ないものねだり

 思わぬ展開から、なぜかヒーロー扱いされてしまった翌日。なぜかが重なり、俺は放課後に校長室まで呼び出されていた。


 突然呼び出されて、何がなんだかわけがわからない。目の前には仰々しい椅子に座ったままの校長先生と、その傍らには生活指導の主任教師までいる。


 ――――俺、なんかしたっけか? 


 校長室内部に存在する独特の威圧感に負けそうになりつつも、呼び出された理由らしきものを必死で考えるが、まったく思いつかな…………くはなかった。


 この前、学校のPCで、F〇NZAにアクセスしたのがバレたのだろうか。

 それとも、裏庭の花壇にドクペぶちまけて、花を枯らしたことか。

 いや、ひょっとすると図書室にあった浮世絵集の春画のページに落書きしたことかもしれない。


 まさか、先週授業をサボっていた時間にこもっていた男子トイレを、無駄に大きな排泄物でつまらせたことだったとしたら……これは非常にまずい。俺のあだ名が卒業まで固定されてしまう。


 人間、だれしも一つや二つぐらいは後ろめたいことを抱えているはずだ。だが、呼び出されてから疑心暗鬼のループに陥っていた俺のことなどお構いなしに、生活指導主任がイベント進行役をまっとうしようと、話を始めてきた。


「岸川。おまえ、おとといに車に轢かれそうになった中学生を救ったらしいな」

「……はい?」


 予想だにしていなかった呼び出しの理由。思わず間の抜けた返事で答えるも、校長も生活指導主任も気にしていないようすだ。


「素晴らしい行動だ。あまりにその噂が学校内で広まっていたため事実を確認したら本当だったと」

「……なんだ……」

「ん?」

「あ、いいえ、なにかまずいことでも知らないうちにやっちゃったのかなと、ビクビクしてました」

「ははは、そんなわけなかろう。悪さしたならば、校長室より先に生徒指導室に呼び出しだ」

「……はあ、そうすか」


 胸をなでおろすとはまさにこのこと。そしておまけに『悪事を働いた時はまず生徒指導室』という割とどうでもいい情報も入手した。


 まあそれはそれとして。


 美談としてまわりに広まるような大げさなことではなかったはずなのだが。

 だいいち知ってるのは美術部員くらいのものだろう。どこからそんな話が広まって校長の耳まで入ったのか、謎は晴れない。


 そんな、ほめられつつも戸惑いしかないその時の俺のことなど無視して、ニコニコしながら校長が余計なことを言ってきた。


「……なんでも、岸川君。君は、三年前に妹さんを車の事故で亡くしているらしいじゃないか」

「!!」

「そんな君が、悲しい事故を未然に防ぐという立派なことをした。きっと、妹さんも喜んでいるに違いない」


 ――――なんでそのことを、校長おまえが知っているんだ。


 愛美のことをいきなり出されて、俺は瞬時に誰の目にも明らかであろう不機嫌な表情をしたというのに、校長は気にせず話を続けてきた。それだけでわかる。この校長は俺のことなど見ていない。ただ『俺が車から中学生を救った』ということしか認識していないんだ、と。


 なにも知らないてめえらが愛美を語るな、大馬鹿野郎。


「……すいません。もう部活に参加しないとならない時間なので。呼び出された理由がそれだけなら失礼します」


 先ほどのテンションとは明らかに違う俺の物言いに、生活指導主任の先生がハッとしたようで、慌てて取り繕おうとするも。


「あ、ああ、すまないな岸川。忙しいところ時間を取らせて」

「おお、それはすまなかった。ところで、君の行動は学校内でも表彰すべきだと思うのだが……」


 校長はどこまでも校長だった。さっきまでの威圧感がただただ吐き気を催す気持ち悪さに変わってしまったために、俺は外へ出ようと校長クソやろうに背を向け、せめてもの抵抗として捨て台詞を残す。


「そんなことされたくないですよ。失礼します」


 バタン!


 校長室の扉を閉めたときに俺が抱いていた激情など、クソな大人には一生理解できないに違いない。


 ―・―・―・―・―・―・―


「……なぜゆえに、この話が広まってしまったんでしょうね?」


 あまりその気もなかったが、あのように啖呵を切って校長室を出てきた手前寄らないわけにもいかなかったので、俺は美術部室に寄って、なぜ俺が北島先輩の妹を救った話が広まったのか、疑問を提示してみた。


 部室の中には、俺のほかに四人しかいない。部長である夕貴と副部長の北島美春先輩、話には混ざらずにただひとり黙々と絵を描いている渋谷先輩、あとはムードメーカーでもある三年の女子部員、酒井加奈さかいかな先輩だ。


