メロンパンの喜劇

 放課後。

 俺は部活など出る気もないのに、なぜか美術部室の前にいる。もう何分経ったかすらわからない。


 結局、華子は昼の惨事のせいで、弁当を食べられなかったわけで。ただでさえ血色が悪い顔してるし、倒れちゃいないだろうな。


「……」


 こういうのを老婆心というのだろうか。冷静になって考えたら、美術部室前をただうろうろしているなんて、不審者にしか見えない。


 そんなつまらないことを思いながらどうしようか決めあぐねていると、突然視界が暗転した。今日二回目だ。


「……ふふっ、だーれだ?」

「なにをしてる、ハ」


 ナコ、まで言う前に思いとどまった。声が違う。少し冷たくて、柔らかい手。この手もミスラン三ツ星をやれるのだが、まさか……


 誰の手か分かったと同時に、心臓がビクンとおびえた。髪のにおいが鼻に届き、熱くなってしまう心を無理やり抑え込む。


「……ハ?」

「……はっちゃけすぎ、夕貴。突然に」


 俺の答えで視界には光が戻った。ゆっくり後ろを振り向いたら、夕貴が眉を八の字にしながら、行動理由を伝えてくる。


「のんちゃん、さっきからうろうろ怪しいんだもの。つい、ね」


 見てたのかよ。しかし、こんなことを夕貴にされるのは何年ぶりだろうか。少なくとも高校に入学してからは初めてだ。


 正直なところ嬉しかった気持ちを、自虐も少なからず入った会話で打ち消す。


「……渋谷先輩に見られたら、誤解されるよ」


 その言葉に、夕貴の顔が一瞬だけ歪んだ気がした。


「……大丈夫だよ。のんちゃんだって、美術部員なんだから。さあ、中に入ろう?」


 美術部員なんだから『だーれだ?』をしても問題ないのか、それとも美術部員だから堂々と中に入れという促しなのかわからないような、夕貴の物言いである。


 美術部に参加する気はない俺は、必要なことだけ夕貴に確認することにした。


「ハナ……結城さんは、来てる?」


 夕貴はまたまた一瞬だけ顔を歪めたが、すぐさま何事もなかったかのように俺の質問に答えてくれた。


「……結城さんね、今日お昼ご飯食べられなくて、おなかがすいて力が出ないから、部活休みますって。ついさっき来て、そう言って帰っていったよ」


 予想通りというかなんというか。――――いや、俺も悪いのか。

 とたんに罪悪感がこみあげてきて、俺はすぐに昇降口のほうへと向かって歩き始めた。


「……そう、わかった。ありがとう」

「え? のんちゃん、部活は……」

「……またね」

「…………」


 夕貴とは必要最低限の会話しかしなかった。いや、できなかった。俺はそのまま夕貴の前から立ち去る。

 久しぶりに感じた夕貴の手の感触。そんな微かな俺の喜びは、後に数倍大きいむなしさへと変わってしまうのだから。


 俺はみじめになりたくないがために、夕貴のことから華子のことへと、機械的に思考を切り替えさせた。


―・―・―・―・―・―・―


 少し急ぎ足で昇降口のほうへくると、そこにはありえない光景が広がっていた。


 段差の一歩手前でうつぶせになって倒れている黄色の大きなリボン。いや、本体はリボンではないが、それが誰であるかは容易にわかる。


「……華子?」

「…………」


 返事はない。しかばねかもしれないが、いちおう倒れているリボンに手を当ててみる。当然ながら体温は感じられない。


「……脈がないな。安らかに眠れ」

「勝手に殺さないでください!」


 俺の言葉がAED代わりになったか、いきなり華子が蘇生して、上半身だけをガバッと上げてきた。ちょっとびっくり。


「およ、生きてたか。おかしいな、脈は全く感じなかったが」

「リボンに触れて脈を感じられるわけないじゃないですか。ひょっとして先輩って馬鹿ですか?」

「おまえ、リボンが本体じゃなかったの?」

「はい、またアウトです。心配してくれてるのか、遊んでるだけなのか、はっきり意思表示をすべきですよ、そこは?」


 昼飯を食べられなかったからバッテリーが切れたのかと思ったが、どうやら憎まれ口をたたくくらいのカロリーは残っていたようである。


「……まあ、俺も悪かったしな、昼休みは」


 ツーアウト目の詰問を躱したつもりだったが、華子はその一言で調子に乗りやがった。


「も、じゃありません。素直にあーんをしなかった先輩が全面的に悪いんです」

「いやなことを拒否する権利すらないのか、俺には」

「いやがってたんじゃなくて、照れてただけですよね?」

「…………」


 ほんっっっとうに都合のいいところだけエスパーだよな、こいつは。そう思いつつ俺は黙り込んでしまう。


「だいいちですね、脈を調べるなら、リボンじゃなくてここに手を当ててください!」


 言い返されなかったのをいいことに、華子はさらに調子に乗って、掴んだ俺の手を自分の胸に当てさせた。


「お、おい」


 ふにょん。


 うつ伏せで倒れてたのにここで確認などできるか阿呆、いや違うそうじゃない。

 それなりに柔らかい部分に手が食い込んでしまい、俺は情けなくうろたえた。が、華子は力を緩めない。


「……ほら、トクン、トクンって、鼓動を感じますよね?」


 はた目から見たら、公然わいせつにしか思われないこの状況。いやまあなぜか人がいないので助かった。

 俺は落ち着きなくきょろきょろしながら、それでも心臓の鼓動から離れられないでいる。


「……あは、私のハートが喜んでますよ。『久しぶり』って」


 華子の言葉通り、少し心拍数が上がったのが俺にも分かった。だが――――久しぶり? どういう意味だ?


