おはよう、アダム。おやすみ、イヴ。


 目を醒ます。

 それはまさしく、覚醒だった。

 僕は目覚めて、自分がずいぶん長いこと眠っていたことを知った。

 僕は目覚めて、僕ただ一人を残して人類が滅びたことを知った。

 僕は目覚めて、同時にその声を聴いた。

「おはよう、アダム。あなたが最後の人類です」

 それは女の形をしていて、“イヴ”と名乗った。



 *    *



 おはよう、イヴ。

 僕がそう返すと、彼女は頷いて、僕が起き上がるのを手助けした。背中に触れた掌は冷たかった。彼女は裸の僕に衣服を与えると、「羞恥を感じますか」と聞いてきた。僕は「いいや」と言って、その場で服を着た。

「食事を用意します」

 イヴが部屋を出て行ったので、僕は改めて自分が寝ていた部屋を見渡した。

 白く巨大な部屋だった。床も、天井も、壁も、一面が白く、それが二十メートル四方で広がっている。中央には機械に繋がれたベッド。僕がさっきまで横たわっていた場所があった。

 僕はそこに腰掛けて、自分が現在保持している情報を整理する。

 僕はアダム。少なくとも今は、そう呼ばれる存在だ。

 僕は人類最後の生き残り。なぜ人類が滅びたのかは、わからない。

 僕の使命は種の保存。イヴはおそらくそのつがい。

 僕が知っているのは、これだけだ。これだけだが、十分ではある。必要最低限は、知っている。

 ドアがスライドしてイヴが入ってきた。彼女はお盆を持っていて、その上には湯気の立つ食事が載っていた。

「粥、というものです。施設内で栽培されている稲からとれた米でつくられています。」

「ありがとう」

 椀を受け取り、木製のスプーンで少しずつ食べる。味はあまり感じられなかった。僕のそういう感覚は、まだ寝ぼけているのかもしれない。なんにせよ、それなりの栄養があることに変わりはなかった。

「いかがですか」

「おいしいよ」

「それは何より」

 短い言葉の応酬。必要最低限のそれに、寂しさは覚えない。

 僕はきっと人間なんだと思う。僕が寝ている間に仕込まれたであろう多少の知識から、それは推定できる。ただ、人間らしいか、といえば、それは正直怪しいところだった。

 言葉は知っている。思考も正常にできる。身体も動く。会話もスムーズだ。五感もしっかり働いている。情動も、たぶんある。

 けれども、僕には決定的に“欲”というものが欠けている。

 食欲を知らない。

 睡眠欲を知らない。

 性欲を知らない。

 寂しさを知らない。楽しさを知らない。悲しさを知らない。嬉しさを知らない。

 言葉としてはわかっている。説明する必要があるならば、僕はそれをこと細かく表現出来る。

 けれど、僕はそれらを知らなかった。

 僕はきっと人間だけど、人間らしさは足りないようだった。

「ごちそうさま」

 そう言いながら、僕はイヴを名乗る“何か”を見上げる。それは確かに人の形をしていて、確かに女の形をしていて、確かに生きている。

「片付けますので、少々お待ちください」

 そういう意味では人間だが、おそらくイヴは人ではない。僕とは違うものでできている、人以外の何かだと思う。ただ、彼女は僕と違って人間らしかった。

 なんとなく、そう見えるだけかもしれないけれど。

 完璧に均整のとれた身体をかすかに揺らしながら、彼女は去っていく。

 その露出した後ろ姿を見ても、僕は何も感じなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る