第二章

第二章

気が付いた時に蘭は製鉄所の玄関先にいた。たぶん、由紀子さんという女性に手伝ってもらって、タクシーを呼んでもらい、ここまで来たのだと思うけど。どうやってたどり着いたか全く覚えていない。

たた、ひたすらに製鉄所の玄関の戸を叩きまくる。

「なんですか、蘭さん。そんなにたたいたら、玄関の戸が壊れるでしょうが。」

ガラッと戸が開いて、応答したのは懍である。

「あ、教授。どうしているんですか。水穂!もう心配になって、飛び出してきました!」

もう、言葉遣いも何もみんな忘れて蘭は懍に詰め寄った。ちょうど懍はどこかへ出かけるつもりだったようで、膝の上にカバンを置いている。

「やれやれ、蘭には知らせるなと散々言っていたんですけどね。水穂さんが、、、。」

中からブッチャーの声も聞こえてきて、玄関先にやってきた。

「あ、ブッチャー!水穂、水穂はどうしてる!今どこに!」

「今どこって、四畳半で寝てますよ。いつも通りに。」

「だ、だって、倒れたときいたものだから!も、もしかして運ばれたのかと思って!」

「落ち着いてください、蘭さん。」

懍が、一生懸命蘭をなだめた。

「やれやれ、あの由紀子さんが、大げさに伝達したんでしょうから、こういうことになるんですね。いいですか、今のところ意識はあり、会話もできます。まあ、少しばかりやり方が派手であった、というだけのことで、特に心配なことはありません。蘭さんは、こういう場面に対して、あんまり免疫がないから、蘭には知らせるな、なんて言われちゃうんですよ。」

「逆を言えば、先生がそうやって冷静なままでいられるほうがすごかったと思います。」

思わず小さな声でブッチャーがぼそっと言った。と、いうことは、やっぱり問題は深刻らしい。

「じゃあ、教授!会わせていただくことはできませんでしょうか!」

「蘭さん。そのように半狂乱になってしまわなければ、お会いしてかまいません。でも、その補償はないでしょう?」

「あ、、、すみません。落ち着いてしゃべりますから。どうか顔だけでも見てから帰らせていただきたいです。」

「先生。かわいそうですから、会わせてやりましょう。」

ブッチャーこと須藤聰が、懍にそっと言った。

「そうですね。仕方ありません。僕も早く出かけないと、間に合わなくなりますので。」

「わかりました。じゃあ、今日は俺がここに泊り込んで、水穂さんを見ますから大丈夫です。」

「教授、その役目をブッチャーではなく僕に与えていただけないでしょうか!」

蘭は、聰と懍にそう言ったが、

「蘭さん、無理な要求をしてはいけませんよ。蘭さんは家に帰って、杉三さんと由紀子さんに結果を報告する必要もあります。それを考えてから発言するようにしてください。」

懍は、蘭を戒めるように言った。

「それよりも教授、どこへ行くんですか?」

「ええ、東京大学です。前々から東京大学の教授から、製鉄について、講座の依頼がありました。すでに決まっていることなので、今更今日になって変更はできませんので。しばらくここを留守にしてしまいますけど、申し訳ありません。よろしくお願いします。」

「はい、わかりました。何かあったら、連絡をしますから。」

「ええ。講義中は、電源を落としたままにしておりますが、そのまま録音しておくことができるようになっていますので、そのままメッセージを残しておいてくれれば。」

「はい。じゃあ、お気をつけて行ってきてください。」

「行ってまいります。」

懍と聰はそう形式的に言葉を交わし、互いに敬礼した。懍は、淡々としたまま、車いすを動かして、製鉄所を出て行った。

「じゃあ、蘭さん、入ってください。たぶん今は、眠っていると思いますから、あんまりけたたましく攻め立てないでくださいませよ。」

聰は、蘭に静かに言った。

「悪いね。」

蘭は、聰のあとに続いて製鉄所に入る。

「今は大丈夫なのか?教授は、やり方が派手であっただけで、心配はないと言っていたが、それは、本当にそうなのか?」

廊下を移動しながら、蘭は聰に聞いた。

「あ、そうですね、、、。倒れた直前までそばにいたのは由紀子さんだけであり、俺が呼び出されたのは、青柳先生により介抱されて、ある程度落ち着いた後だったもんですから。ただ、俺が呼び出されて、部屋に入ったときは、まるで万年筆の赤いインクの入った瓶を、高いところから落っことしたように、血液が飛び散っていて、伏せた水穂さんの体から、広がってきたもんですから、ものすごくびっくりしました。」

