1-43 テロリスト

 男は二度深呼吸した。

 覚悟が無かったわけではない。

 この国に辟易としていたし、一度誰かが根本から破壊しないといけないと常々思っていた。

 だからダークウェブに潜って同じ考えの仲間に会った時は自分の事を肯定してくれた気がして嬉しかった。

 大学では活動家の先輩をずっと見ていた。彼らを尊敬していたし、彼らのようになりたいと思った。

 だが、復興バブルが起ると皆が持っていた思想を捨て、社会へと戻った。

 男はそれにひどく失望した。あれだけ大声で叫んでいた事をなかった事にしてしまう。

 まるで詐欺師だ。自分はあいつらとは違う。

 ずっとこの思いを持ち続けると心に誓い、大学を卒業した。職には就けなかった。それでもなんとかなると思い、そのまま十年が経った。

 男はもう一度深呼吸をした。

 ここは駅のトイレ。目の前には鏡があり、男の顔を映していた。

 今から、男は人を殺す。それも不特定多数をだ。会った事もない。話した事もない。見た事もない。どんな人生を歩んできたか。善人か悪人かすら分からない。老人かもしれないし、子供かもしれない。自分を卑下してきた奴らかもしれないし、恩人かもしれない。

 誰か知らない人達を殺す。男はその為にここに来た。

 トイレから出ると、自動運転の電車がやって来た。落下防止の自動ドアが開くと、男は人の波に紛れて電車に乗り込む。

 動き出すとしばらくして、男は肩に掛けていたリュックサックを床に置いた。

 ゴトンと音がしたので男はドキッとして、チラチラ辺りを見たが、誰も気にしていなかった。

 隣のOLもアイスのスクリーンを少し広げて雑誌か何かを見ているだけだ。

 男は長く息を吐き、正面の景色を見た。ビルが建ち並ぶ東京の景色。

 これが吹き飛べば世界は変わってくれるのに。大学へ通っていた時ずっとそう思って見ていた景色だった。

 だが、今はどこか懐かしく思えた。急に自分が小さな存在に思えた。

 恐らくこれが成功してもあのビルは立ち続けるし、周りの人達は死ぬかもしれないが、少しすれば電車は動きだし、人は仕事に向うだろう。そんな想像をしてしまった。

 やるか、やめるか。

 今までなかった二択目が出てきた。

 やめるか、やるか。

 それは電車が進むにつれ前後した。

 やめても、自分には何もない。そう思うともうやるしかない気がするし、やれば、とんでもない後悔が襲ってきそうな気もした。

 そんな時、男は思い出した。

 自分を馬鹿にしてきた奴らの顔を。自分を裏切った奴らの顔を。

 そして何よりも自分が志を持った時の顔を、男は思い出した。

 やろう。

 男はそう覚悟を決めた。電車は止まり、指示された駅が次の駅となった。

 カプセルのボタンは押してから一分後に起動するようセットされている。

 男はリュックのチャックを少し開けた。上から見ても液体が電車の揺れに合わせて揺れているのが分かった。

 男はもう一度深呼吸をして、リュックに手を伸ばした。

 しかし、男の伸ばした手は、隣にいたOLに捕まれてしまう。

 彼女は大きな声でこう言った。

「この人痴漢です!」

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