自分の居場所
「はぁ、はぁ、はぁ……」
華子のお誘いを全力でお断りして精神力を使い果たした俺は、軽い酸素不足に陥っていた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……なんでそんなに抵抗するんですか、せんぱい……」
本気で勝負した結果、華子の体力も尽きかけらしい。
真剣勝負の後に待っているのはたいてい友情の芽生えなのだが、それはあくまでお互い納得した末での話である。理不尽に時間とパワーを浪費した後に爽やかな心が生まれるわけもない……というよりも、戦いの始まりが
「貞操の危機に必死になるのは当たり前だろうが!」
「えぇ……ふつう先輩くらいの年齢の男子なら、こんなかわいい後輩に誘惑されたら、しっぽと腰を振り振りするものじゃないですか……?」
「いろいろすっとばしてそんな気持ちになるかよ!」
いきなり仲良くなったと思ったら、いきなり段階踏まずに行為に至る経験など一生しなくてもいいわ。そこに一番必要なのは気持ちだ。
というよりもだな、華子よ。自分がカワイイと自信満々に言い切るところが、俺には気に食わないんだよ。たとえ事実だとしても。
あと俺にはしっぽなどない。おまえと一緒にするなメス犬。
「……まあ、いいです。先輩の隣で、虎視眈々と機会を狙ってますから」
くりんとした目に似つかわしくない捕食者のようなセリフだ。華子はどうやらまったく懲りてない。
半ばあきれて、俺はため息で言葉を綴った。
「なんで俺の隣で……」
「それはもちろん、わたしの居場所は先輩の隣だからです」
「俺は許可してないぞ」
「先輩の許可なんていりませんよ。わたしがそう決めたんですから。自分の居場所くらい自分で決めます」
華子の主張を聞いて改めて思い出す。そういえば俺には拒否権すらないんだった。
それでも。
自分の居場所を自分で決める。俺にとってその姿勢はなんとなくすばらしいものだとも思えて、勝手に決められたことがそれほど腹立たしくは感じない。
「……華子のその前向きさだけは、正直うらやましいかな。俺にはまねできないから」
少しの間をおいて、暗に居場所のない自分を卑下するように吐き捨てた。華子のまぶしさは俺の影をさらに濃くしている、そういう自嘲だ。
だが。
そんな俺のネガティブな部分に、この遠慮のない後輩は平然と入り込んでくるから、こちらとしても始末に負えない。
「……先輩だって、自分で居場所を決めたくて、美術部に入部したんですよね?」
自分の居場所。それを自分で決めるなんて大それた真似が、俺にできるわけなかった。
それでも――そうだ、認めよう。
夕貴の隣が、俺の居場所になればいい。そう思っていた。願っていた。
そして、それはかなうことがなかった。
いや違う、かなわないと自分で自己完結しただけだ。
だから、俺はあきらめた。自分から夕貴の隣を離れた。
愛美も亡き今、そんな俺を必要としてくれる相手など、他にいるわけもない。だから、俺にとって美術部は完全に異次元だっただけなのだ。
「幽霊部員の分際で、美術部に居場所を作れるわけが、ないだろう……」
こんな厭世的なセリフを吐き出すのがつらい。
そんな立場を再確認することがつらい。
逃げ出したい。
――――ちくしょう。
あらためて、自分の情けなさを思い知り、涙がこぼれそうになったその時。
俺に向かい合っていた華子が、一歩前に踏み出して、俺の右手をやさしく包み込むように掴んできた。きっと俺のみっともない顔を目の当たりにして同情したに違いない。
「いいじゃないですか、幽霊部員でも。校則で禁止されてるわけじゃありません。先輩は美術部員なんですから、堂々と部室にいればいいんです。それでも、居心地が悪いなら……わたしの隣を、先輩の居場所にしてください」
なのに、華子から発せられた言葉は、同情ではなくもっと大きな何かを感じられるような、やさしさにあふれたものだった。
まるで、ずっと一緒にいた妹――愛美がそこにいるかのような勘違いをするくらいに。
「だから――――先輩、明日は部活、きてくださいね? 辞めないでくださいね?」
華子はやはり気づいていたか、俺が美術部を辞めようと決意していたのを。
「……わかった」
キッと向き合ってそう懇願してくる華子を無視できるほど、俺はクールな人間じゃない。
おまけに俺は、昔から愛美には弱かった。そんな愛美みたいな雰囲気をまとって迫られたら、頷くしかなかろうよ。
「……約束ですよ。もしその約束を破ったら、先輩の童貞いただいちゃいますからね」
――――とか思っていればこれだ。思わず膝がカクンと抜けた。
