ふたりと三人
結局、ウィットとユーモアに富んだやり取りなどできない空気のまま、ベンチに座っている俺と華子。
少し落ち着いたような華子の息遣いを確認したので、安心したのもつかの間。華子が前触れもなく、俺の左膝の上に自分の右手を重ねながらしみじみとのたまう。
「こうやって、先輩と二人でベンチに座っているだけでも、楽しいですね」
「……ごめん、ちょっと何言ってるかわかんない」
華子の言い方は心から楽しそうに感じられたので、つい俺は否定的な返答をしてしまった。
楽しいか? いや別に楽しくないわけじゃないけど、セリフの通りだというのが正直なところである。
俺が微妙な表情をしていたせいか、不満そうな華子が膝の上にのせていた手を放したかと思うと、再度俺の左腕に抱きつき身を寄せてきた。
「……先輩は、楽しくないんですか? わたしとデートしていても」
なんてあざといセリフだ。思わず言葉に詰まり、少し汗ばんだ左手で拳を握りしめた。
なついている犬が飼い主にじゃれつくような身の寄せ方。まさしく、愛美が俺にじゃれついてくる時と同じような。
デートというよりも愛犬との散歩みたいなものだ。そう、断じてデートではない。ないったらない。
そう自分を納得させようとしても、俺の疑問が膨らむ。
――――いくら愛美と仲が良かったからって、こうまで雰囲気が似るものなのか。
「もう……しょうがないなあ、先輩は。じゃあ、楽しいと思えることでもしましょうか」
だが、その不穏なセリフの後に、愛犬がじゃれつくというより粗相をするときのような笑顔になったのを、俺は見逃さなかった。
「何をしようというのか」
「とりあえず、OH! モーレツ! な二人の身体でするスポーツを」
「却下」
「じゃあ、裸でやる『気持ちんよかー』なスポーツでもいいです」
「却下」
「ならば、男と女が一つにつながるスポーツなら」
「却下」
「それでもだめならえっちしましょう。えっち」
「全部同じ意味じゃねえかそれは! ってか最後だけなんで二回言ったんだよ、スポーツじゃねえやつをよ!」
「実はわたし身体が弱いからスポーツできないんですよねー」
「じゃあ安静にしてろよ! おとなしく家に帰れ!」
少なくとも市街地ど真ん中で高校生がする会話ではない。まわりの人間が無関心を装って聞き耳立ててるんじゃないかと、俺は気が気じゃなかった。
「むー、今日は家に帰りたくありません」
「だからな、ちゃんと『まだ』をつけろよおたんちん。俺は一人で家に帰る」
「えぇ……じゃあ、わたしのこと好きにしていいですから先輩の家に泊めてください」
「どうあがいてもそっち方面に話を進めるつもりか、結城“おたんちん”華子よ」
「ミドルネーム付けてまでむりやり
「死語をサラッと使う高一女子に言われたくないわ」
自分でもなぜ『おたんちん』などどいう罵り言葉が出てきたのか全く分からない。さっきまでやたらと重苦しい空気に包まれていたかと思えば、数分後にはこの言い合いである。
現在地が繁華街であたりが騒がしいせいもあるだろうが、どうやら俺と華子はどちらもシリアスが持続しない人種なようだ。
それでも。
「……死語じゃありませんよ、わたしが使ってるんですから」
なぜか『死語』という言葉に反応してくる華子の表情からは、さっきの悪代官みたいな雰囲気は消え失せていた。代わりに我が子をいつくしむような優しさを前面に押し出してきている。七変化だな。
「死語は死語だろ」
「違いますよ。使われなくなったから死語だというのなら、わたしが使えばいいだけの話です。使われて命が吹き込まれるから、その言葉は死んでないんです」
「……よくわからん」
「だーかーらー、わたしが話して言葉に命を吹き込んでるから、わたしの話す言葉に死語はない、ということです。ご理解いただけましたか?」
「……お、おう」
たかが死語になんでそんなにムキになるのかがミステリーだ。華子の勢いに押されて思わず生返事をしてしまった俺だが、おそらく傍観者からは俺の頭に疑問符が浮かんでいるのが丸見えだろう。
そんな俺に自分の本心を理解させるかの如く、華子は表情を少し変えた。
「死んで誰からも忘れ去られるなんて、たとえ言葉でも悲しすぎます」
雑踏のにぎわいにまぎれそうな声量で、眉間にしわを寄せた後に漏らした華子の言葉によって、俺の頭上の疑問符が感嘆符に変わった。
華子がこだわっていたのは、おそらくは『死』というものに対してだと、いまさらながら理解する。
「――ならばせめて、わたしが忘れなければ、心の中で一緒に生き続けられますよね?」
愛美は心の中で生き続けている――華子が先ほど口にした言葉だ。
華子は、愛美のことを暗にさして、今のような同意を求めてくるのだろうか。
