ぼく、わたし。
ぼく。
ぼく=ぼくだ。
頭の中で、ぼくが囁く。
朝、目を覚ます。洗面所で、鏡と向き合う。
一人の女がいる。
ぼく。
これが、ぼくだ。
眠たい目を擦って、その女を見つめる。
「きみは誰?」
ぼくは呟く。
「ぼくは、ぼくだ」
ぼくは呟く。
ぼくが、ぼくであるために。
他の誰よりも明確に、この意思が、ぼくであるために。
* *
「いってきまーす」
そう言ってから家を出て、鍵を閉め、ぼくはスキップで大学へと向かう。
今日も、我ながら素敵な朝食を食べた。寝覚めも悪くはなかったし、天気もいいし。快調と言って差し支えないと思う。朝ごはんをしっかり食べるのとそうでないのとでは、一日の心持ちがまるで違う。だから、料理が得意なことが自慢のぼくは、ぼく自身にもそれなりのものを提供することにしていた。得意料理は肉じゃが。家庭的であることには、自信があるのだ。
いつものように、住宅街にひっそりと佇む小さな公園へと足を向ける。
時刻は午前六時。同じ高校に通う他の生徒のより、一時間ほど早い登校になる。だから、通りに人はおらず、ぼくは一人で歩いていく。
公園にたどり着くと、ブランコに座って本を読む男の子の背中が見えた。ぼくはほくそ笑みながら、そっと背後から近づいて、
「やぁ」
「ウワッ」
逆に、驚かされた。
「おはよう」
爽やかに挨拶されて、ぼくも思わず「お、おはよう」って、いや、そうじゃなくて。
「急に振り向くな!」
そっちが重要。たぶん、ぼくには怒る権利がある。
「怒るなって。そっちこそ俺を驚かせようとしたんじゃないのか」
「記憶にない!」
断じて!
「鶏ももうちょっと覚えてると思うけどな」
「誰が鶏頭か!」
「あってるあってる」
「んなわけあるかー!」
侮辱もいいところだ。完全に裏をかかれてしまった。恥ずかしいったらありゃしない。どう挽回すればいいんだ。
仕返しに背中にパンチを食らわしておく。おらおらおら。ぼくの怒りを喰らえおらっ。
「ちょ、わかった、わかったよ。俺が悪かった。だから殴らないで」
「……わかればいい」
パンチを止めてやる。彼はホッと一息ついてから、手に持ったままだった本を閉じる。
「何読んでるの?」
少し気になって、後ろから覗き込みながら問いかける。彼はちらとぼくのほうを見てから、本の表紙を見せてくれる。
「藍川真詩乃さんの『わたしの王国』。昨日発売したんだ。面白いよ」
「……ふうん。この人の、好きなんだ?」
「俺は好きだよ。ちょっと、グロテスクではあるけど」
楽しそうに語る彼を見て、続けようか迷った言葉を飲み込む。うん。別に、言わなくてもいいや。
大切なのは、明るくあること。必要なのは、“ぼく”であること。
今は、それでいい。
「そろそろ行こう?」
催促がてら肩を揺する。彼は回り続けていた口を噤んで、腕時計を見る。
「あ、ああ、うん、そうだね」
そう言って立ち上がりながらもそわそわした様子の彼。まだまだ話したいことはいっぱいという表情。
「なにー? まだ話し足りないの? 本当に好きだねー、読書、さ」
へっへっへ、と笑って、彼の腕を引く。彼はまだ本をしまっていなくて、「あ、ちょっと!」なんて言いながら、ぼくに引かれていく。
明るく、楽しく、愉快であれ。
そのように、ぼくはできているから。
ぼくは、ぼくだ。
少なくともこの間は、ぼくは誰よりも、ぼくでなければならない。
誰よりも、明確に。
* *
ぼんやりとした明かりの中で、白い肌が艶かしく蠢いている。
停滞した時間の中を、快楽に身を任せて、揺蕩っていく。
「……君は可愛いね。それに、ああ。とても……美しい」
背後から抱きすくめられ、首筋が唾液に濡れる。身体の前に回された腕が肋骨と腹部を撫で回し、その感触を楽しむように、ゆっくりと指先でなぞっていく。