 俺が尋ねても、みんなが「なんでだろう?」という顔しかしていなかった。


 ――――ただひとり、血の気の引いた顔に脂汗を浮かべている夕貴を除いては。


「あ、あはは、実はわたし、のんちゃんのことまわりに自慢しちゃったの……」


 申し訳なさそうに右手を顔の横まで挙げて夕貴がそう白状する。俺が反応するより早く、酒井先輩が声を上げた。


「あー! そういや夕貴ちゃん、きのう部活前から興奮気味にまくしたててたもんね。話を振られた大半が戸惑った反応だったけど」

「……なんだそりゃ」


 ということは、きのう夕貴がメールを送ってきたあたりの時間が、ちょうどまくしたてタイムだったのだろうか。


「それでも、救った相手が美春ちゃんの妹だったから、ひょっとすると話のインパクトはあったのかも?」

「そうだね。それに少なくとも妹と私にとっては、間違いなく岸川君はヒーローなんだから」


 続いて展開される酒井先輩の推測に、北島先輩も同意しつつそう付け加えてくる。


 ――――なるほど。そうやって広まった挙句に校長の耳にまで届くとは、噂話も侮れないもんだ。


「まあ、経緯はわかったけど……夕貴先輩、ほどほどにしてください」


 先輩とか言っておきながら、諭すような口調で夕貴にそうお願いをしたはいいのだが。


「え、でも、姉として弟の名誉を自慢するくらい、許してくれないの……?」


 口ごたえをされてしまい。俺は瞬時に固まった。


「夕貴ちゃん。姉気取りって、それ弟にウザがられるパターンだよね」

「シスコンの姉、やだやだ」


 酒井先輩と北島副部長が笑いながら即座にツッコんでくれたおかげで俺のフリーズはすぐ解除されたが、表情がひきつったままなのは仕方あるまい。


 自慢。

 所詮その程度の認識なのだ。夕貴にとっては。今も。


「……まあとにかく、もう自慢とかヒーロー扱いはやめてください。恥ずかしいので」


 引きつった顔を見られないよう反対側を向いてから、ふざけた様子抜きで俺は美術部の方々にそう伝えた。顔の向きを変えたせいで、こちらを気にするそぶりなど全く見せないで絵を描くことに集中している渋谷先輩が横目で確認できる。


 ――――俺は、渋谷先輩のようになりたかったよ。弟じゃなく男として見てもらえるように。


 心の中に湧き上がるそのような高望みが、見る見るうちに俺を不快にさせていった。


「……ちょっと、外へ出てきます」


 この場所から立ち去りたい。こんな不快な俺をみんなに見せたくない。

 俺はいったん美術部室から立ち去る行動を選択した。


 自分の鞄を、手にとって。


 ―・―・―・―・―・―・―


 人間とは、欲しいものが増えていくのが常である。

 居場所ができたからといって、自分がそこで満足するわけでもないのだ。


 いつまでたっても、姉と弟、なんだな。俺と夕貴は。


 俺が想いを伝えたら、夕貴は俺を男として意識してくれるのだろうか。それとも、関係がおかしくなってしまうのだろうか。

 どちらにしてもバッドエンドしか今は見えない。


「ないものねだり、か……」


 ひとりごとを口にしつつ自分を戒めるふりをするのがあまりに間抜けで、自然と苦笑いが出てしまう。


 正直なところ、あの程度でヒーロー扱いなど、からかわれているようにしかふつうは思えない。しかし、痩せても枯れても幼なじみである。夕貴は間違いなく心から俺の行動を自慢に思い、まわりに広めたことは疑いようがないのだ。


 ――――ただし、姉として。


 俺を弟としか見ていない夕貴、夕貴に弟としか見られない俺。

 今の心にあるのがどちらに対する苛立ちかわからないまま、左手で鞄を肩越しにぶら下げ帰宅しようと昇降口まで来ると。


 誰だかすぐ特定できるアニメ声が、どこからか飛んできた。


「あー! 美術部のヒーロー様が、部活に出ないで帰宅しようとしてる!」

「うるせえぞ華子、いいかげんヒーロー扱いやめろ。おちょくってんのか」

「何言ってるんです、わたしが尊敬する先輩をおちょくるわけないじゃないですか」


 どこから現れたのかも分からないうちに、いつの間にか華子が俺の右腕に絡みついてきた。もちろん俺は振りほどく。


「事実と違う誇大な表現やめろ。しかるべきところに訴えるぞ」

「J〇ROにですか?」

「なんだそれ」


 相変わらず意味不明な華子である。JAR〇ってなんじゃろな、俺にはわからない。


「わかりやすく言えば、『イケメンで成績優秀な男子高校生』と先輩のことを広告したときに、それを見た人が苦情を入れる法人です」

「てめえやっぱりおちょくってるだろうが! こんの痴女ビッチが!」

「その『痴女ビッチ』というのも事実と違う誇大な表現ですってばー!」


 言い合いをしながら昇降口を出て、校門まで華子と並んで歩く。大声でくだらないやり取りをするのもいつものことで、他人の目はほとんど気にならなくなった。慣れって恐ろしい。


