『クジラ』の儀式⑥

 校庭に浮かび上がった『クジラ』の地上絵は、しばらく霧を噴き出した後に一瞬でかき消された。


 星野は人気のない校舎からそれを見降ろし、手にした『煙草』を携帯灰皿に押し付ける。


「消えたか……くそ、後手に回るとバタバタして追えないな」


 人気のない、とは言っても教職員の中にはまだ校内に残っている者もいる時間帯だ。強大な霊の気配を感じてすぐに、星野はそうした残業組を職員室に集めて『煙草』で眠らせた。これで校庭の地上絵の目撃者はおらず、万が一見られていても夢だとごまかせる。


 『クモ』の地上絵が出現した際は対応が遅れたが、『ハチドリ』以降は上手く対処している。霊障から人を守るということは、その存在を隠すことと同義。学園で地上絵のことを知っているのは、白鷺と星野だけのはずだった。


 星野は窓に肘をかけ、新しく取り出した一本に火をつけた。


 星野の『煙草』、厳密には一般的な煙草の成分は入っていないそれは、内部のフィルターによって様々な効果を得る。人を眠らせたり、霊を遠ざけたり、霊的なものに対する探知にも使える便利な支給品だ。


 それでも邪霊の本体を見つけられない。探知に引っかからない挙句、圧倒的に情報が足りないのだ。先程の『クジラ』の気配も、残業組の対処をしている間に消えてしまった。


 白鷺家がひた隠す邪霊の存在は、随分前から特務扱いでマークされており、それがこの学園に封じられていることも分かっている。


 しかし星野はそれ以上の情報を得ることができていない。この学園に派遣されて三年目。このまま後手に回るわけにはいかない中で現れた『転校生』。


「本野アキラ……」


 所属を明かした以上、こちら側に引き込むしかない。星野のになってもらわないと立場上困るのは明白だ。


「巻き込んでしまうが、悪く思わないでくれよ」


 紫煙をくゆらせながら、星野はぽつりと呟いた。




*



「人が学校休んでる間になんでそんなに生傷増えてるの?」


「あはは。ナギサは体調どう? もう大丈夫なの?」


「大丈夫だけど大丈夫そうじゃない人が約二名程いるんですが」


「えー誰だろう」


「俺に振るなよ」


「あんた達のことに決まってんでしょーが!」


 『クジラ』の儀式から一夜明け、学園にはいつもと変わらない日常風景があった。


 昨晩、地上に這い出たアキラたちは白鷺によって問答無用で本田医院に放り込まれた。事情を知る本田は、アキラとトーマの体のあちこちにできたすり傷やら内出血を手早く処置し、意識のないタツミには渋い顔を向けていた。


「次に目を覚ました時に、彼の人格が神崎くんである確証はない。起きるまで僕がついています」


 神妙に発せられたその言葉に白鷺が頷くのを見て、アキラもここは本田に任せるのが最適だと思い、従うことにした。その後ぐったりとしたトーマが家に帰るのを見届け、アキラは白鷺に家まで送られそのまま泥に沈むように眠りに落ちたのだった。



「アキラちゃん聞いてる?」


 昨日の出来事に思いを馳せていたアキラはぎくりと肩を跳ねさせる。


「何してるのか知らないけど、怪我しすぎでしょ!」


 疲れの抜け切らない二人に体調不良から完全復活した様子のナギサからの鋭い突っ込みが入る。


 それもそのはず、アキラは首と手に包帯が増えているし、トーマは見える範囲の至る所にガーゼと絆創膏がちらついていた。


 それに加えて、疲れ切った顔が並んでいればナギサも黙ってはいられなかった。


「ねえ、本当に部活でそんな怪我してるの? まさか……例の不審者に襲われたとか言わないよね」


「それはないない」


「それって何ー!?」


「あーもう、何でもねーよ。和屋、授業始まるぞ」


 そそくさと授業の準備をし始める二人にナギサは拗ねるように口を尖らせ自分の席につく。その様子にアキラは横の席からこっそりと声をかけた。


「心配かけてごめん」


「……休んだ日のノート貸してくれたら許す」


「もちろん!」


 つんとそっぽを向きながら言うナギサに、アキラは眉を下げて微笑んだ。


 何事もなく過ごすことができる学校生活を望んで二ヶ月目。未だに呪われたままの体を守るために、アキラは新たなグッズを白鷺から受け取っていた。


 天珠てんじゅと呼ばれるブレスレット状のお守りだ。パワーストーンが連なり、その中央には紋様の入った横長の石がついている。


「チベット天珠とか呼び方は色々あるけど、その中でも強大なパワーを持つ龍眼天珠りゅうがんてんじゅだよ!」


 相変わらずマニアックな説明を熱弁する白鷺を薄目で見ながら受け取ったそれは、効果は確かなようだった。何よりデザインが控えめな点がアキラを安心させる。


 白鷺のような魔除けオタクには見られたくない。女子高校生として葛藤しながら、手首につけた天珠をそっと撫でるアキラだった。



 今日は幸運なことに英語の授業がない。朝のホームルームで星野の視線が痛かったことを思い出し、アキラはため息を吐く。これで授業中まであの目で見られたらと思うと耐えられなかっただろう。


 帰りのホームルームでは顔を伏せてなんとか視線を避け、チャイムと同時にアキラはさっさと帰り支度を始める。


 今日の部活動は中止になった。昨日の今日で全員疲労困憊していることと、タツミが本田医院に一晩入院したからだ。


 白鷺からタツミの様子を聞くと、どうやら意識は戻っているらしい。今はまだ医院に居るとのことなので、それならばと学校が終わってすぐに見舞いに行くことになったのだ。


「アキラちゃん今日の帰りーー」


「ごめんっ病院行く!」


 包帯だらけで勢い良く教室を後にするアキラの姿を、置いてけぼりをくらったナギサは呆然と見送るしかなかった。


 トーマは日直の仕事があるので別々に向かうことにする。教室で待っているように言われたが、少しでも早くタツミの状態をその目で確認したいが故に「先に行ってる」とだけメールで告げたが、薄情に思われたかもしれないとアキラは反省した。


 ––本当に、ごめん。呪いが解けたら絶対に友達付き合い優先するから!


 早く普通の学校生活を手に入れなければ。ナギサとトーマに心の中で謝りながら、アキラは早足で校舎を後にするのだった。

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