忘れなければ、消え去らない。一緒に生き続けられる。
もうすでにこの世にいない愛美が、華子の中で、そしてもちろん俺の中でも、ずっと生き続けて。
――――そうして俺と華子をめぐり合わせてくれたとするならば。
「…………ははっ」
思わず笑みがこぼれた。不思議な縁、とでもいうのか、これは。
華子と一緒にいると不意に襲われる、そこに明らかに愛美が存在するかのような感覚。それは、愛美がいまだに二人の中で生きているという証明にほかならないのだろう。
愛美のことを思い出すのがつらかったはずなのに。
華子がそばにいると、愛美との楽しい思い出がやたらとよみがえるのも、そのせいに違いない。
少しの間をおいてから俺が嬉しそうに笑ったのは、華子も気づいているはずだ。眉間からしわが消えうせているし。
「……忘れるわけない。だから、華子もできれば一生忘れないでいてあげてくれ」
「忘れません! ……忘れられるわけ、ないじゃないですか……」
何を忘れないか、などというだけ野暮だ。
すべてを理解した俺の願いを、華子が受け入れてくれた。
そして、言質をとった、そのあとに。
『……お兄ちゃん……』
空耳かもしれない。だが、絶対に忘れられない声でどこからか発せられたその心地いい呼ばれ方に、俺は思わず振り返ってしまった。
――――いや、空耳ではないはずだ。華子も俺と同じように振り返っているのだから。
愛美は、確かに生きている。俺と華子、二人の間で。
こんなに――――こんなに嬉しいことは、ない。
――――ちくしょう。
俺は明後日のほうを向いたまま、涙を一滴だけこぼした。
華子は俺と同じほうを向いたまま、俺の腕に再び絡みついてきた。
しばらく二人で、愛美の余韻をかみしめる。
時間にしてどれくらい経ってからだろうか。「せんぱい」と華子が口にしたのを機に、俺はようやく我に返った。
憑き物が落ちたような俺の顔を下から覗き込むようにしてから、改めて華子が同意を求めてくる。
「……今日のデート、楽しいですよね?」
今度の問いかけには、一瞬、心臓が止まった。
――――ばっかやろ。不意にドキッとさせんじゃねえよ。デートじゃねえっつーに。
心の中で吐いた毒は言葉に翻訳せずに、ただ頷くだけでその話題を終わらせる方法を、俺は選んだ。
「えへへぇ……」
クリっとした目をなくなるくらいまで細めて、そのまま身を預けてくる華子を、今の俺が拒絶できるわけがない。
「……いつか離れることがあっても、わたしのことも、ずっと忘れないでくださいね……」
テレ度を最大値まで押し上げるセリフを続ける華子が、ラリったかのようにとろんとしている。なんとなくそれがむず痒く感じられて、俺はつい憎まれ口をたたいてしまった。
「どうだかな。約束はできない」
「!? ひっどーい! ひどすぎます、この流れでそのセリフ、さすがひとでなしの延樹先輩です!」
すぐに
ひとでなし呼ばわりされて怒ってもいいところなはずなのに、俺はなぜか笑いが止まらなかった。
――――だが。ビッチはやはりビッチである。
「なに笑ってるんですか先輩、失礼にもほどがありますね。じゃあ、これからえっちしましょう」
「なんで
「だって、初体験の相手なら、人でなしの先輩もさすがに忘れたりしませんよね? 先輩の童貞とわたしの処女を交換しましょう、今すぐに」
「それ等価交換じゃねえぞ! おまえ非処女だろーが!」
「人聞きの悪いこと言わないでください。処女かそうでないかは、先輩が突っ込んで確認すればいいじゃないですか」
すがすがしい気持ちに泥を塗りたくる話題変化。このような会話になったのも、オチが読めなかった俺の不手際だ。こいつ相手に、そっち方面に走らせるネタを振るほうが悪いことは、今までの会話で学ぶべきだったというのに。
こいつは好き放題ボケさせちゃいけない。俺の神経と声帯が擦り切れるわ。また一つ学んだ。
「どうやってツッコめばいいんだこれ……」
「やだ……先輩も突っ込む気満々ですね……じゃあそこのお城みたいな建物に行きましょう」
「日本語って難しいなクソッタレ! 行くならおまえひとりで行けや!」
「そんな自分勝手なことできません。イクときは二人一緒にイクものですから」
「それニュアンスが違う、絶対違う!」
「細かいことは気にしないほうが人生楽しいですって。さあ、きょうは先輩との記念日です、忘れられない一日にしましょうね?」
「やーめーてー!!!」
見かけによらない力強さで腕をお城のほうへと引っ張る華子に、必死で抵抗しつつ俺が発した叫びは、むなしくも帰宅ラッシュの時間帯を迎えた人ごみの喧騒にかき消されていった。
――――バカが。
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