1-19 零課

夏音の通う学校は普段暮らしている部屋と同じ階の端にある正方形の教室のことだ。

 そこにあるのは机と椅子が一つずつだけだった。

 夏音が部屋に入ると、壁のディスプレイに人が映し出される。

 それは白髪に白髭の小さな老人だった。白く長い眉のせいで目が隠れている。

「おはようございます」夏音が挨拶する。

『はい、おはよう。今日は数学とプログラミングの授業をします。予習はしてきましたね?』

「お仕事があったのでしてません」

 夏音は悪びれる様子も無かった。教師AIの老人は間を開けて小さく頷いた。

『ふむ。仕事がなくてもしてきた試しがありませんが・・・・・・。まあ良いでしょう。まずは数学からです。教科書の52ページを開いて』

 夏音は言われた通りにアイスのスクリーンを机に伸ばして広げ、端末の上からタッチペンを引き抜いて持った。スクリーンには数学の教科書が表示されている。

『まずは先日の復習をしましょう。この問題はどの手順で解くんだったかな?』

 教師AIはそう言って問題の一つを指差した。

 夏音はその問題をじっと見て、顔を上げた。

「覚えてません」

『ふむ。でしょうね。覚えていた試しがないですから。記憶が消える。その感覚を私は共有しかねますが、事実なのだから現象として受け止めなければならないですね』

「はい。受け止めて下さい」

『ふむ。つらいという感情を私は持ち得ませんが、多分こういう時に感じるのでしょう』

「あたしもつらいです。土曜日なのに」

『・・・・・・ふむ。では授業を続けましょう』

 そんなこんなで一コマ90分の授業が二つ続くのであった。

 授業中、夏音はずっと比嘉の事を考えていた。

 正直、彼の事がよく分からなくなっていた。

 何がしたいのか。何をしているのか。何を考えているのか。

 その全てがあやふやだった。

 事故があるまでは互いの距離は極めて近かった。しかし、意識を取り戻し、治療を受け、リハビリを受けている間、すぐそばにいるはずの彼が遠くに感じた。 

 夏音には比嘉と向いている方向が違うのが分かった。

 彼は何かを睨んでいた。それが何だったのか。夏音には分からなかったし、恐らく比嘉自身にも分かっていなかったんだろう。

 しかし確かに比嘉は何かを睨んでいた。

 比嘉が消えた日。手紙を見て夏音は思った。

 きっと、彼は何を睨んでいたのかが分かったんだろう。だからそれを探しに向かったんだろう。夏音はそれを手紙を持った右手で感じた。

 それは不明瞭な独断、ドクサであったが、夏音にはそれが真実だと理解できた。

 難しい事は分からない。ただ、夏音は比嘉にまた会いたいと思った。

 会ってお話しがしたかった。今日までの事を、これからの事と一緒に。

 頬杖をついて落書きをする夏音。

 心ここにあらずの夏音を見て、教師AIはまたふむと呟いた。

『話、聞いていますか?』

「・・・・・・聞いては、います」

 教師AIはプログラミングにおけるオブジェクト指向を説明した図をバックに髭を触った。

『・・・・・・・・・・・・ふむ。つらい・・・・・・』

 彼はそう言い、この状況を好転させる術を検索した。

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