海のあるプラットフォーム


 女の子がいた。

 じぃっと、眼前に広がる海を見つめる、女の子がいた。

 多分きっと同い年で、おそらく同じ学校の生徒だった。

 駅には平日も休日も、ほとんど人がいない。こんな辺鄙なところからわざわざ通学するのは、僕くらいのものだと思っていたけれど、どうやら、そうでもないらしかった。

 見覚えはあった。

 学校指定のブレザー。すらりと細長い四肢。バランスのとれた、少し痩せ型の胴体。

 名前が思い出せないけれど、確か入学式で壇上に立った……、入試で最も成績の良かった人、だっけ。

 クラスは違ったと思う。中学とか小学校で一緒だった覚えもない。彼女は僕のことを知らないだろう。

 駅舎の端に佇む女の子に向かって歩を進める。波と風の音以外は、ほとんど聞こえない

「何をしているの……」

 一メートルくらい手前で立ち止まって、そう問いかける。

 ただの興味。不思議に思ったから。理由なんていくらでもつけられるけれど、初心な男子高校生的なものを挙げるなら、そうだな、美人だから、とか。そんなところじゃないかと思う。真実、その女の子は綺麗だった。

 女の子は横目でチラと僕を見てから、そっけなく、

「海を見てる」

 と言った。

 見りゃわかるだろ、と言わんばかりのその言葉に、僕は少したじろぐ。当然、見ればそのくらいのことは理解出来る。理解出来るが、そうじゃないと言いたかった。そういう答えをお求めではないのだ、僕は。

 会話の道筋を見失いかける僕に、女の子は言葉を続ける。

「あと、耳をすませてるよ」

 そう、それだ。そういう答えが欲しくて、僕はわざわざ「何をしているの」だなんて質問をしたのだ。解を得たり。僕は大満足して、質問を重ねる。

「何か、聞こえる?」

「潮騒と、キミの足音」

 声もね。

 と、付け加える。

 ああ、そうだろうね。僕も聞こえてる。

 波の音。ついさっきまでは、足音も。現在進行形で、自分の声も。

 やっぱり、彼女の言葉はどこかそっけない。何か、試されているかのようですらある。

 僕が、彼女にとって興味を抱くに値する存在か、とか。

 彼女の瞳に、僕がどう映るか、とか。

 そういう類の、試練のようにも思える。

「邪魔しちゃったようなら、ごめん」

 次の言葉を選んで、一応謝っておくことにした。このそっけなさが、僕に対する敵意だった場合に備えて。

「別にいいよ。気にしてない」

 なんて言いながら、こっちを見もしない。

 興味があるのかないのかいまいち不明瞭で、僕の方が困惑する。

「……」

「……」

 沈黙が立ち込める。会話の光明はまるでなく、一寸先は闇。恐ろしいことだ。隣で腕を組んでいる人間が何を思っているのか、僕には皆目見当がつかない。横目で盗み見てみるけれど、端正な顔立ちを美しいと思う以外は何もわからない。弁解の余地があるのなら、これは僕の想像力の欠如ではなく、時限式隣人の、感情を悟らせない姿によるものだと声高に主張したい。あるいは、やはり僕が未熟だからか。

 砂浜と、海の境界を見つめる。波が寄せては返し、また同じような、けれども形の違う動きを繰り返す。時折、砂浜を散歩する人が通る。海寄りに残された足跡は、波に攫われ、消えていく。

 五分くらい経って、僕は隣人の名前があやふやなことに気づく。人の名前を覚えるのが苦手というよりは、眠気ゆえに外見以外記憶できなかった、というのが正確だと言える。まだ春休みだと思っていたのに。

 声をかけた手前、名前を知らないままというのも後味が悪いような気がする。多少の恥は、というか、彼女に対する失礼は忍ぶとして、僕は彼女の横顔を見る。

「あのさ、」

 同時に、彼女が振り返って、僕を見る。視線がかち合い、すり抜けて、互いの瞳の奥を見据える形になる。思わず半歩後退る。言いかけた言葉が喉に詰まり、鼻の奥から抜けていく。

 彼女は僕の目を見たまま、目を細めて言った。

「私のことは、“先輩”と呼ぶといいよ」

「は?」

 本心が口から飛び出た。は? クエスチョンマークが脳内で踊り狂っている。パーリーナイッと言わんばかりの暴れっぷりに、僕の思考が置いてけぼりを食らう。何言ってんだこいつ。いや、何言ってんだこの先輩。あんた、僕と同い年じゃないのかよ。

 僕の様子を楽しむように、心の中身を覗き見るように、彼女は眼を合わせて逸らさない。

「だって私、キミより早生まれだもの」

 理由を説明しろとは言ってないが、説明してもらえるとありがたい。本当は欲しかったんだ、それが。だって意味不明だからね。だがなんで僕の誕生日を知っているみたいな言い方をするんだ。もしかしてだけど、僕のプロフィールは筒抜けか?

「ほら、ね。だから、先輩」

 くすくすと嗤って、視線を外す。呪縛を解かれたように、僕もまた顔を背ける。

 彼女、改め“先輩”は水平線を見つめているようだった。

「そう……」

 ホームの点字ブロックを見ながら、僕は呟く。

 先輩、先輩、先輩。

 不思議なもので、頭の中で三回も復唱すれば、初対面の女の子があたかも昔から“先輩”であったかのように思えてくる。そんな気がするだけのまやかしの幻なのは明白なのだけど、なんだか、妙な気分だ。

 初対面の第一印象という空白に、でかでかと“先輩”と殴り書きされたような、そんな強引な上書き精神を感じる。

 僕が、じゃあせめて自分の名前は、と自己紹介を始めようと思い立つと、今度は言葉にするより早く、

「ああ、キミの名前なら、言わなくてもいいよ。私にとって、キミはキミだからね。それ以上でもそれ以下でもない。そんなことを、今決めた」

 などど先輩は仰せになられた。

 出鼻を挫く趣味でもあるのだろうか。だとしたら、随分と悪趣味だ。悪趣味だはと思うが、まったくもってどうでもいい。知らんわそんなん。

 というわけで、僕は先輩から“キミ”と呼ばれる存在になった。

「お好きにどうぞ」

 好きにすればいいさと思った。すでに“先輩”と呼ばされることが確定している以上、自分がどう呼ばれるかなんて頓着するに値しない。今更、何だって同じだろう。先輩の中で、“僕”という人間に何らかの個性がつけられているのなら、最低限、興味は持たれたということだろうから。

「興味なさそうだなぁ」

 足をぶらぶらさせながら、残念そうに言う。

「ま、いいけど」

 それからすぐに、愉快そうに微笑んだ。



 電車の揺れる音が聞こえる。腕時計を見ると、ちょうど電車の到着時刻だった。

 微風を振りまきながら、海を視界から奪っていく。入れ替わるように、鉄の箱が停車する。

 ドアが開き、誰もいない車内に僕は乗り込むけれど、先輩は黄色い線の内側に立ったままだった。

「乗らないの?」

 念のため聞くと、先輩は頷き、

「乗らないよ」

 と言った。

 僕はそれ以上質問することをせず、おとなしく手すりに掴まることにする。

「いってらっしゃい」

 ドアが閉まる直前、先輩がそういったような気がした。

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