心境の変化

 体育祭は、A組の大逆転劇で終わった。

 我がB組は結局三位。二位がD組。

 一部の美術部員間で成立していた賭けは惨敗である。


 そしてあのあと、美術展という一大イベントが待っており、我が美術部は俺という幽霊部員を残して忙しそうであった。

 俺が参加したところで手伝えることは何もない。ほぼ帰宅部同然になった俺を、咎める者はいなかった。


 そして今日もいつもの通り、退屈な授業が終わった。モノクロだった教室内が、少し色づいたように感じられる。現金なものだ。


 さて、今日はこんなクソ暑いし、エアコンのきいた我が家に帰って思う存分ゲームでもしようか、と思った矢先に、俺の自由を侵害する天敵が現れた。


「延樹せーんぱい♪ さーすーがーにー、今日は部活、来ますよね?」


 長めの髪にくっついている黄色のでっかいリボンが、いや結城華子という名のリボンが、いやいや結城華子という名の食虫植物にも似た美術部の後輩女子が、教室出口でいつの間にか待ちかまえていた。今週も全サボり皆勤賞まであと一日だ。そして俺は今とてつもなくゲームがしたい。


「悪い、やんごとなき用事があるから、今日は帰る」

「先輩の大事な用事って、ゲームか昼寝かえっちなことかのどれかですよね」


 華子がそういって小悪魔っぽく笑う。なんだ最後のは。


「そう、えっちなこと。じゃあな」


 華子の言葉に適当に乗っかって、その隙に横を通り過ぎようとした刹那、ガシッと左腕を掴まれた。おまえ、力強いな。


「今日は部長たちが美術展準備に参加しちゃってますからー、美術部はわたしと先輩だけですよ? よかったですね、えっちなことし放題です」


 全面無罪な俺に、うかつな発言で注目を集めさせるんじゃねえ。まわりの俺を見る目が明日から変わっちまうぞ。


「そんなことしたら美術部廃部になりそうだな。いいから腕を放せ。当たってるぞ、柔らかいのが」

「当ててるんですよ。ますますよかったですね、いい思いができて」


 あ、既成事実まで作らされた。明日からクラスメートにケダモノ扱いされないことを祈ろう。


「これで、部活にこなかったら先輩はケダモノ確定ですよ」

「エスパーかおまえは! だいいち部活に出たらよけいにケダモノの噂が広まりそうなのは気のせいか?」

「大丈夫です。今日部活で起きたことは、誰にも言いませんから。先輩も他言無用ですよ」


 黙ってりゃ美少女なのに、この後輩ときたら。

 これ以上クラスメイトの前でこいつを自由に喋らせてはいけない。そう直感で悟った俺は、あきらめて部活に行くことにした。


 ―・―・―・―・―・―・―


「ほんとに誰もいねえな」


 久しぶりに来たが、美術部室はモノクロにしか見えないくらいの寂しさだ。なんでこんな状況で部活に参加しなければならんのだ。


「だから、ふたりきりって言ったじゃないですか。……ムラムラきました? きてます?」

「ちったあ肉食隠せ。この悪食が」

「先輩の肉棒は美味しそうですね?」


 ヤバい、割とマジで貞操の危機を感じる。初めてはちゃんとしたベッドの上で……なんて乙女的発想が頭に浮かんだことは、内緒にしとこう。


「あ、わたしも、まだ未経験ですから、リードしてくださいね?」

「聞いてねえよ。あと『も』ってなんだよ。あれから俺が経験してねえとは言ってねえぞ」

「先輩の行動を把握されてないとでも? あれから童貞卒業できたなら、ただ感嘆するだけです」

「エスパーどころかストーカーかおまえ! だいいち、何度も言うがおまえみたいな肉食ビッチ小悪魔が未経験とか言ったところで、信用するほど俺はバカじゃないぞ」

「ひどい、こんな幼気いたいけな美少女つかまえて言うセリフがそれですか」

「痛い系な美少女?」

「美少女は否定しないんですね」

「自分で言うのが癪に障るが、それは否定できない」


 俺がそう言うと、華子は頭の後ろにつけたでっかいリボンをピコピコと耳のように動かした。マジでリボンが本体じゃないのか、こいつ。


「美少女認定されて嬉しかったので、リボンを動かしてみました」

「しっぽじゃあるまいし、器用なまねを……」

「まあ、しっぽみたいなもんですね。先輩にしか振りませんし」

「お手」

「わん!」

「それはちんちんだ」

「やだ……先輩ったら下品……」

「黙れ駄犬ハナコが!!」