「じゃあ、倒れる前に、何があったのかは、、、。」

「ええ。俺はよく知らないんですが、今西由紀子という女性と何か会話をしていたようです。食事も、いつも通り、一番安全だと言われている、八丁味噌の味噌汁を出したので、当たるような食品は、出していなかったと恵子さんも言っていました。なので、食品が原因といういうことは、ないと思うと言ってましたけどね、、、。」

「今西由紀子、、、。」

「ええ。先日、杉ちゃんのあてた福引で、千葉へ旅行に行きましたよね。その時に、久留里駅で知りあった駅員だそうで。なんでも、水穂さんに一目ぼれして、富士まで追っかけてきたそうなんですよ。いや、今時の若い子はすごいですね。仕事までやめて、好きになった人をそうやって追っかけてきちゃうんですから。なんとも、天下のJRをやめて、岳南鉄道に再就職し、今は吉原駅で働いているそうですよ。好きな人のそばにいたいからって。はじめのうちは、好きな人のそばにいられればそれでいいと思っていたようですが、ほかの乗客からの話を立ち聞きして、水穂さんが長くないんだと確信してしまい、せめて一度会いたいと思って、ここを突き止めてしまったそうなんですよ。」

聰は、頭をかじりながらそう言った。

「そうか、、、。あいつはもてるなあ。そんな若い女性まで虜にしてしまったのか。しかしなんで、製鉄所のありかを突き止めてしまったんだろう、、、。」

「うーん、よくわかりませんが、利用者の中には、製鉄所を退所後、文筆業をやって生計を立てている人も少なくありません。だから、そういう人たちが、製鉄所での体験を文章として、インターネットに公開するということも珍しくないんですよ。最近は、紙の本より、そっちのほうが、ヒット作を出す近道ですからね。そういう文書がゴロゴロと公開されていますので、その中には、実在する建物なんかもありますので、それを頼りに突き止めることができたんじゃないかなあ。」

そうなると、製鉄所は相当有名な場所になっているようである。それだけ利用者たちからの、支持率は高いということだろう。

「じゃあ、ここにいますけど、絶対に半狂乱にはならないでくださいよ。そうなったら、水穂さんに止める力はありませんよ!」

聰は、四畳半まで蘭を案内すると、ふすまに手をかけた。

「はい。わかったよ。ブッチャー。できる限り、声を荒げないようにするから、しばらく二人にしてもらえないだろうか。」

蘭は、自身はなかったが、そのとおりに言った。

「そうですか。蘭さんはすぐにそうなるから、見張っているようにと青柳先生が言っていたんですけどね。どうしようかな。」

聰はまだ心配そうであったが、蘭の顔を見て、

「わかりましたよ。じゃあ、絶対にですけど、あんまりでかい声で怒鳴ったり、体をゆすったりしてしまわないでくださいよ!」

といった。

「絶対にしないから、おろしてくれないかな。車いすで、上から目線で話すことはしたくないんだ。」

蘭がそう懇願すると、

「いいですよ。蘭さん。じゃあ、終わったら戻ってきますから、すぐに合図してください。」

聰は、蘭を車いすからおろして、床の上に座らせた。

「おい、起きているか?心配になって見に来たぞ。お前ずっと、大変だったらしいけど、なんで知らせてくれなかった?」

蘭は手ではって静かにふすまを開ける。

ふすまを開けると、確かに聰が言った通り、拭いてくれてはあるものの、飛び散った血液のあとが、しっかり畳についていた。これでは畳も近いうちに張り替えなければいけないなと、蘭は思った。

水穂本人は、聰が言った通り、布団で静かに眠っていた。蘭は倒れた時の顔を見たわけではないが、今は確かに静かな顔であり、苦しそうではない。さほどひどいというわけでもないという、懍の証言も本当なのかもしれなかった。

「お前、なんで何も言わなかったの?そこまで悪くなってたの。杉ちゃんも、青柳教授も、ブッチャーもみんな知っていて、もうある程度覚悟を決めているようだったぞ。それに、久留里駅で、あんな美人の駅員まで虜にしてさ。彼女、お前に一目ぼれして、こっちに来たそうじゃないか。それなのにさ、なんでみんなの期待を裏切るような真似ばっかりする?あの駅員が、わざわざ安定した職業を全部捨てて、岳南鉄道なんていう古ぼけた電車の駅員になるなんて、よほど強い思いでもない限りしないぞ。若い人ってのは、基本的に自分のことで精いっぱいな人ばっかりなんだからな。お前もさ、何とかしなきゃいけないなっていう気持ちを頼むから持ってくれ!お願いだから頼む!」

