜なんだ」



 などと、チェロだけに聞こえるよう声を潜めて言う。

 ヘブンスリリー。聞いたことのない花の名だ。チェロは首を横に振る。すると男は、いやらしい笑みを浮かべて、



「……所謂いわゆる、媚薬だよ。口にした人間の性的興奮を、猛烈に刺激する作用を持つ。もしお姉さんが、上手くいかない恋に悩み涙しているのなら……恋のお相手に使ってみたらどうだい? この、"ヘブンスリリー"を。お姉さん美人だから、安くしとくぜ」

「…………………」



 なるほど。どうやらこの男、コレを生業なりわいにしているらしい。

 効果があるのかもわからない、仮にあったとしても違法スレスレな、いかがわしい薬……そんなものを買う人間が、果たしているのだろうか。いや、こうして商売できているということは、こんな風に酒場で声をかけまくれば一定数の買い手がつくということなのかもしれない。


 ……現に。

 普段のチェロなら、「馬鹿言わないで」と一蹴しているのだろうが、今はこの状況である。エリスの気を引けるのなら、悪魔にでも魂を売るくらいの心持ちなのだ。

 ……だから。



「………いくら?」



 チェロは、涙で濡らした顔を上げ。



「…………いいわよ、買ってやろうじゃない。その代わり、効果がなかったら……返品だけじゃ済まないからね」



 ニヤリと笑う男の顔を、睨みつけるようにそう言ったのだった。


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