 言葉の真なる意味がわからず、俺が黙ったままでいると、不意に大きな音があたりに響く。


 ぐぅ~。


「「…………」」


 大きな大きな腹の虫の鳴き声。一瞬間をおいて、華子が俺の手をパッと離し、自分のおなかを抱え込んだ。


「……や、やだ、恥ずかしぃ……」


 見れば、白い肌が赤く染まっている。だがなぜかややどす黒い赤みだ。


 相変わらず、華子の恥ずかしい基準がわからない。おっぱい触らせるより、おなかが鳴るほうが恥ずかしいのか。


 そんな不可解な謎の解明もされないうちに、おなかを抱えたままの華子が倒れこんでくる。


 ふらっ。


「……おっと」


 華子を受け止めると、ぽすん、と音がした。


「おなか……すいて……」


 息も絶え絶えにそういう華子に、少し焦る。


 まさか、華子はおなかがすきすぎてこんなところで倒れていたのだろうか。顔色はどす黒い赤みがひいて、少し青くすら感じるくらいだ。


「……おい、寝るなよ。こんなところで寝たら死ぬぞ」


 半分冗談にもならない俺の励ましに、か細い声で、華子が返事をしてきた。


「私を殺したくないなら、おんぶ、プリーズ……」


―・―・―・―・―・―・―


 ――――なぜ、俺は華子をおんぶして歩いているのだろう。昇降口を出てからまわりの視線が痛すぎる。


「……なあ、まだ回復しないか?」

「まだです」

「といってもなあ……まさかおまえの家までおんぶするわけにいかないし」

「そうしてくれれば嬉しいんですけど」

「いや、おまえのスカート短いから、おんぶしてるとまわりにぱんつ見えちゃうぞ」

「先輩におんぶしてもらえるなら、ぱんつくらいいくらでも見られたっていいです」

「……仕方ない」

「えっ、まさか家までおんぶしてくれるんですか?」

「パンおごったる」


 両手で感じる華子の生足の感触を意識しないようにしつつ、俺は校門前にある黎明高校生御用達のベーカリー『NAO』へと向かった。


「ぶーぶー。異議あり」


 なぜか、華子は不満そうだが。


「めったに人におごらない俺がおごるといっているんだ、もっと喜べ」

「ぶーぶー」


 どうやら華子は犬から豚へとジョブチェンジしたようで、背中で不満げに鳴き声を上げている。


「何が不満だ」

「えー、先輩がわたしを家まで送ってくれて、どうぞあがってください、かーらーのー、嬉し恥ずかし部屋での初たいけ」

「ぜってぇ行かねえ」


 元気じゃねえか、と感じなくもないが、さっきの青白い顔色はうそではないはずなので、華子を放り投げるのをなんとか思いとどまった。


「……仕方ないですね。メロンパンで手を打ってあげます」

「おう」


 商談成立。メロンパンを指定するとはよくわかってる。美味いベーカリーの判断基準は間違いなくメロンパンだから。


 ……愛美も大好きだったな、メロンパンが。


「ほれ、着いたぞ」


 ぽすっ。


 おぶっていた華子をベーカリー入り口にあるベンチへおろし、俺はそのままメロンパンを物色しに店内へ入る。


 その後買い物を終え店内から出て、期待に満ちた目を向ける華子にメロンパンの入った袋を差し出した。


「わーい、ありがとうございます! ……あれ? なんで、先輩はメロンパンじゃないんですか?」


 俺の手に持たれた焼きそばパンを見て、疑問符を浮かべる華子。それに対する俺の回答はいたってシンプルだ。


「ああ、メロンパンひとつしかなかったんだ。たまには焼きそばパンもいいさ」

「うっわ、炭水化物で炭水化物を包むなんて……」

「焼きそばパン、嫌いなのか?」

「大好きです」

「なんなんだよその前振りはよ!!!」


 半分呆れて、俺は焼きそばパンのビニールを引っぺがしかぶりつく。


 それを見た華子が、包まれているビニールからメロンパンを半分だけ出し、少し遅れて食べ始めた。


「わたしもいただきまーす。……あむ、あむ。おいしー! このメロンパンは絶品です! まったりとしていてそれでいてしつこくないこの」

「黙って食え」

「はーい」


 無駄口は相変わらずだが、両手で大事そうにメロンパンを持ちながら、かわいらしく食べる華子がほほえましい。


 ――――食べる姿まで愛美にそっくりだな。


 そんなことを思いながら、華子を眺めてつい自分の間食をストップさせていると、何かに気づいたように華子がこちらをチラッと見てきた。


「……はい、先輩、あーん」

「……は?」


「先輩も、メロンパン好きですもんね。ひとりじめしたらばちが当たります。ひとくちどうぞ」