静かに語りかけたつもりだったのが、次第に音量が上がってきて、聰との約束は、どこかに行ってしまったようだ。

「てか、なんでそう簡単に、人を裏切るような真似ができるんだ。お前、顔がよければなんでも得をするかというと、そういうことはないぞ!」

蘭は思わず、眠っている親友の肩に手をかけようとしたが、

「お前は本当にうるさいんだな。頼むから黙っててくれ。」

目を閉じたまま、水穂は静かに言った。

「黙ってられるわけがないじゃないか!お前が倒れたというから、急いで駆けつけてきたんだよ!」

「放っておいてもらったほうがいいよ。こう何かある度に枕もとで騒がれるんじゃ、うるさくてたまらない。」

蘭は一生懸命言ったのに、こういうことを言われてしまっては、本当に頭に来てしまうのだが、そこを責めようかという気にはならなかった。次の言葉を言おうとしたのと同時に、水穂は再びせき込むのである。

「おい、まさかと思うけど、また出るの?」

幸いそれはなかったのでほっとするが、でも苦しそうだった。

「おい、お前、そこまで悪いんじゃ、ここにいても解決にはならないと思うから、ちょっと病院行ってこいや。」

「うるさい。」

蘭は提案したが、簡単に断られてしまった。

「だから、病院に行って来いといったんだよ。青柳教授はたいしたことないというけど、これではすごいことになっている。だからちゃんと、専門的な病院に行って、しっかりと治してもらってこい。」

「申し訳ないが、その誘いには乗らないよ。病院なんて、何の役にも立ちはしないから。」

せき込みながら答えを出す水穂は、とにかく痛々しい風情であった。

「なんでだよ。役に立たないって!病気になったら病院で見てもらうのは、当たり前のことじゃないのか!」

「うるさい。僕が、病院で何をされたか、もうとっくに知っているはずだろ。散々ひどい目にあって、もう二度と病院なんか行く気にはならない。」

「だったら、これを見てくれ!あの駅員が杉ちゃんの家に送ってきたものだ。杉ちゃん、お前と同じようなセリフを言って、破り捨ててしまったが、こっそりゴミ箱から出して、作り直してみた。見てみると、結構よさそうなところがあるんだよ。あの駅員、口コミサイトまで調べてくれて、その口コミの結果まで調べてくれたんだ。おんなじサイトを調べてみたが、結構な高評価だった。それだったら、大丈夫じゃないか。だから、そこへ行ってみろ!」

と言って蘭は、着物の袖の中から、茶封筒を一枚取り出した。

「ほら、開けてみな。杉ちゃんが、びりびりに破っていたが、徹夜で貼りなおしたんだ。」

「うるさいんだよ、お前は。」

かなり辛そうな表情ではあるが、何とか布団の上に起きて、水穂は茶封筒を受け取った。

「とにかく、開けてみてくれ。」

言われたとおりに、茶封筒を開けると、A4サイズのパンフレットが入っている。それは、くちゃくちゃにしわが寄って、びりびりに破られていたが、一枚一枚セロハンテープや接着剤で丁寧に貼られていた。その表紙を見ると、「生田記念病院」と書かれた文字と、真新しい病院の写真。しかも診療科案内には、呼吸器内科と書いてあった。

「中を見てくれよ。中を。」

とりあえず、表紙を開いてみると、診察のご案内とか、入院のご案内とか細かく書かれている。

「とりあえず、あの駅員が、いくつか病院のパンフレットを持ってきてくれたんだが、この病院が口コミサイトで調べてみて、一番評判がよかったんだ。ほかのところはさほどでもないが、ここが五段階評価で最高位だったんだよ。」

「それはお前の主観だろ。ちっともわかっていない。」

水穂は、またせき込んだ。

「主観じゃないよ。口コミサイトっていうのは、不特定多数の人が投稿したわけだからこそ、信憑性があるわけじゃないか。僕が投稿したわけじゃない。第一、僕は、この病院を訪れたわけじゃない。もう、杉ちゃんじゃないんだから、こんな説明しなくてもわかってくれると思うのに、、、。」

一生懸命説明する蘭には、なぜまったく通じないのか、意味が分からなかった。

「嫌だよ。杉ちゃんがこれをやぶった意味を考えろ。杉ちゃんは、理論的にはわかっていないけれど、そういうことは見破られるよ。それは長年付き合えばわかる。いくら、口コミで五段階であっても、パンフレットに何かきれいなことが書いてあったとしても、必ずどこかで、裏があって化けの皮が剥がれることを、杉ちゃんは知っている。だから破ったんだろ。こういうものは、胡散臭いし、見栄をはってわざと、こういうきれいな言葉でかざっているということを、杉ちゃんもわかると思う。だから、はじめっから手を出すべきじゃない。」

