1-14 零課

 夏音が目を覚ますと自室のベッドの上だった。

 15畳ほどの広い部屋にベッドと仕切り、そして生活に必要なものがあった。

 何か音がする。そう思って夏音が首を動かすと軽快な音楽をアラーム代りに鳴らすペン型のアイスが見えた。ベッドの横から内臓されたプレートが出て、その上のペン立てに入っている。

 夏音は眠たい目を擦るが、起き上がる様子はない。

「・・・・・・う~ん・・・・・・。フウちゃん今なん時ぃ~?」

『午前7時47分だよ。カノンちゃん、お寝坊だねぇ』

 夏音の問いにペンが答えた。正しく言えばペンとこの部屋全ての電子機器にネットを張り巡らせたAIが答えた。

 愛らしい少女の声だ。それは部屋を泳いでいた。

 電子機器や家電に設置されたディスプレイの水槽をゆっくりと漂うのは、フウちゃんこと小さなフウセンウオだ。小石サイズのオレンジボディで口をぽかんと開けている。泳いでいるというよりは潮に流されている様だった。

「メンテは~?」

『カノンちゃんが寝てる間に終わったよぉ。でも吉沢さんと谷岡さんは別の仕事が入ってどっか行っちゃった。臼田さんは約束がなくなって一人酒だって』

「ふ~ん。ケイは?」

「ここにいるけど」

 圭人の声はAIと同じくディスプレイから聞こえた。

 よく見ると壁一面に張られたスクリーンに小さく姿が見える。

 何もない白い床の上で圭人は読書をしていた。

 白いカッターシャツに黒い学生ズボン。優しそうな少年はどこか夏音と似ていた。背は少し圭人の方が高いが、ほとんど同じくらいだ。

「何読んでるの? 漫画?」

「デイヴィット・ヒュームの人間本性論」

「それ、面白いの?」

「僕にとっては興味深いね。特に感覚を静態的と動態的に区分する点は他人事じゃないから。何より経験主義者である事は哲学者において重要だよ。思考と現実の動作は必ずしもリンクしてないからね。何より僕は必然的な懐疑主義者だから」

 圭人の話を夏音はさっぱり分からなかったし、分かるつもりもさらさらなかった。

「ふ~ん。お腹空いたー」

 夏音は難しい話で目が覚めて、ベッドから降りた。それも気にせず圭人は読書を続ける。

 フウちゃんが尋ねる。

『今日の朝ご飯は警視庁のお残り弁当かトースト。どっちにする?』

「トースト焼いといて~。あたしシャワー浴びるね」

 夏音はそう言って部屋の隣にある共同のシャワールームに向かった。

 夏音が入るとロックがかかる。脱衣所で脱いだ服を洗濯機に入れて、裸になった。

 シャワールームに入るとセンサーが夏音の体温を感知し、適温のお湯がノズルから出された。

 夏音はそれを気持ちよさそうに浴びる。

 ふと、昨日切れた左手を見てみると人工の皮膚は張り替えられ、違和感はない。お湯の温かさも、滴るの感触も、手で触れた胸元の感覚も、何一つ違和感なく伝わった。

 あまりにも違和感が無い事に違和感を覚えるほどだ。所詮、人の感覚は全て脳が作り出す。義手に埋め込まれたセンサーと人工神経が脳に電気信号を送り、この感覚を作り出していた。

 やっていることは本物の手と変わりはない。だからこそ、それがまた違和感となる。脳は騙せても、心は騙せていない感じだ。

 どこか騙されてたまるものかという反発心にも似た感情が夏音にはあった。

 しかしそれもすぐに忘れ、瞳を閉じる。気持ちの良い温かさに身を任せると頬が緩んだ。

 それが数分続いた時、天井から声がかかる。

『カノンちゃん。早くあがらないと遅刻しちゃうよ』

「は~い」

 夏音はそう答えて、目を開けた。同時にお湯も止まった。バスルームから出る手前、壁に空いた無数の穴から温かい風が出てくる。それは夏音の体に付いた水分をさっと飛ばした。

 脱衣所で唯一濡れている髪をドライヤーで乾かす。それもすぐに終わり、夏音は下着姿で部屋に戻った。

 同時にトーストが焼けてトースターから出てきた。これも全てAIが計算している。無駄のない生活がデザインされていた。

 夏音は皿を取り出し、トースターを乗せる。冷蔵庫から苺ジャムを取り出し、スプーンですくって塗った。

「土曜日にも学校があるって、おかしいと思うな」

 夏音は不満そうにトーストをかじった。

 テーブルに内臓されたディスプレイに映った圭人が本のページをめくりながら答えた。

「しょうがないよ。仕事もあるんだから時間の確保が不安定なんだ。行ける時に行っておかないとね。それに勉強は楽しいよ」

「どこがー? 検索したら出てくる事をわざわざ覚えるのって無駄な気がするし、考える事だってAIの方が早いし、正確だよ」

「使う人間に知識や見識がないとAIを正確に利用できないでしょ。民間人のAI使用は法律で制限されてるんだから、いざという時に勉強が出来ないと不便だよ。それに知識はいくらあっても無駄にはならない」

「でも知識がありすぎる事で思考に弊害が出るんじゃない」

「それをコントロールする為の力を学校教育で得るんだよ。形だけでも人間がAIより上位に立つ為には最低限の教養が必要だろ」

「だからって、土曜に学校は行かなくていいと思う」

「どうでもいいけど早く服着なよ」

『はしたないとお嫁に行けないよ~』

 自分の意見が受け入れられず夏音はむっと頬を膨らませ、トーストをかじった。テーブルの上のサーバーからオレンジジュースをお気に入りのマグカップに入れて飲むと、朝食を終える。

 夏音はベッド横の着替えボックスに入れられたYシャツと黒いズボンを履いた。いつでも仕事に行けるように服装は昨日とほとんど変わらない。

 スーツのジャケットは着ていないが、それも鞄の中に入っている。

 夏音はスカートがよかったし、制服がよかった。

 外で女子校生が可愛い制服を着てるのを見ると羨ましくなる。せめて髪型だけでもと、今日はゴムでおさげにしてみる。しかし長さが足りずに断念した。

 結局大きめのリボンでサイドテールにして、夏音は部屋の外に出た。

 すると目の前に新島が立っていた。夏音は首を傾げた。サイドテールが揺れる。

「どうしたんですか?」

「ミーティングだ。学校は後でいい」

 新島はそう言って夏音の頭についたリボンに目をやった。

 夏音はどんな感想を貰えるか少しわくわくしながら待っていた。

「行かなくていいの?」

「それを判断するのは俺じゃなくて教育AIだ。カリキュラムに余裕があるなら休めるかもな。・・・・・・それと、」

 新島は夏音のリボンを指ではじいた。

「仕事だ。これは外せ」

 新島は振り返り、通路を歩いた。夏音はまたむすっとして、口を尖らせたまま渋々リボンを外した。それを胸ポケット入れ、新島の後について行く。

 零課のオフィスと夏音の部屋を繋ぐ通路は設計図にも載ってない。夏音が住んでいる部屋は機密情報だった。

 夏音達はこの国で初めての人間兵器なのだ。

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