 なぜ、俺がメロンパン好きだと知っているのか。


 ……いや、俺がメロンパンを食べる華子をジーッと見ていたから、そう思ったんだろう。深い意味はなさそうだ。


 だが。


「いいっての、それはおまえの燃料補給用だ。遠慮なく全部食え」


 俺が奪った分カロリーが足りなくて、帰宅途中で倒れられたら困る。多少の照れも含めて、俺はそうお断りをした。


 それでも華子は、今回は強引に押し付けることはせず、俺が断りづらい言い方で勧めてきたのだ。


「メロンパンがおいしいという幸せを、ふたりで共有したいんですよ」


 華子の言葉が、昔、愛美とパンを分け合ったときのことを思い出させる。



『兄妹ふたりなら、分け合いっこすればおいしさもふたりぶんだね!』



 そんな思い出に体が動かされたのかもしれない。俺は、華子が差し出してきたメロンパンの縁を、小さくひとくちかじった。


「……うん、うまい。ここのメロンパンはやっぱ絶品だな」


 華子が俺の言葉を聞いて、極上の笑顔になる。思わずドキッとするような。


 もちろんそんなことはおくびにも出さないが、しばらくしてから華子は俺がかじったメロンパンの歯形をジーっと眺め、なぜか責めるようにダメ出しをしてきた。


「はい、またまたアウトです、先輩」

「……理不尽だ。メロンパンくれたのはおまえだろ」

「そうじゃありません。わたしがかじった部分を避けて、なんでわざわざ新しいところをかじるんですか?」

「……あん?」

「ふつう、ひとくちどうぞって勧められたら、わたしがかじったところをさらに上からかじるのが常識でしょう?」

「…………」


 絶句。こうみどりにして鳥はいよいよ白く。いやそれは絶句違いだ。


 十六年と少し生きてきて初めて知った常識。それとも華子の常識は俺の非常識なのか。わからん。


 そんな俺の混乱状態をよそに、華子は両手で大事そうに持ったメロンパンに視線を移し、口調を責める様子から変化させる。


「まあでも、今回はセーフにしてもいいです。わたしがこうすればいいですから」


 俺がかじったメロンパンの歯形部分。そこに華子が口づけするよう唇を寄せてから、「あむっ」と大きく口を開けて一気にかじった。


「…………」


 山は青くして花はえんとほっす。なんかすごくハズいわ。


「あむ、あむ……うん、先輩の味がします」

「するわけねえだろ!」


 華子のある意味官能的ともとれる言い方に、俺は即座にツッコむ。むろん恥ずかしさが大部分だ。


「先輩の味は舌で感じるんじゃありませんよ。ハートで感じるんです」

「…………」


 今春、みすみ又過またすぐ。本当になんなのなの。華子のハートは何製なの。

 顔がさらに赤くなるのが自分でもわかる。この後輩のストレートな物言いに、いったいなんと言葉を返せばいいのか。


 そう悩んで、俺が出した結論は。


「……それにしても、さっきメロンパンをかじった時の大口、すごかったな」


 デリカシーすら感じられない感想返しであった。


「……や、やだ」


 突如として、えんとほっす華子。


 そのままうつむいてしまい、自分の気遣いのできなさにちょっとだけ申し訳なさが現れたのだが、それからボソッとつぶやいた華子の一言が、そんな気持ちすら吹き飛ばす展開をもたらした。


「き、きのう、先輩のアレが大きくてもくわえられるようにって、大口を開ける練習をしてたから、つい……」

「俺の繊細な心に謝れこの野郎!!!」

「だって、そう遠くない未来に、きっと訪れる試練ですよ? 今から練習しておいて損はないじゃないですか」

「そんな未来はねえよ!」

「えっ……先輩の、実はそんなに大きくないと? じゃあ見せてください」

「見せるかボケ! だいたい誰がサイズの話をしてんだよ、この痴女ビッチめが! 夢見てんじゃねえ、現世ではありえねえわ!」

「じゃあ来世に期待します」

「来世でもごめんこうむるっつーの!」


 なぜか、他人に聞かれたらドン引きされそうな会話をする俺たち。

 まったく、カロリーを与えたらこれだ。こいつは燃料切れ一歩手前くらいがちょうどいいかもしれない。


 まあ、今日はあらためて華子がビッチだと確信できた。これだけが収穫だと思う。


 ――――いづれの日か帰宅きたくならん。


 そんな心境で、俺はベーカリー前で延々、華子と言い合いを続けるのだった。

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