悪魔との取引はお好きですか?

 消えてしまいたいと祈ったことはありますか。

 こんな世界、滅べばいいと願ったことはありますか。

 貴女の作り出した即席の神様に失望したことはありますか。

 自分より優れたものに出会って、嫉妬に身を焦がしたことはありますか。

 果たして自分は正気なのかと、疑ったことはありますか。

 根拠のない不信から、他者との接触を拒んだことはありますか。

 逃れられない苦しみから気をそらそうと、手首を切ったことはありますか。

 死が迫ってきた途端にそれを恐れたことはありますか。

 死んでしまっては他者を傷つけることさえできなくなると知って、怖気づいたことはありますか。

 ところで、話は変わりますが。


 悪魔との取引は、お好きですか?



 *    *



 憂鬱。憐憫。自己嫌悪。

 自傷。殺意。不信。困惑。

 暗い。暗い。暗闇だけがそこにある。私を包む大きな闇。

 私の外側に蟠る、不定形の影。

 悲しい。悲しい。どうしてこんなにも悲しいのだろう。

 どうしてこうなってしまったのか、私にはわからない。わからない……。

 すべては私の問題だった。誰も悪くない。私だけの問題だった。

 だからこそ、わからない。私はどうしてこんなにも苦しんでいるのだろう。

 我慢の限界はとうに超えていた。まだ成長しきっていないこの身体では、この心では、自分の生み出す痛みに耐えられるはずもなかった。自分の手に負えないものを吐き出すには私の言葉は拙すぎる。どうしようもないとただうずくまって頭を抱えるしか私にはなかった。

 私はあまりにも無力だ。自分の問題さえ自分で解決できないこの未熟さが憎らしい。拒絶する以外に逃れる術を知らないこの幼さが恨めしい。自らを殺せないこの惰弱さが口惜しい。

 雨音が聞こえる。

 穏やかに響くその旋律に、すべてが溶けてしまえばいいと思った。

 世界も。

 私さえも。



 *    *



 インターホンの音で目を覚ました。いつの間にか、眠っていたらしい。

 起きるのも面倒だった。だから、このままだんまりを決め込んで、訪問者にはお帰りいただこうと考えていた。何か注文をした覚えはなかったし、宅配業者を除くと私を訪ねてくる人間なんているはずもなかった。そうなると、これは何らかの面倒な勧誘に違いなく、雨の中ご苦労なことだとは思うが、それは私の問題ではない。私は、私を優先することにする。

 しばらくして、もう一度インターホンが鳴った。これもまた、無視した。

 三度目が鳴ったところで、私は重い腰を起こすことにした。ずいぶんとしつこい。一体私に何の用があるというのだろう。

 立ち上がって、自分の服装を見た。スウェットを着たままだけど……まぁ別にいいか。私は気にしない。相手が気にするかもしれないけれど、それは私には関係ないことだ。

 玄関ドアに手をかけて、金属のひんやりとした冷たさを感じながら、ゆっくりと押し開ける。空いた隙間から外を見て、驚いた。

「あ、ようやく開けてくれましたね。こんにちは」

 そう言ってその人は微笑んだ。

 女の子がいた。茶色がかった髪をした、私と同い年くらいの女の子。全体的に非常に整った造形をしていて、美少女と形容しても申し分ない容姿をしている。そんな人が、雨の降る街を背景に、ニコニコと笑って立っている。

 見覚えはなかった。そして、こんな人が私の元を訪ねてくる理由にも心当たりはなかった。判断しようにも材料は乏しく、私は困惑したままこう言うしかなかった。

「……あの、どちら様?」

 すると、女の子は「よくぞ聞いてくれました」とばかりに笑みを深めると、礼儀正しく頭を下げて、言った。

「申し遅れました」

 そして、そのなんとも馬鹿馬鹿しく、滑稽で現実味のない言葉を口にする。

「わたくし、悪魔と申しますの」

 馬鹿じゃねぇの、と本気で思った。



 *    *



「あっそういうの間に合ってますんでそれじゃ」

 ドアを閉めようとしたら足が挟まれた。無理やり閉めようと力の限りドアノブを引くと「あいたたたたたたっとぅあうあうあわー!」と叫びだしたのでやめてやった。「やめてください!」と抗議を受けたので「なんだおまえ」と言っておく。「悪魔です!」とやかましいので仕方なく中に上がらせた。

「それが初対面の相手への態度ですかっ」

 とプンスカお怒りのご様子だが、こちらからすればてめーは初対面で自称悪魔の電波女だよ、と内心で言っておく。

「声に出てますよ」

「おっと」

 うっかり。いっけね。

 相手は自称とはいえ悪魔。丁重なもてなしが期待されるなー。

「とりあえずテーブルのとこに座っといて」

「あ、はい」

 素直かよ。良い人じゃん。いや、正しくは“良い悪魔”か? なんだよ良い悪魔って。意味不明すぎるだろ。

 台所に行って湯呑みを二つ手に取る。紅茶とか緑茶とかを淹れて飲むようなハイソな生活はしていないので、水道水をドバァーと入れて持って行く。

「はいお茶」

「水ですが……」

 目の前に置かれた透明な液体に対して抗議されたので、私は親切に返事をしてやる。

「うちではこれをお茶っていうんだよ」

 文句言うなよと言ってぬるい水を喉に流し込む。乾きが癒えりゃ私は十分。

「まぁ、いいですけど」

 飲んで、ちょっと顔をしかめながら「水道水の味がします……」と呟く。

「そりゃ水道水だからな」

 嘘偽りなくそのままの味、ってことでいいじゃないか。

「で? 私に何の用?」

 湯呑みをテーブルに置いて質問する。悪魔っていうくらいだから、随分とご大層な用事なんだろう。私に、っていうのが本当にわけ分かんないけど。とりたてるものがない相手のとこに押しかけて、なんか楽しいか?

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