星と霧の小夜曲⑨

 霧がかる視界にはぼんやりとした影が写っている。アキラは震える足になんとか力を入れてその場に立ち尽くしていた。



 カリッ……カリッ……



 異音は霧の向こうにある何かから鳴っているようだ。アキラが息を飲み目をこらしていると、だんだんと白い霧の濃度が薄まっていき、音の出処が露わになる。


 それは古い井戸だった。


 硬質な音を立て続け、中から白い霧を吐いているそれを目視した途端に更なる息苦しさがアキラを襲った。


「はあ、はあっ……なんで、何これっ」


 空気を取り込もうと大きく呼吸をしても肺が重くなっていく。急速に奪われる酸素加え、一刻も早くこの場を離れなければならないにもかかわらず足が動かないという状況にアキラは酷く混乱していた。


 早く逃げないと……早く!


 しかし早く逃げようと必死の思いで踏み出した足は、その意思に反し井戸へと向かってしまう。一歩、二歩……近づく程に井戸から響く音が明瞭になる。



 カリッ……カリッ……カリッ……



 ゆっくりと、しかし確実に井戸に近づいていく自分の体に、アキラは以前ハチドリに導かれたトーマの様子を思い出した。


 今、自分は


 もはや喘鳴ぜんめいに近い呼吸をするアキラの足は井戸の側で止まった。その背筋は凍りついたまま、恐る恐る井戸を見遣る。


 暗く、そして白い霧を噴出しているため内部は見えないが、アキラの目はおかしなものを捉えていた。


 

 古井戸の煤汚れた縁に、白い両の手が掴まっている。



 まるで内側から井戸の外に出ようとしているかのように、その手はカリカリと音を立て井戸の壁を引っ掻いていた。



 カリッ……カリッ……


 

 壁を引っ掻くたびにぬるりと傷だらけの肘が現れるが、重力に負けるようにまた井戸の中へと沈んでいく。出たがっているのだと感じ取った瞬間、白い腕がふいに伸びアキラの手を捕らえた。


「あっ!?」


 治ったばかりの手をギリギリと強い力で締め上げられ、アキラはたまらず声をあげる。手を振りほどこうとするが白い手は離れない。井戸の中に引きずり込もうとするその手はボロボロに爪が割れ、次々と溢れる血が青白い腕に伝っていた。


「嫌! はあっ……はあっ……やめて!」


 自由にならない体を強張らせ息と息の間で拒絶の声を発すると、アキラのその声に答えるように見えない井戸の中から微かな音が上ってきた。



『…………ないで』


「え?」



『手を離さないで』


 

 今、話しかけられたのだろうか。とまさに引きずり込まれるという時にアキラは我に返った。弱弱しく枯れた、何かに縋りつくような声。


 ぼんやりとする意識の中でアキラは必死に足を踏ん張り井戸の中へ中へと引く力に耐える。手を離さないでと言われてもアキラにはどうすることもできない。井戸の縁に手を着きこらえるが、ついに白い腕はアキラの首にぶら下がるようにまわる。


 

 もうだめだと強く目を閉じた時、ふわりと強い花の香りがアキラを包み込んだ。





「……さん、本野さん!」

 

 肩を揺さぶられる感覚に、はっと目を開ける。アキラの視界に入ったのは咥え煙草をし顔を覗き込んでくる星野の姿だった。


「先生……?」


「気分は? 倒れたのか?」


 倒れた? アキラは状況が理解できずに辺りを見回す。先ほどまでタツミと話していた倉庫裏に、今は座り込んでいる。白い霧も井戸もない。まるで夢を見ていたように。


「顔色が悪いな……立てるか? ここで一体何を」


「ええと、寝ていたようです」


「寝ていたって……」


 呆れた様子の星野をぼんやりと見つめるアキラはふとあることに気が付いた。



「先生の煙草は花の香りがするんですね」



 アキラのその言葉に星野は一瞬身を固め、携帯灰皿を取り出して隠すように煙草をしまい込んだ。


「とりあえず保健室に」


「いえ、大丈夫です。おかしな夢を見ていただけで」


「だとしても、それの手当てが必要だろう」



 星野の視線を辿ると、アキラの手には赤黒くはっきりとした手形が残っていた。 







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