「まったくもう、美術部のヒーローになったかと思いきや、すぐさま部活サボるなんて。ヒーローにあるまじき行動ですよ」

「いや、俺は……」


 ……顔を出してはきたんだけどな。まあどうせ絵を描いたりするわけじゃないし、別に長居する必要はないだろ。


 そう言いかけてやめた。俺が部活に顔を出さないことを責めてきた華子が、なぜか俺と一緒に校門を出ようとしているからだ。


「……って、おまえ、部活はどうした?」

「出る意味がありませんから」

「俺のことを非難しておきながら、自分もサボりかよ」

「先輩がサボるから、付き合ってあげるだけです」


 なんという屁理屈だ。少しだけため息が漏れたが――おっと、ここは以前に華子が言っていた『女の子に与える言い訳の余地』なのかもしれない。ならば俺も仕方なく納得してやろう。


「そうか。まあ、好きにしろ」

「はい。自分の行動くらい自分で決めます。わたしの居場所は先輩の隣ですから」


 俺の言葉を聞いた華子が、にぱぁと笑って再度俺の右腕に絡みついてきた。今度はそれを振りほどかずに校門を出て、さて帰宅したら何のゲームをしようかと考えていると、横からそれを邪魔する妨害電波が発せられる。


「じゃあ、先輩。ヒーローになったことですし、今日こそ童貞捨てましょうね」

「本当にいつも唐突だなおまえは! なんでヒーローになったら童貞捨てなきゃならないんだよ!」

「何言ってるんですか、HEROヒーローえっちEROエロでできているんです。英雄色を好むという言葉もありますよ?」

「古いネタ持ち出してくるなおい!? そんなことばかり言ってるからおまえは痴女ビッチ扱いされるんだぞ!」

「だーかーらー、痴女ビッチじゃありません! でも、HEROINEヒロインえっちEROINEエロいねからできているから、ある程度は仕方ないですね」

「誰がヒロインだ、厚かましいにもほどがある」

「ひどい! 先輩に邪険にされてます、わたしは悲劇のヒロインでしたぁ……」

「おい、わざとらしく『よよよ』と泣くな。大根役者」

「あ、さすがは先輩ですね。演技がバレバレです」

「わからないわけないだろ」


 ――――会話の内容はともかくとして。


 こうやって軽口を叩ける相手というのは、俺にとって貴重な存在であることは間違いない。


 華子に対して、俺はなぜこんなにも気が置けないのだろうか。

 そんな疑問に対する答えは、おそらく一つだけだ。


 ――――華子は、愛美を思い出させるから。


 なぜ、そうなのかは俺にもわからない。少なくとも愛美はこんなに下品ではなかったし、どちらかというと人見知りをするほうで、気軽に話せる相手はそれほど多くはなかった。同い年以外では俺と夕貴くらいのものだったろう。


 似ても似つかない、はずなんだ。


 それでも、俺は華子といると、愛美と一緒のような錯覚に襲われることがままある。現に今も。

 こんなくだらない会話をしておきながらも、隣に華子がいることが不快ですらないのだから。


 ――――妹のような、存在、か。


 そんなことを思った俺が「ははっ」と声を上げて笑い、それを確認した華子が絡みついた腕にさらに力を込めてきた。


「なにが、おかしいんですか?」

「ん……いや。華子は変なやつだなって」

「いきなり笑い出したと思ったら、サラッとディスるってひどくないですか?」

「バッカ、ほめてんだよ」


 ディスるなんて言葉、久しぶりに聞いたわ。これももう死語かな……いや、華子こいつが命を吹き込んでるんだ、死んではいない。

 そう、俺の隣に、愛美が生きているかのように。


「ほめてるようには聞こえません。どうせならほめるよりハメてください」

「なんでもかんでも下ネタに走るなよおまえはよ!」

「下ネタじゃなくてストレートなお願いです。ヒーローからハメハメハ大王へと進化するチャンスですよ」

「俺は南の島に移住する予定はないわ!」

「……もし一緒に移住したら、娯楽が全くなくて一日中ハメハメ祭りですよね。いいかもしれません」

「おまえもくんのかよ!」

「先輩を中毒にするまで、付き合いますからね?」


 華子はHEROINEヒロインじゃなくてHEROINヘロインだったか。残念ながら、俺は死ぬまでクリーンな身体でいたいので、華子とそうなることは一生ないだろう。


 だけど。こいつと二人なら、俺は笑っていられるのかもしれない。


 一瞬そう考えたことは、今は内緒にしておこう。

 華子の腕を振りほどく気すら失せた俺は、流されるようにそのまましばらく歩いた。


 ――――自宅まで、わざと遠回りをして。

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