「何度話をループさせればいいんだおまえはぁ!」
「別に、約束破らなければいいだけじゃないですか?」
「……いやまあ確かにそうだが」
「あ、でももし先輩が童貞卒業したいなら、約束を破ることもありですね!」
「……遠慮するわ。童貞すら守れないなら、大事なものも守れそうにないからな」
「そうまでして何を守りたいんですか?」
「放課後の自由な時間」
「うっわー! また部活サボる気満々です! ありえません、ネス湖のネッシーぐらいありえません!」
「ネッシーってなんだよ……俺は明日以降も部活に出るなんて一言も言っちゃいないぞ」
鏡がないので確認はできないが、俺はいつの間にか笑っているようだ。
華子と一緒ならば、沈む間もない。こいつは俺の気分を知らず知らずのうちに上げてくれる。
――――ありがとな。
「部活に精を出すのが学生の義務です! わたしに精を出すのが先輩の義務です!」
「サラッと下ネタ織り交ぜるんじゃねえ!」
言葉にすればあまりにも陳腐で、かつそれを聞いた華子が調子に乗りそうな感謝の気持ちは、心の奥にしまっておこう。ヘンな下ネタ振られて、言う気も萎えたわ。
―・―・―・―・―・―・―
次の日。
登校時、夕貴と遭遇しなかった。自分から夕貴を遠ざける発言をしたわけだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
昨日自分がしてしまった発言に、再び後悔の念が浮かんでくる。夕貴は俺と顔を合わせたくないんじゃないだろうか、という恐怖とともに。
だが、昨日に華子とした約束を破ってしまったら、俺の純潔は華子に奪われてしまう。
ビッチに捧げる純潔など持ち合わせがないので、部室に顔を出すだけはしないとならない。
そんな煮え切らない気持ちのまま昼休みを迎え、現実逃避もかねて裏庭でひとりたたずんでいると。
いきなりスマホに夕貴からのメッセージが入った。
『きょうは、絶対に部活に来てね。絶対だよ』
内容はそれだけだったが、夕貴はおとといのことを怒ってはいないようにも思える。俺は少し心の平穏を取り戻し――そして迎えた放課後。
「のぶきせーんぱい。部活、行きましょー!」
俺のクラスまで来て、教室内に響き渡るようにそう叫ぶ華子が出入り口に現れた。
クラスメイトが瞬時にざわめくのを受けて、俺は慌てて華子のところまで行き暴挙を咎めた。
「おっまえ、でかい声で人の名を呼ぶな! 注目浴びるだろうが!」
「んっふふー、こんな美少女がいきなり現れたから、注目の的になっちゃいましたね」
悪びれる様子もなく歯を見せて笑う華子。相変わらずの自意識過剰ぶりだが、『誰だあの可愛い女の子は』などとひそひそ話しているクラスの男どもを見る限り、否定できないのが悔しい。
「だいいち、部活で顔を合わせるというのに、わざわざここまで来るなよ!」
ゆえに、華子がかわいいということは華麗にスルーし、違う方面から非難することにした。
――――すると、華子の反応は。
「……ええと、わたしがひとりでは部室に入りづらいんですよ。だから、先輩と一緒なら、入りやすくなるかなーって」
「!」
目を左右に泳がせてそんなことを言い訳しても、まったく説得力がない。バレバレだ。
多分華子は、俺が美術部室に入りづらいんじゃないかと、気遣ってここまで来てくれたのだろう。
「……仕方ねえな。じゃあ一緒に行ってやらあ」
「わーい。さすが先輩、優しさ満点! お礼は身体で」
「いらん」
「ちっ」
「うわ舌打ちしやがったよこいつ」
「小さい『つ』を大きくするとですね」
「おまえはまず上品さをマスターしろやお下劣痴女ビッチ」
「だからビッチじゃないですってば―!」
すっかり慣れたようにも錯覚するくらい、幾度となく繰り返された下品な会話をしつつ、校舎内を歩き美術部室前まで到着。
そして俺は。
――――やっぱり、必要とされてない場所に自分から入るのは、勇気がいる。
そんな弱気から、ばったりと無言になった。
こうやってドアの前にいると、否応なしにあのときの美春先輩の言葉がよみがえってくる。
『どのみち岸川君なんて、廃部にならないように籍だけおいてくれれば、どうでもいい人じゃない』
ただただ、怖い。
思うことはそれだけ。
そんな俺の背中を押したのは、またまた愛美が乗り移ったかのように思えるほうの華子だった。
「……せんぱい、わたしたちの居場所に、入りましょう?」
慈愛に満ちたまなざしと、俺のすべてを優しく保護するような話し方はやめてくれ。俺の心が追いつかない。
本当にこいつは、小悪魔な時と天使な時とで差がありすぎる。二重人格と言ってもいいんじゃないか。
