杉ちゃん医療編 第一部 木
増田朋美
第一章
木
第一章
知らないうちに、富士山が真っ白に変わっていたほど寒くなっていた。そうなると、服装は自動的に長袖になって、その上に上着を着て、場合によってはマフラーなどをつけることもある。
少し過ごしやすくなるから、なんて周りの人が散々言っていたのにも関わらず、水穂は相変わらず体調が回復せず、布団で寝ているしか生活できなかった。たまにどこかへ出かけることはあったが、そのあとに何が起こるか、みんな予想ができているので、行きたいということすら許されなくなっている。
とりあえず、布団に座って、せき込むことだけは、許されていた。と、いうよりそれだけはしておかないと、本人のプライドが許さないし、周りもあんしんできないという目論見もある。
だからもう、やることといえばそれしかないのだった。逆を言えばそれさえもできなくなったら、もう失敗だあと思う。
そのころ。こっちは、久留里線の沿線に比べると寒いなあ、なんて考えながら、今日も由紀子は吉原駅で駅員業務を続けていた。
とりあえず、切符の販売と、電車の受け答え、駅の構内の掃除、あとは、お客さんたちの話し相手もしたりするのが駅員業務の内容だったが、駅員をしながらも考えることは一つある。
評判の良いとされている病院の情報を入手して、市役所とかに置いてあったパンフレットを杉三の家に、郵送したのだが、まったく答えが返ってこなかった。答えを期待するほうが間違いなのかもしれないが、せめてどうなったかだけは知りたいなと思う。杉ちゃんが文字の読み書きをできないというのは聞いているが、誰かに代筆してもらうとかして、結果を知らせてくれないだろうか。
もちろん、ただの他人だったら、ここまでは気にしない。それは知っている。そこまで馬鹿な女性ではない。あの人は自分の中で、特別な人なんだもの。あたしが、今まで出会ってきた中で一番大切な人なんだもの。あたしの人生観も変えてくれた、人なんだもの。あそこまで、すごかったんだもの。ほかに代わる人なんてどこにもないわよ。あるシンガーソングライターの歌詞を借りれば、まさしく「君の代わりなんて、どこにもいないのに」である。
由紀子は、あまりポップミュージックに対して、関心はなかったが、動画サイトでこの歌を偶然きいてしまってから、ダウンロードして頻繁に聞くようになっており、最近は歌詞を空で覚えてしまって、時々口ずさむことがある。
「君の代わりなんて、どこにもいないのに、、、。」
そう歌いながら、駅構内の掃除を続けるのだった。
ある日、今日も電車を誘導しているときのことである。電車の中から、一人の若い女性が、降りてきた。もちろん駅員だから、どうしたのかなんて声をかけることはできないが、相当な落ち込みぶりである。失恋でもしたのかなあと思ったが、それどころではなく、もっと深刻らしい。
「ほら、大変だと思うけど、頑張りな。これからのほうが大変だよ。しっかりしな。」
隣の席に座っていたおばあさんが、若い女性の肩をたたいた。一体何だと思って聞いていると、
「もうね、ある程度あきらめることも必要なの。若いうちから、こういうときに直面するってちょっと過酷なことかもしれないけど、あとを追ってとかそういうことは絶対にダメだからね!」
たぶん地元の人だから、そういうことを言えるんだろう。都会であれば絶対にありえないことだ。田舎ならではの人付き合いで、一生懸命若い女性を励ましてあげられるような存在は、今はとても貴重である。
「もし何かあったら、うちでご飯を食べさせてあげるから。ご飯くらいしっかりと食べなきゃ、ダメだよ。」
おばあさんの励ましに、若い女性は何か決断したようで、
「本当にありがとうね。一年もたたなかったけど、結婚できたからよかったことにするよ。」
とだけ言って、駅の自動販売機で買ったコーヒーをがぶ飲みした。もう彼女はやけくそだ。きっと、ちょっとだけある思い出にすがって、悲しみを和らげようと思っているのだろう。
「思い出があるもん、あたし。あの人と、本当に短い間だったけど、結婚して、一緒に暮らした思い出があったから、あたし平気。まあ、親に散々反対されて、やっと結婚できたと思って、大喜びしてたらこうなったけど、ま、それも、人生だから!」
「まあまあ、やけにならないでね。もしやけになりそうになったら、うちに来な。あたしも、旦那が戦争で死んじゃったときは、もう、でかい声で叫んじゃった。」
きっと、彼女はおばあちゃんの存在があって、立ち直っていけるだろうなと思いながら、由紀子は二人の切符を切った。