「そんなわけないじゃないじゃないか。もし、必要があれば、病院のオフィシャルサイトとか、見せてやるか。恵子さんに、タブレット借りてこようか?口コミサイトなんかも確認できるよ!」

「そんなものいらないよ。もう、うわずらの皮を見せられても、いやな気がするだけで、気分悪くなるだけ。ただでさえ、つらかったのに、虚偽の文書とか、見せられてもっと落ち込ませないでくれ。」

「なんでだよ。お前せっかく、あの駅員が見つけてくれたのを、全部要らないというのかよ。あの駅員のことも考えろ。ああして一目ぼれして。もう一回いうけれど、JRと岳南鉄道の落差というものを考えてみな?JRといえば元国鉄だろ?そうかと思えば、岳南鉄道は、ただの田舎電車だ。富士市内で、のんびり走っているだけじゃないか。きっとJRの都会の中のほうが、よっぽど恋愛の自由だってあるし、うまいものは買えるし、かわいい服も買えるし、友達だっているだろ。いいか、それを全部捨ててきたんだぞ。わかるか?そのくらいの覚悟を決めて、こっちに来たんだ。その気持ちも考えろ!好きな人をおっかけて、こっちに来たんだぞ!」

「馬鹿だなあお前。JRは幹線ばかりが主要路線ではないだろ。僕も杉ちゃんと、出かけたときに、彼女のもともとの勤務駅にいったことがあるが、あの久留里線は、本当に田舎電車で、まるで山の中にある、深い森を走っていく電車だった。工場も、煙突も何もない。電車に並走して、カラスが飛んでいるくらいだ。身延線でさえも、比べ物にならない田舎だった。」

「だけど、JRと、私鉄は違う。いくら田舎電車でも、JRであれば、もともと国鉄なんだから、身分が保証される。それを、破棄してこっちに来るんだから!」

「そんなことわかってる。だけど、最近の若い人は、安定した職業を捨てるなんて、平気でやる。お前もそうだよ。お前も、奥さんと結婚した時、お母さんに許可ももらわないで、外国人のお嫁さんをもらうんだから。」

「なんだ、それとこれとは話が別だよ!なんで僕のことを持ち出すんだ!そんな馬鹿なことを言わないで、ここへ行ってみてくれ。それで、もう一回持ち直して、頑張ってくれ!」

「いい、行かない!病院に行ったって、何も変わりはしない。どっちにしろ、病院の中で内紛が持ち上がって、門前払いになるか、ほかの患者が逃げていくか、どちらかしかない。そういうもんなんだよ。同和問題ってのは。お前みたいな金持ちに、わかるはずもない。」

「い、言ったな!それだけはいうもんじゃないぞ!それだけは!金持ちであれ、貧乏であれ、誰でも見てくれるのが医療ってもんじゃないのかよ!そうじゃないのかよ!」

しかし、返答は返ってこなかった。代わりに聞こえてきたのは、苦しそうなうめき声と、せき込む音である。

「ほんとに、悪くなったな。」

蘭は、ぽろんと涙を出して、泣きだしてしまうのである。

「頼むから、行ってくれよ。もし、お前がそういうことで馬鹿にされるようであれば、小久保先生にでも相談してさ、病院に注意してもらうようにするから。おい、頼むから!」

返答はなかった。涙目に見えたものは、右手で胸部を抑えながら、せき込んでいる人物である。やがて、口に当てた左手指の間から、また赤い液体がぼたんと落ちた。

「お前、どうしたんだよ。今までは結構連続してせき込んでいたはずだろ。なんだか出し方も変わってしまったような、、、。」

「うるさい。吐き気がすることはするが、胸が痛くて出したくても出せないんだ。咳をすると、痛みがさらに増大して、苦しい。」

これを聞いて蘭はもう我慢できなくなり、座っている親友の肩に手をかけた。

「もうやめてくれ。頼むから、行ってくれ。本当に、お前が逝くことだけは、まだ後回しにしたい。」

たぶん、本当にそうなってしまう時間も近いんだなと思われるが、それだけはどうしても怖くて口にできない蘭である。

「それとも、たった一匹だけでは、ダメということか?」

「ごめんね。」

変わり果てた親友は、そう言葉を返すだけで、精いっぱいだったが、蘭はそれを肯定と受け取ることにした。

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