結末は菫色に染めて
終わり。
物事っていうのは、いつしか終わる、って、そう信じているけれど。
本当にそうだろうか、と時々思う。
終わった気がしているだけで、それは実は錯覚で、真実ではまだ途中なんじゃないか、って、不安になる。
あるいは、終わった途端にまた別の何かが始まるのかも。
物語の最中、結末を予感する。予想通り、それらしき言葉に遭遇して、ホッとしたり、感動したりする。
けれど。
ページは、まだ残っている。まだ続くのか、と憂鬱になってみる。ここら辺が、丁度いい引き際なのに、と文句を垂れる。
先に何が続いているかは、開いてみないとわからない。終わりから見ようとすると、そこは白紙で、順を追って次のページを盗み見ると、そこには確かに続きがある。
投げ出したくなる。でも、続きが気になって、仕方がないから。
やっぱり、私はページをめくる。
そんな、イメージ。
「それは人生のこと? それとも、もっと別の何か?」
色とりどりの花に埋もれながら、剪定ばさみを鳴らして菫さんが言う。
「もしかして、ひどい内容の小説にでも出会った?」
レースの付いた黒いワンピースが揺れる。麦わら帽子が、陽の光を浴びて黄金色に見える。
私は、そんな菫さんの背中を見つめている。
きれいな人。
うつくしい人。
私の手では、届かない人。
「なんにせよ、よくないことがあったんだね」
立ち上がった菫さんが、顔だけ振り向いて私を見る。
きれいな瞳。
うつくしい髪。
私の手では、触れない。
「あー、わかったー」
菫さんが両目を細めて、いたずらっぽく笑う。
それから、ゆっくりと、近づいてきて。
少し、屈む。
顔を寄せて、私の耳元に、息を吹きかけて。
「……もしかして、死にたくなったのかな」
首筋に、鋏の刃をそっと這わせる。
妖しく、艶かしく、それは誘惑のようで。
私は、胸が苦しくなる。
「……なーんてね。タチの悪い冗談サ」
おどけた調子でそう言うと、私の横を抜けて、離れていく。
「家に入ろうか。今日は、良い茶葉があるんだ」
菫さんが言う。
「……はい」
返事をして、菫さんの後を追う。
夏の、生ぬるい風が通り抜ける。
いつ、終わってしまうのだろう。
始まりがどこにあるかすらも、不明なまま。
そればかりを考えている。
私、怖いんだ。
終わりが、訪れるのが。
その先が、続いてしまう可能性が。
たまらなく、恐ろしい。
* *
菫さん。
きっと、多くの人は、私と彼女のような間柄において、敬称は用いないと思う。もっと気軽に、別の呼び方があるのだと、そう思う。けれど、私にとって、彼女はどうやったって“菫さん”で、そこからまた距離を詰めるのは、とても困難なことのように感じてしまう。
私と薫さんは、血の繋がった姉妹だ。
年の差は、十六。私が、夏の時点で十五歳。菫さんは、三十一歳。母さんは十九とかで薫さんを産んで、三十五で私を産んだ。そして、私が物心つく前に離婚して、菫さんは私の血縁上の父に引き取られ、幼かった私は母さんに引き取られた。それからすぐに、母さんは私にとって育ての親である父さんと再婚して、今に至る。
私と菫さんが最初に会ったのは、二年前、血縁上の父が亡くなった時だった。顔も覚えていない。名前も知らない産みの親。その父が何かの病だかで死んで、私だけが葬式に呼ばれた。私の境遇のことはあらかじめ母からは聞いていた。当初は多少の驚きがあったにせよ、実のところ、私からすればそれはフィクションと何ら変わりないお話で、それで今の両親に対する思いが変化するわけでもなかった。父の両親と母さんは関係が拗れていたようで、呼ばれても行かない、と母さんは言っていた。私が葬儀に出ることに、母さんも父さんも反対はしなかった。
式場にはそれなりに多くの人が集まっていた。私以外の全員が大人で、気後れしたのを覚えている。聞くところによると父は資産家で、力のある人たちとも交流があったらしかった。人が多かったのは、それが理由だろう。もちろん、そんなこと私は知らなかったし、知ったところで意味もさほどありはしなかった。血縁上の祖父母は私に随分と気を使っていたけれど、私の方はといえば冷めた心持ちだった。だって、そんな人たち、知らない。物語の中の人物が突然出てきて身内を名乗って、私にどうしろというのだろう。混乱というよりは困惑して、気の無い返事しかできなかった。
菫さんのことは、詳しくは知らなかった。ただ、血の繋がった姉がいる、とだけ聞いていた。だから、最初に彼女を見たときには、ただ綺麗な人がいるな、と、そう思うばかりで、まさかその人こそが自分の姉だなんて思いもしなかった。私とは、まとっている空気がまるで違ったから。
