記憶の魔女
ただそれだけを思って、生きてまいりました。
つよく、つよく。
ただそれだけを、つよく願っておりました。
痛みと苦しみに耐えて、耐えて、耐えて。私は願い続けました。
そうしていつの日か、私は“魔女”と呼ばれる存在になっていたのです。
自分は
無力で、無欲で、無気力で。あの時の感情を“絶望”という言葉で形容できるのか、私には未だにわかりません。何もかもが虚ろで空っぽに思われたあの日々のことを、自分に起きた出来事として主観的に語ることが私にはできないのです。
どうしてそのようなことになってしまったのか。それはもう、致し方のないことでした。人の手ではどうにもならない神の悪戯。運命とでもいいましょうか。私に起きたことの数々は、そのようなものだったのです。
私の生まれた家は、裕福で屋敷も広く、両親は地元では名士として名の知れた人たちでした。そんな幸せを約束されたかのような境遇の私でしたが、不幸にも私の身体はひどく脆弱でした。
私の身体は幾度となく病に侵され、その度に私はベッドの上での生活を余儀なくされました。それゆえに、私は他の同じ年頃の少年少女たちのように野山を駆け回ったり、街に出かけて服をねだってみたり、学校に行って友人たちと勉強をしたりということができませんでした。友情も恋も知らず、両親と医療の庇護のもと、窓から見える外の景色に憧れながら、孤独に命をすり減らすしか私にできることはなかったのです。
それでもまだ、その時の私は自分の将来にも希望があるのだと、そう思うことができていました。未来の不確かさが、私にとって唯一の望みだったのです。私はいつ死ぬかわからない。けれども、それと同じくらいには、生きていられる可能性があるのだと。憧れ続けた外の世界で幸せを掴めるのだと。そう信じずにはいられませんでした。
月日は流れ、私は十八歳になりました。私の体はいよいよ衰弱し、過去に罹患した病の後遺症で、足を動かすこともままならなくなっていました。相変わらず私は窓を通して外を眺め続け、孤独な日々を送っていました。
関わる人といえば、仕事の合間に見舞いに来てくれる両親と、病院の先生、担当の看護婦さんくらいのものでした。決して理想的とは言えないその生活に、寂しさがなかったと言えば嘘になります。私は寂しかった。どうして自分はこうなのかと、何度も何度も問いかけました。でも、答えなんて出るはずもありませんでした。
お父様とお母様の持ってきてくれる本には、非常に救われました。ここではないどこかにずっと憧れて、けれどどうしようもなくて諦めたくなった時、幻想の世界は私の拠り所となりました。知らないことだらけの私に多くのことを教えてくれました。友情も、愛も、普通の生活も、すべてがそこにあった。だから、それがいずれ、私にも訪れるのだと、また希望を持つことができました。私のことを知っている人はまだ少ないけれど、病気が治ったら、私はきっとたくさんの人の記憶に、たとえわずかであっても残ることができる。私は、私が生きていたという証拠を残すことができる。世界の片隅でただ死んでいくだけではなくなる。そう、思っていました。
でも、私は結局、死ぬ運命にあったのでしょう。この私、人間としての私は、どうやっても死ぬことになったのでしょう。今の私にはわかってしまうのです。どうしようもなく、わかってしまうのです。
春の麗らかな日。心地よいそよ風が、カーテンを揺らしていたその日。私は、自分の命がもう長くないことを知りました。先生はとても痛々しげに私を見ていました。看護師さんは沈鬱な表情でうつむいていました。お父様とお母様は、肩を抱き合って、泣いていました。
ああ、その時、私は。私はどうだったでしょう。私は、何を思っていたでしょう。
悲しかった。胸が締め付けられるようだった。この身の脆さを恨んだ。世界を憎んだ。
いくらでも。いくらでも感情はあったはずなのに。いくらでも言葉はあったはずなのに。私は。
「……そうですか」
それしか、言えなかった。
ああ、そうか。死ぬのか、私は。
それしか、思えなかった。
自分の死が約束されたも同然だったというのに。希望が。願いが。すべて潰えるのに。
私はその言葉を受け入れられなかったのかもしれません。私は、その事実に絶望するあまり、虚無に陥ったのかもしれません。
かもしれない。かもしれない。
すべては過ぎ去り、今となっては夢のようです。悪い夢から覚めた朝。悪夢を見たのは覚えていても、その内容は思い出せない不確かさ。泡沫のように消えゆく朧げな記憶。あの日起きたのはそのようなことでした。
あの日私の中に生じた感情がなんだったのか、思い出すことはできません。ですが、私の中で何かが壊れたということだけは、確かな事実でした。
それからまた数ヶ月が経ちました。そして、“魔女”を名乗る女性が、私の元を訪ねてきたのです。
その女性は、輝くようなプラチナブロンドの髪と、透き通るような白い肌を持ち、均整のとれた身体をしたとても美しい人でした。彼女は日暮れ近くに一人で病室に入ってきました。普段なら面会者は看護師さんと一緒に来る上に、知らない人だったので、私は大層驚き、戸惑いました。
困惑して狼狽える私に対して、彼女は当然のように、ベッドの傍らにある椅子に腰掛け、私の顔を見つめました。そして、こんなことを言うのです。
「君は、美しいね」
わけがわかりませんでした。美しい? 私が? こんな、骨ばった体の、死人にような私が、美しい?
