少女は夜を綴らない
人と物が雑多に蠢く街の中に、一つの薬屋があった。
通りに対して開かれたその店は、木造の古めかしい作りになっている。
いくつもの商品が棚に並び、受付とその外はガラスで隔てられている。
その中に、一人の少女がいた。三つ編みにした黒髪を背に垂らし、白いワンピースを着た、小柄な少女。全体的に痩せ型であることが一目でわかるが、同時に、その顔立ちが整っていることも窺い知れる。
少女は、ガラス越しに通りの様子をしばらく眺めると、何か思いついたように手元のノートへと筆を走らせる。ノートは無数の文字で埋め尽くされており、よく見ると言葉遣いや表現には統一性がなく、乱雑になっている。それこそ、見たこと、聞いたことを、そのまま感じた通りに書き写した、といった風だ。
少女は一日中それを繰り返している。客が来れば差し出された品を一瞥し、暗記したらしい値段を、最低限の丁寧さをもって、端的に述べる。客が差し出した金を一目で把握し、釣りがあれば、さして見もせずに正確な金額を手渡す。決して愛想がいいとは言えないが、その手際は大したものだと言える。
少女は元々、身寄りのない孤児だった。正確に言うと、農村で生まれたものの、食扶持減らしに捨てられた身だった。まだ齢十にも満たぬまま世界に放り出され、少女は己の無力を呪うことさえできずに、飢えか、野良犬に喰われるかして死にゆくはずだったが、運良く人に拾われた。こうして死ぬはずだった子は命をつないだが、拾われた先でも、女では力仕事もままならぬ、という理由で、劣悪な環境で雑用を押し付けられ、更にはそれから幾年か経ち、少女の見目が良いことがわかると、今度は娼婦の真似事までさせられるようになった。
幸い、少女の肉体が痛めつけられることはなかったが、その生活の中で、少女の心はいつしか荒み果て、笑顔を浮かべることも涙を流すことさえできなくなっていた。
ある時、少女は一人のもの好きに拾われた。そのもの好きは若い青年で、実業家の金持ちだった。青年は外で偶然見かけた少女をいたく気に入り、少女のいた場所の主人に掛け合って少女を買い取った。青年は少女と対面すると、いの一番に『私は美しい人が好きだ。好きなので、君を買うことにした』と宣言し、少女に名前と身分、清潔な服と住む場所を与えた。そして、その住む場所、というのが、現在少女が店番を務める薬屋である。
少女は薬屋で読み書きと計算を学んだ。そして店番をできるようになった時点で、少女の身元引き受け人である青年から、一つの条件を提示された。
曰く、少女が自らの力のみで歩みたいと願うまでは、その成長に対する支援を惜しまない。存分に生を満喫すること。
曰く、その代わり、店番をしている間は、その場で見たもの、聞いたものを記録し、毎週末にそれを送ること。これは条件ではあるが、強制ではない。可能な範囲で、自分の感じたことを書き留めよ。なお、店仕舞いをして以降は、この限りではない。
ゆえに、少女は書き続けている。強制ではない、という話ではあるから、腕が疲れれば休み、食事などの生理的な事柄に関してはその時々必要なことをこなしている。しかしながら、少女はそれ以外の時であれば、言われたそのままに、可能な限りの記録を行っていた。
こんな男が通った。こんな女がいた。子供が転んで泣いた。猫が歩いていた。喧嘩らしき怒声が聞こえた。天気がいい。雨が降った。曇り。初めて雪を見た。常連の老人がこんな薬を買っていった。
日々の営みは一見同じようで、しかしながら、少女が記す事柄は変化に満ち溢れ、無数の物語がそこにあることを示している。少女は綴る。人々の姿を。そしてその中で生まれた感情が、少しずつ、少女の心を癒していくことになる。
青年は引き取った少女を見て、できることなら平穏と平凡を、と考えた。その思惑あっての『記録せよ』であり、少女の情動が回復することを狙ってのことだった。
そして同時に、夜という時間を記録の範囲外としたのにもまた、理由があった。
日が傾き、斜陽が通りを照らす頃。
時計を見た少女は、動かしていたペンを止め、ノートを閉じると、店の入り口を閉め、“閉店”の看板を表に出す。ノートもペンも、店の中。
灯りの点き始めた通りを、一人で歩き出す。
青年は考えた。
暗闇でこそ、人との交わりを。
誰かが、少女の未来を照らす、灯りとなるように。
これは、記されなかった物語。
ゆえにこそ、このように題される。
「少女は夜を綴らない」
と。
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