でも、あたしにはそういうおばあちゃんの存在はないな、ということも気づかされた。
家族だって、ああしてJRの安全神話を語るから、いやになってこっちへ飛び出してきてしまい、敵に回してしまったし。東京で、ほかの電車へ就職してしまった友人たちとは全く連絡を取っていない。田舎電車の代表選手として知られている、水郡線に就職した友人からも、JRから離れるとは変な人ね、とからかわれてそれ以来連絡はしていなかった。自分には、ああして励ましてくれるおばあちゃんはいないのであるし、好きになった人物のことを語り明かせる友人もない。
ただ、自分は、邪魔をする存在というものはないなということは知っていた。だって、それを避けて逃げてここへ来たのだから。つまり、自分の意思で動くということは可能なのだった。何かを起こしても、家族に邪魔されることもなければ、友人たちに邪魔をされることもない。自分で何かしても、責任さえ取れればそれでいい。つまり何をやってもいい。由紀子は会いに行こう!と決断した。
なんだか、ある人が描いた童話、「つつじの娘」の主人公が、山を五つ超えたところに住んでいる男性に会いに行こうと決断した言葉、
「そうだ!あの山を超えて会いに行けばいい。」
それにそっくりだった。
由紀子は、駅員としての勤務を終えると、自宅にかえってノートパソコンを立ち上げ、とりあえず杉三が言っていた、製鉄所という言葉を検索欄にいれる。もちろん製鉄所という企業が存在するわけではない。でも、その場所に関する記述は数多くあり、そこへ滞在したときの感想などを書いたエッセイなどを投稿している小説サイトもあった。また別の福祉関係のサイトでは、製鉄所での生活を、福祉関係施設のお手本として絶賛している記事も多数見受けられ、その中には見学者のためと称して、製鉄所への行き方のヒントを書いてある記事もある。あるいは精神科医や、カウンセラーなどが製鉄所の評判を記述しているものもあった。
どのサイトにも、製鉄所の所番地などはまったく明記していなかったが、小説サイトなどで周りに何が存在しているのか明確になっているので、製鉄所への行き方は、ある程度調べることはできた。それらのものを書きとって、彼女は製鉄所への地図を作ってしまった。そして、手帳を取り出し、明日が日曜で、ちょうど勤務はないということを知ると、すぐに決断した。
翌日。
その日は雨だった。
そんなことは関係ないから、急いで朝食のパンを食べて、コーヒーをがぶ飲みして、計画した通り、昨日書いた地図を机の上からとって、カバンに入れる。
服装はどうしようかと思ったが、自分のことをすぐにわかってもらうため、駅員帽だけは持っていくことにする。JR時代の駅員帽は、もうとっくに返してしまったので、岳南鉄道から支給された駅員帽であるが、形が似ているのですぐわかると思う。駅の制服では紛らわしいので、とりあえずブラウスを着て、ズボンをはく。好きな人に会いに行くとなると、精いっぱいのおしゃれをしたくなるが、それは駅員帽に任せることにする。
部屋に置いてある、サボテンに声掛けをして、由紀子はカバンを持ち、部屋を出た。
そんなことはつゆ知らず、水穂は強烈な吐き気と闘いながら、布団に座ってせき込んで内容物を出すことを繰り返していた。
「水穂ちゃん、ごめん、具合悪いとは思うけど、ちょっとだけ起きてくれないかな。なんかね、今西由紀子さんという人が来てるの。どうしても会いたいから会いに来たんだって。あんまりよくないって言っても、そこを何とかっていうから。短い時間でもいいから、お相手してあげて。」
今西由紀子という名前がピンとこないが、とりあえず受け付けることにした。
恵子さんがどうぞと言って、案内してくるのとほぼ同時に、どうもすみませんと言いながら、女性が入ってくるので驚いてしまう。
「こんにちは。会いに来てしまいました。」
一瞬誰だっけと思って、ポカンとしていると、
「ごめんなさい。これをかぶればわかるかな?」
とにこっと笑って、カバンから駅員帽を出して、頭にかぶってくれたので、やっとなんとなくこの人が誰だけわかった。
「あ、あの時久留里駅で、」
「はい。覚えていてくださったみたいですね。」
言葉で返事をする代わりに、咳で返事を返した。これには由紀子もびっくりしてしまったらしい。
「だ、大丈夫ですか。なんか前よりもずっと、、、。」
「よくなったと思ってたと?」
返事をした直後に、また咳が出た。さすがに血を出すという仕草はしなかったが、別のものがあった。
「ごめんなさい。久留里駅に来てくれた時より、少し楽になってくれたかなと思って、期待をしたのが間違いでしたね。」