固まる私に構わず、彼女は続けます。
「君の願いは実に美しい。ああ、容姿ももちろん優れてるよ。実に私好みだ」
「私は一体誰なのか、と疑問に思うだろう。急に押しかけて申し訳ない。私は──」
「“魔女”だ。聞いたことくらいはあるだろう? あのおとぎ話の中に出てくる魔女。それが、私」
「疑うのも無理はない。君たちにとっては突拍子もないことだろう。けれど、これが真実だ」
「この世界でただ一人、なんでもできる万能者といえば、この私。神とまでは言わないが、それに近いことすら、私にはできてしまう」
「なんでもできるというのはなかなか退屈でね。努力したりする必要がないものだから、つい最近までは世界中をブラブラしてたんだ。でもまぁ、それにも飽きちゃってね」
「何せ、近頃の文明は停滞気味だ。面白いはずもない。不老不死の性を少しばかり呪ったよ」
「楽しみは待っていてもやってこない。自分で始めなければどうしようもない。はてさて何をやろうかしら」「で、私は思いついちゃったわけ。てこ入れも兼ねて、慈善事業でも始めようかな、ってね」
「それはすなわち、“人の願いを叶える”ということ。強くて綺麗な願いを、この私が実現させてあげる、ということさ」
「なぁに、礼なんていらないよ。これは私の自己満足でしかないんだ。というかそもそも、人間的価値観からすれば悪しき行いですらある。だって、神は願いを叶えない」
「けどね。私は“魔女”だ。神に反逆し、神聖を冒涜するものだ」
「それゆえに、私は人の願いを叶えて回る。その願望の善悪を、私の独断と偏見で選びとる」
「一方的に喋ってごめんね。でも、許して欲しい。魔女というのは根本的にお喋りなんだ。私の考えた最高の善行、その第一号、しかも可愛い女の子の前となれば、いつもの二割り増しくらいで口が回るというものさ」
「そういうわけだから、君。美しい君の願いを叶えよう」
「ああ、わざわざ言わなくてもいいよ。私にはわかるんだ。万能だからね」
「そうそう。これは宣言と受け取ってほしい。君は願った。だから、私が叶える。そういうことだ」
「……そんな状態で願うのが、“生きたい”じゃなくて“人の記憶に残りたい”だなんてね。末期の目というものは、私にもいまいちわからないものだ」
「さて、言うべきこと、言いたいことは全部言った。私は行くよ。もっと願いを叶えなきゃ」
「あ、そうだ。もし、何か困ったことがあったら……っと、ここ、この住所に来なさい。その時は、一緒にお茶でもしよう」
「それじゃ、また。次に会う日を楽しみにしてる」
最後に彼女は私に一枚の紙片を握らせると、手を振ってドアから去って行きました。
一言も口を挟む隙がありませんでした。まるで特大の嵐のよう。魔女を名乗るその人は、その一方的な言葉の雨で、私の心を一通り混乱させると、何事もなかったかのように去って行ったのでした。
私は唖然として数分間動けずにいました。我に返って看護婦さんを呼ぼうかとも考えましたが、なんだか無駄のような気もして、結局やめました。相手は“魔女”なのです。何をしたところで、意味はないように思えました。
手渡された紙を開くと、そこには聞いたことのない街の名前と、住所が書いてありました。ここに来いなんて、私に一体どうしろというのだろう? この萎えてしまった足で、どうやって? わかりません。魔女には何か、私を歩けるようにする術があるのでしょうか。
それに、私の願いを叶える、というのは、どういうことでしょう。私の願い。それは他者の記憶に残ること。死ぬまでにそれを叶えてくれると、魔女は言うのです。そもそも彼女は本当に魔女などという存在なのでしょうか? そんなものが実在するのでしょうか?
しばらく考えて、私はどれもこれも自分にはわからないことだという結論を出しました。彼女のことについて推測をするにも、私はあまりにも物事を知らな過ぎたのです。
私は考えるのをやめ、住所の書かれた紙は、そのとき読みかけていた本の間に挟みました。私が考えても詮なきこと。すべては私の預かり知らぬところで決まっていくのです。私の生も、死も、すべて。
私は後に、自分のその考えが概ね正しいことを知りました。私には生死を選ぶことはできなかった。
翌朝、私の病は完治していました。
* *
奇跡だ。
いったい、誰が最初にそんなことを言ったのだったか。
両親だったか、お医者様だったか、看護婦さんだったか。はたまた、それ以外の誰か?
私だったような気もします。ありえないと思っていたことが起きた。その事実は、奇跡と形容するに相応しいように思えました。だからこそ、私を取り巻く人々は語ったのです。
奇跡が起きた。
奇跡の子だ。
神様が治してくださった。
などと。
そのような言葉に、私は内心で首を振るばかりでした。だって、これは魔女の仕業なのですもの。自己中心的に……いいえ、事実、己を中心に世界を回す、そんな魔女の、ちょっとした気まぐれ。私が願ったことの先駆けでしかないのだと、私は感じていました。
これはまだ始まりでしかない。その予感は、間違ってはいませんでした。
一晩で健康そのものとなった私に関する騒動は、二ヶ月ほどで落ち着き、私は自由に行動できるようになりました。それまでは、何年かぶりに帰った家での、家族との生活を楽しみ、たくさんの場所に連れて行ってもらいました。
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