そんなふうに気を散らされて、心の中にある恐怖が小さくなる。
――――そうだ。それに俺には、中に謝らなければならない相手、夕貴がいる。
覚悟を決めて目を見開いてから、俺は部室のドアを開けた。
……すると。
「あっ! のんちゃん、さすがだね!」
なぜか、俺が謝罪しなければならないはずの夕貴から、いきなり賛辞の言葉が飛んできた。わけがわからない。
「おっ、名前も告げずに少女の命を救ったヒーローのお出ましか」
「すごいね、岸川君!」
「その正義感溢れる行動、称賛するしかない……」
夕貴を皮切りに、他の美術部員も口々に俺を褒め称えてくる。
誰かと間違っているのではないだろうか。俺はそんな心当たりもないので、思わず華子と顔を見合わせてしまったが――――華子がしばらくして『あっ』と思い当たるような顔をし、間髪入れずに渋谷先輩が説明をしてくれた。
「岸川。きのう車に轢かれそうになった中学生の女の子を救っただろう?」
「……そういえば」
言われて思い出した。そういえばそんなことをしたような気もする。
だけど、なぜそんなことを美術部のみんなが知っているのか。
と思いきや。
「その女の子はな……北島の妹だったんだ」
「えっ? 美春先輩の……?」
「ああ。……あんなことがあったというのに、岸川は本当にすごいやつだな。心から尊敬する」
いつもは俺のことを歯牙にもかけない渋谷先輩が、淡々とではあるけどそう説明してくるのに多少の違和感があったが。
それでも、そこには皮肉とかそういう感情は一切なかった。それが無性に嬉しかった。
――――そして。
「岸川君……妹が言ってたの。助けてくれたのが黎明高校生で、『のぶきせんぱい』って呼んでいた子が一緒にいたって。美術部の集合写真を見せたら、岸川君で間違いないって」
美術部員最後に、感謝の気持ちと申し訳なさをごちゃまぜにしたような表情で、副部長の北島美春先輩が、俺の前まで歩を進めてきた。
「妹を助けてくれて、本当にありがとう。そして……ごめんなさい」
深々と俺に向かって美春先輩が礼をしてくる。
ありがとう、はともかくとしても――――なにが『ごめんなさい』なんだろうか。どう反応していいのか全く分からない。
「ねっ、のんちゃんはすごいんだよ! 勇気があって、思いやりがあって、優しいの! 前にもね、私が遠足で道に迷ったときにね……」
一方で、キツネにつままれたような顔をする俺のことなどそっちのけで、昔の黒歴史を得意げに暴露する夕貴。
「……なに、この流れ」
思ったのとは違う部室内の空気に拍子抜けして、思わずひとりごとをつぶやいた直後。華子が俺のわき腹をつつきながら、嬉しそうにニッコリと笑顔を見せてきた。
「先輩、ヒーローですね。美術部の」
「……」
いまだに状況がつかめていない俺を尻目に、華子はそのまま部員たちとの会話に割り込んでいく。
「……でね、暗くなったのにもかかわらず、のんちゃんは必死で探してくれて……」
「そのあと確か、片岡先輩が木から落ちて、お尻を怪我したんですよね?」
「……え? なんで結城さんがそれを……? のんちゃんから聞いたの? 他には愛美ちゃんしかそのことを知らないはずなのに……」
「先輩は何も言ってませんよ? なぜ知ってるかは、秘密でーす」
「……って、そういや、きのう岸川君と一緒にいた女の子って……ひょっとして結城さん? 一緒に何してたの?」
「ひょっとしてデートしてたとか」
「んっふっふ、実はここでは言えないすごーいことを……」
「おいこらないことないこと言ってんじゃねえこの歩くお下劣辞典が!」
「きゃあ、延樹先輩こわーい! 片岡部長、助けてください!」
「え? え、えーと……」
「新入生は甘やかしちゃならないですよ、夕貴先輩! 特にこんな痴女ビッチは!」
「……え? 結城さんって、痴女ビッチなの?」
「かたおかぶちょおー! 真顔で言わないでください! 傷つきます!」
そして結局俺までもが、見事に会話の渦に巻き込まれ……溺れそうになるところを必死で藁に縋りつく。
こんのクソビッチめ、俺まで生産性皆無な会話に巻き込むんじゃねえよ。
そう悪態をつきたいはずなのに。
俺は、ここにいてもいいのかな。誰かに必要とされてるのかな。
――――そうだといいな。
「おらぁ、華子! おまえの下品さを美術部全員で再教育してやる!」
少しだけ前向きになってみると、みんなが笑っている空間が、俺すらも笑っている空間が――ただただ、心地よくて仕方がなかった。
―――第一章 了―――
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