由紀子にしても、結核は昔ほど怖い病気ではないなんて、大間違いなんだなと思いながら、そう発言した。
「しかし、病院、行ったでしょ?その時に薬かなんかもらわなかったんですか?」
一番聞きたかった疑問を投げかけてみる。
「病院って、かかりつけにはかかってますけど、、、。」
「あれれ、、、。あたし、知らせたはずですけど?杉ちゃんから聞かなかったの?」
「知らせた?知らせたって何も聞いてないですよ。」
水穂は嘘偽りなく正直に答えたつもりだったが、由紀子はさらに変な顔をする。
「じゃあ、杉ちゃん何も話さなかったんですか?」
「はい、知りません。知らせたって、何を知らせたんでしょう。」
こうなったら、あたしがいうしかないな、と思って、由紀子は大きく息を吸い、こう語り始めた。
「先日、あたし吉原駅で杉ちゃんに会ったんです。その時に杉ちゃんから、容体がよくないと聞かされたから、何とかしてほしいなと思って、病院調べてあげるって言ったんですよ。」
「吉原駅?勤務駅は久留里駅だったはずですよね。もしかして、富士に観光にきたとかですか?まさかと思うけど、東京の吉原に杉ちゃんが出没したということはあり得ない話なので、、、。」
それさえも知らないのかと、さらに驚かされるが、そこを責めている暇はなく、とにかく伝えなければならないと思い、一気に語る。
「当たり前じゃないですか。東京の吉原には、吉原大門というバス停はありますが、吉原駅という駅は立ってないです。まぎれもない富士の吉原駅ですよ。あたし、親の事情でこっちに来て、今は岳南鉄道で働いているんですよ。この駅員帽見ればわかるでしょ。」
「あ、そういえばそうでした。すみません。」
確かに、その駅員帽はJRのものではないということは見て取れた。それはとにかくそうだけど、とにかくせき込むことだけは何をやってもやめられなかった。
「それは置いといて、あたし、病院を調べて、富士の市役所にいってパンフレットもらったりして、杉ちゃんのお宅に、郵便で送りました。すぐについてほしかったから、一番早い速達郵便でお願いしたんです。本当は、水穂さんに直接出そうかなと思ったんですけど、あの時洗剤を送ってくださったときに、ここの住所ではなくて、杉ちゃんの住所しか書いてなかったものですから。そこからもう日数もかなり経っているし、杉ちゃんはもう知らせてくれたかなと思って、お返事を待っていたのですけど、何もないから心配になって今日来たんですよ!」
全容が明らかになった。水穂としては、製鉄所の場所はメディアにもインターネットにも公表していないので、どうしてここにたどり着くことができたかを、聞いてみたかったが、咳に邪魔されて質問ができない。
「もう、そこまで悪いのに、どうして杉ちゃん、何も知らせてなかったのか、あたし、不思議でなりません。なんで何も知らせてなかったんだろ。だって、少なくとも、口コミサイトで評判も調べたけど、決して悪いということはありませんでした。なんでここまで、放置していられるのかしら。もう、なんで、何も杉ちゃんは教えなかったんだろう。あたし、そんなに悪いことしたのかな。親切で送っただけなのに、、、。」
「そういうことですか。そういうことをしても、何も意味はないということだから、杉ちゃんは僕のところへ知らせなかったんでしょう。病院なんて、口コミとか、パンフレットを見ただけでは、まったくあてになりませんよ。僕もそういうことで、失敗したことがあったので、杉ちゃんは、そこを教訓にして、、、。」
言い切りたいことはあったが、伝える前にせき込み、最後までいうことはできなかったという、情けなさである。
「それで失敗したのなら、もう一回調べなおして、今度はちゃんとしたところへ行けばいいだけじゃないですか。それに、失敗したっていつのことなんです?かなり昔でしょう?今は、新しい病院だって増えてますし、もうそういうことも改善されてると思いますよ。もし、ひどいことをいう医者がいるんだったら、もうインターネットに書いてしまうとか、そうやって、すぐに口外できちゃうんですから、ある程度医者だって、気を付けると思いますよ。もし、一人で行くのが大変だったら、言ってくれればあたしも一緒にいきますし。JRと違って、休みは比較的融通が利きますから、予約を取って日付を決めてくだされば、駅に連絡入れますから。」