 なんだろう、こいつは確かにいつもおちゃらけてはいるが、今日の様子はおかしい。いつもより下品……だったろうか。あれ? いつもこんな感じだったような気もしてきた。


「まあまあ、それはさておき、せっかく美術部に来たんですから、絵、描きましょうよ」

「全力でお断りさせていただく」

「またですか。いいかげんに絵描き童貞捨てませんか?」

「絵描き童貞すら守れないで、大事なものが守れるか」

「守りたい大事なものがあるんですか?」

「だから放課後の自由な時間と前にも言ったろうが」

「その時間で、絵を描かずにマスをかくんですよね?」

「おまえは『恥じらい』という言葉を百万回復唱してこい!」


 華子の下品な会話に、つい近くにあったデッサン用の炭を投げつけてしまった。華子の夏服に当たり、ブラウスが黒く汚れてしまう。


「あーーーー!」

「あ、悪い、勢いで」

「……もう、どうせなら、勢いで押し倒してくれればいいのに」

「おまえは美術部廃部だけじゃなく、俺を退学させたいんだな。よくわかった」

「わたしが黙っていれば問題は」

「それをネタに俺を脅すつもりだろ」

「……勘のいい先輩はキライです」


 そう言ってから、華子はおもむろにブラウスを脱ぎだした。隠そうともせず。


「ば! ばっ、おま、いきなり」

「早く落とさなきゃならないし。大丈夫ですよ、今日はブラトップですから、いやらしくありません」

「そういう問題じゃねえ!」

「別に先輩なら、見られてもいいです。うーん、落ちるかな」

「…………」


 ……あれ?


 華子の胸の上側に、キレイな縦線が残っている様が確認できた。

 何かの傷、手術痕……だろうか。疑問が浮かぶ。


 とはいっても、そのまま凝視などできないので、俺は慌てて顔の向きを変えた。


「どうしたんですか、先輩? 明後日のほうを向いて」

「……ばかやろ。本当に辛抱たまらなくなって押し倒されたらどうするんだ」

「だから別にいいですって。その度胸が先輩にあるならば」


 華子が胸を張る。ブラウスは着直したが、濡れてスケスケだ。だから目のやり場に困ることはしないでほしい、そう言おうとしたら。


「……でも、先輩はしませんよね、押し倒すこと。だって、先輩が好きなのは……」

「…………」

「部長さん、ですもんね」


 今日初めて、華子がまじめな顔になった。うまい返しができない俺もまだまだである。無言で肯定しているようなものだ。


 やっぱりバレてたか。そりゃそうだよな。


 視線を泳がせる俺の様子に、華子があごに手を当てながらクスリと笑う。濡れたブラウスのせいもあるのだろうが、その仕草に俺は不覚にもドキッとしてしまった。


「でもね……いつか、先輩に」

「……なんだ?」

「いつか、先輩に……『愛しのユウキへ』じゃなくて、『愛しのハナコへ』って題の絵を、描いてほしいな?」

「!? おま、ちょ、俺の黒歴史、なんで知ってるんだ、おい!?」


 俺しか知らないはずなのに。

 いや、俺と愛美しか知らないはずなのに。

 まさか、愛美がそんなことまで漏らしていたのか……?


「ないしょでーす。まあ、わたしもいちおう『ユウキ』なんですけどー?」

「名字と名前の違いはあるだろ……」

「んー、確かに。だから、先輩にはずーっと『ハナコ』って呼び捨てにされたいです」


「…………」


 黙り込んだ俺の心中を見透かすかのように、小悪魔が今度はニヤニヤと笑う。俺は翻弄されつつも、こいつに対して芽生えた、わけのわからない感情を制御しようとするのだが……うまくいかない。


「今は、先輩の二番目でもいいから」

「……誰が、二番目がおまえだと言った」

「先輩の心の中なんて、簡単に読めますよ?」

「だからやっぱりエスパーだろおまえ!?」


 なんでこんなに俺のことを構ってくる? 小悪魔だからか?

 そんな心の叫びは口に出さず、華子に目を向けると――――その後、俺は何度も目をこするハメになる。

 気がふれたのか、それとも一時の錯覚か? いやきっとそうに違いない。


 ――――だって、ハナコがこんなに可愛く見えるはずがないもんな。




「せめて愛犬扱い、してくださいね、せーんぱい!」

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