少し、くすぐったい。思わず身を捩ると、耳元に恍惚を孕んだ吐息がかかり、その淫靡な響きに背筋が震えた。人形のような従順さを自覚しながら、心地良い温度に自ら身を委ねる。
「おや……」
力が抜けたことを感じてか、その人は意地悪そうに呟いた。胴部に触れていた手が焦らすように上昇し、やがて両の頬を包み込む。優しく顔を向けさせられた先で、柔らかな唇が呼吸を塞ぐ。
その人はきっと、わたしを愛しているのだ、と……、そんな想像が駆け巡る、穏やかな口づけ。時間をかけることを、なにも苦だと感じていない。ゆっくり、ゆっくり。幸福な時間が、より長く感じられるように。
彼女は唇を離すと、わたしの身体を正面に向けさせて、両腕に手をかけてから、そっと押し倒した。
長時間のまぐわいで皺のついたシーツに背中が触れる。その人は私に覆いかぶさると、黒く輝く双眸でわたしをじっと見つめる。わたしもまた彼女を見つめ返して、そしてその瞳の表面に、自分の顔を見つける。
目を、逸らした。
そんなわたしを見て、彼女は笑った。くつくつと、喉を鳴らして。
「ああ、そうだね。君は、ふふ……素敵だなぁ。これだから、好きなんだ、私は……」
いつもそう。そうやって彼女は、わたしで遊ぶ。……嫌ではなかった。彼女の楽しむ姿に、安心している自分がいるのを、わたしは知っている。
「……ひどいです」
横を向いたまま、小さく抗議する。でも、それだけ。
「今更だよ」
首筋にキスをする。腕を下ろし、身体を密着させて、触れて、擦り付けて……。
「私は、ひどいやつさ」
まったく。
「ほんとうに……」
同意しながら、ちらついた記憶を振り払う。
この気持ちよさに、今は浸っていたかった。
* *
「はい、いつも通り」
ベッドの縁に座ってシャツのボタンを留めていると、背後から声がかかった。
振り返ると、わたしより先に着替えた彼女がわたしに向けて腕を伸ばしていた。腕の先端では、一万円札が数枚、指に挟まれている。
「……ありがとうございます」
受け取って、枚数を数える。五枚。五万円。わたしは金額を確認してから、もう一度振り返る。
「確かに受け取りました」
「うん」
煙草を取り出して、火をつけながら、頷く。その返答は心ここに在らずという風で、それを見てわたしは、どうでもいいんだな、と思う。わたしの手元に幾ら渡ったかなんて、まったく興味がないのだろう。この、一度の交わりにしては高い支払いも、彼女が適当に定めた、とりあえずの報酬にすぎないのだ。
彼女と初めて身体を重ねた日、彼女は言った。
『これは、ギブアンドテイクなんだ』
彼女は、わたしの身体で満たされる。
わたしは、彼女からお金をもらって満たされる。
『だから、君が気にすることは何もない。私も、気にしない』
オーケー? と言って、彼女は笑った。私、お金持ちだしね。とも。
お金を厳重にしまってから、ボタンを留めるのを再開する。スカートを履いて、靴下を履いて。上着はまだいいや、と放置する。自分の身体を見下ろして、最低限身だしなみが整っていることを確認してから、立ち上がって、彼女の隣に移動する。
「…………」
横目でわたしをちらと見て、けれど黙って煙を燻らせる。わたしが話しかけようとしていることを、見透かしているようだった。
「せんせ……むぐっ」
呼びかけようとしてら、右手で口を塞がれた。顔を見ると、左手に煙草を持ったまま、困ったような表情でわたしを見つめている。
「それは、ルール違反だぞ。……ダメじゃないか、ちゃんと、名前で呼ばなくちゃ」
言い終えると、口元から手を離す。わたしを見つめたまま、続きをどうぞ、と先を促す。
「……アイリさん」
「うん」
「ごめんなさい……」
「いいよ」
答えてから、黙り込む。煙草を一回吸って吐くほどの間を空けて、「それで?」と聞き返す。
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