一生懸命説得してくれるのはありがたいが、いくら口コミで評判がよかったとしても、インターネットですぐに口外できる時代であるとしても、同和地区の出身者に対して態度を変えるということはまずないのであった。仕方ないものは仕方ない。仮に病院にいけたとしても、ほかの患者と軋轢が生じるとかそうなって、内紛が発生することは当たり前。でも、そういうことを果たして目の前にいる女性がわかってくれるかというと、それは無理だなと思う。まだ三十にもなっていない女性に、こんなことを話しても、通じるはずもない。学校で同和問題を教えているかどうかも疑わしいし、もう、時代も変わっているのだから、日本で人種差別があったなんてことは、知っているはずもないし、実感すらできないだろう。
どうやって伝えたらいいものか、悩みこんでしまった。
「黙ってないでくださいよ。だって、そこまで悪かったら、見てもらわないと何もなりませんよ。よっぽど大きな病院でしっかりしたところへ行って、治してもらってもらうべきです!」
伝えようとしてくれることはわかるけれど、自分のような人は、医療なんて、受けられる身分ではないんだよ、言えたらどんなに楽だろう。でも、それを言ったら、どんな反応が返ってくるだろう。それが怖くて口に出せなかった。
言葉の代わりに出てくるものは、相変わらず咳である。
「もう、しっかりしてください。お返事もできないようでは、ご自身で何とかしようなんてとても無理なんです!」
「だから、できないものはできないんです。日本人は法の下に平等なんて大ぼらを、信じないでください。」
そこだけやっということができた。もう、彼女がどんな顔をしているのか、見ることすら怖くてできなくて、ずっと下を向いていた。
「じゃあ、怒ればいいでしょう!怒ってくださいよ!そういうことは違憲なんだって、はっきり言っちゃっていいと思いますよ!」
聞くはずのない答えが返ってきたので、思わず顔を上げる。目の前にいる駅員帽をかぶった若い女性は、馬鹿にしている表情は全くなく、真剣そのものの顔で水穂を見つめている。
「あたし知ってますよ!そのくらい。もちろん、そういう差別を受けていた当事者にあったのは今ここで初めてですけど、そういう人たちがいたっていうことは聞いたことあります。全部の人が、そうやって馬鹿にしていると考えていると思うんですけど、そうじゃない人間も、本当に少ないけれど、いるんだってことを分かってくれませんか!そうやって、どうせ何も変わらないって、拒絶し続けるのも、社会が変わらない原因の一部なのではないかと思いますけど!どうなんです!」
反応に困ってしまって、何も言うことはできなかった。
「手始めに、あたしのこと叱ってくれたらどうですか。きっと、存在するだけで疎ましがられるような環境にいたんでしょうから。きっと、私の事恨んでくれたって、仕方ないと思います。あたしだって、そういうことは正直に言うとまったく知らないので、もう、この際ですから、あたしをぶん殴って、あたしの曲がった根性を叩き直してください!」
若い女性らしく、純粋な思いをぶつけてもらって、これほどうれしいことはない、と言いたかったが、口を開こうとしたその瞬間、
「あ、、、。」
急に胸部に激しい痛みを覚え、同時に噴水のように口から内容物が噴き出て、何もわからなくなってしまったのである。
「だ、大丈夫ですか。しっかりしてください!」
それを聞きつけて、青柳教授が部屋に入ってきてくれなかったら、もう、パニックになって泣き出してしまってもおかしくないほどである。
教授から、とにかく知らせる人には知らせてこいときつく言われて、製鉄所を飛び出し、やっと自分が駅員帽をかぶったままだったことに気が付いた。
一方そのころ、自動販売機でジュースを買おうと、蘭がお金を投入したその直後である。
「すみません!あの、この辺りに影山さんというお宅はありませんか!」
瀧のような汗をかいて、若い女性が走ってきたので、蘭は驚いてしまった。
「影山?誰のことですか?」
「はい!影山さんです!影山杉三さん。あだ名を杉ちゃんという!」
「杉ちゃん?杉ちゃんなら、すぐ近くですけど、杉ちゃんに何かあったんでしょうか?」
急いで蘭はそう聞くと、
「大変なんですよ!水穂さんが!すぐに知らせて来いと言われたものですから!」
と、金切り声に近いような声で彼女がそういうので、蘭は自動販売機にお金を入れたのもどこかへ忘れて、
「み、水穂がどうしたって!」
と聞き返した。
「倒れちゃったんです!」
その言葉を聞いて、すぐに、こっちへ来てくれと言って、家に直行した蘭だった。自動販売機が点灯したままなのも気が付かなかった。
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