父の顔は穏やかだった。それだけだ。何の感慨も浮かばなかった。そんな自分は薄情かもしれないとそんなことを考え、けれどどうすることもできなかった。この感情は、本当に私が支配しているのだろうか、と思った。まるで別の生き物のように、私が感じるべきものと、私が感じるものは遠く乖離している。自分にとって、目の前にある死体が大した意味を持たないという事実が、ぼんやりと意識の上を滑っていく。
席に戻ってからは、周りの人に悪く思われるのが嫌で、私は眉根を寄せて唇を引き結び、じっと俯いて黙っていた。知っている人なんて一人もいなかったし、本心を悟られてはいけないと思った。私の感情はなんだか罪深く、きっと父の死を悼む人はそんな私を許さないだろうと思った。だから、私にできる最大限で、悲しそうな風を装って、そっとしておこうと気遣われる努力をした。
私の少し後に、菫さんが献花をした。私はその時だけ顔を上げていた。彼女の所作は端から端に至るまでが美しく、その悲しそうな表情も、完璧に整っていた。眉根を寄せて唇を引き結び、じっと俯いて、静かに涙を流し、手を震わせて──それはまるで、鏡写しの私だった。より美しく、洗練されて、それが嘘なのだと私は気づき、それから献花を終えた菫さんと一瞬だけ目があって……私は、金縛りにあったように、その瞳に囚われた。
一秒にも満たない僅かな時間で、私は彼女の虜になった。それは魅惑の成すものではなく、もっと妖しく背徳に満ちた鎖によるものだった。虜囚として自由を奪われ、恍惚を感じながら逃げ出そうともがく愚かさを慈しむような、何か恐ろしいものが私の体を駆け抜けたように感じた。植え付けられた、と思った。理性とはまた別の場所で、自分がその美しい人と関わらずにはいられないことを理解した。今だから言葉にできるけれど、当時は言葉にできずぐちゃぐちゃになった頭で恐ろしさと得体の知れない快感に困惑するしかなかった。深く俯いて膝の上で拳を握り、それを凝視していた。
菫さんは自分の妹が誰かということを、私が知る以前から知っていたのだと思う。私が生まれた時、菫さんは高校生だった。名前はもちろん、あの状況で圧倒的に浮いていた私を妹だと推測するのは、彼女にとって容易だったに違いない。
式が終わり、私はいそいそと帰る支度をしていた。出棺にまで付き添う理由が私にはなかったし、菫さんと鉢合わせるのは嫌だと思った。荷物をまとめ、形ばかりの挨拶をして、出口に向かって。ドアをくぐったところの壁に、菫さんが寄りかかっていた。
「こんにちは」
「…………………………こんにちは」
にこやかに声をかけてきた菫さんに、私は随分と間を空けてから言葉を返すことになった。あまりにも驚いて、訳も分からず彼女を恐れて、私は立ち竦む。どうすればいいのか、何も思い浮かばなかった。
そんな私の様子を見ても、菫さんは相好を崩すことはなかった。微笑を浮かべたまま、私を見下ろしている。
「ねぇ」
優しく呼びかけられる。私は硬直したまま、小さく「はい」と答えた。
菫さんはいつの間にか小さな紙片を手に持っていた。私の手を取り、その上に紙を乗せて、そっと握らせる。
「これ、私の住所。今度遊びにおいで」
真意を測りかねて、菫さんの瞳をのぞきこむ。
細められた目が私を見る。何も見通せない、仄暗い色がそこにあって、私は動揺する。
「気が向いたらでいいよ。だから、いつか、来てね……」
それじゃ、と軽く手を振って式場と反対の方……道路に面した出口に向かう。あの人はこれからどうするのだろう、出棺には出なくていいのかな、と考えてから、それ以前の問題として、あの人が私に関わる意図は何だろう、と思いを巡らせる。
手元には、丁寧に折られた紙がある。それを見れば、何かわかるかも──そう思って、ゆっくりと広げて。
綺麗な字で、住所が書いてある。聞いたことがある。地図を思い浮かべる。私の家から、電車で一時間くらいのところ。そんなに遠くないな、と思う。郵便番号と、電話番号も描かれている。いいのだろうか、そこまで書いても。私なんかに……。そんなことを考える。
それから、視線を下げていく。一番下、隅っこの方に、二文字。
橘菫。
血の気が引くようだった。
私の名前は、柊葵。
旧姓は、
橘。
その日、私は式場で会った美しい人が、自分の姉だと知った。
知らなければよかった、と、今でも後悔し続けている。
* *
窓から差し込む光が、湯気を立てる紅茶を透過して、澄んだ煌めきを映す。装飾のついたカップは随分と高そうに見えて、未だに慣れることはない。いつだって、細心の注意を払わなければいけないような、そんな気がしてしまう。
丸テーブルを挟んで向かいに座った菫さんは、カップを持ち上げて香りを楽しんでから、一口飲んで笑みを浮かべた。私は猫舌なので、まだ手をつけずに冷めるのを待っている。
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