心の穴

 愛美が天に召されてからの俺は、まさしく抜け殻であった。


 気力という気力をすべて失い、まったく記憶にすら残らない生活を続けて、たまに思い出すのは愛美が生きていた頃の楽しそうな笑顔。

 そうしてそれを思い出す度、俺の後ろに愛美のいない現実が、心の中に深い悲しみをよみがえらせるのだ。


 休みの日も部屋から出ようとせずに、ボーっとしたままただ時間だけを浪費する日々を重ねる。


 そんな意味のない生活に終止符を打ってくれたのは、他でもない夕貴だった。


「……もう、のんちゃん。起きないとまた遅刻するよ」


 とある平日の朝。早起きする気にもならず中学校を遅刻ばかりしていた俺を見かねてか、突然夕貴が部屋にやってきた。

 視認しなくても、俺を『のんちゃん』と呼ぶ相手は夕貴しかいない。

 眠気がまだ醒めないまま、夕貴が自分の部屋になぜいるのかを理解できなかった俺は、あいまいに返事した。


「……なんでここにいるの」

「のんちゃん、最近遅刻ばっかりじゃない。このままだと中学留年しちゃうから、起こしに来たの」

「いや、中学校に留年はないけど……」


 不登校にならないだけ自分をましだと思っていた俺だが、夕貴からしたらそうではないらしい。「そうだっけ?」と可愛くとぼけて、その上でさらに俺を急かしてきた。


「ほら、早く起きよう? 久しぶりに一緒に登校しようよ」


 夕貴にそう言われて、俺が断る道理などなかった。


―・―・―・―・―・―・―


 久しぶりの、夕貴との登校。愛美が死んでしまう前によく三人で一緒に登校していた記憶が、ずいぶん前のもののように思える。


『ほーら、お兄ちゃん、いいかげんに起きる! 遅刻ギリギリなんて、愛美はやだからね!』


 そんなふうに愛美に起こされ、夕貴と途中合流し、いつも一緒に学校へ行っていた。――そうか、いつも愛美に起こされていたんだっけ。そりゃ、朝起きれなくなるわけだ。

 自己完結でひとり納得していると、それまで無言で隣を歩いていた夕貴が話しかけてきた。


「……なんとなく、変だね」

「……何が?」

「愛美ちゃんが、いないことが」

「…………そうだね」

 

 寂しいとか悲しいとか当たり前の言葉はあえて口に出さず、夕貴は俺から目をそらして言う。

 二人だけでいることの、違和感。俺は、簡単なセリフで同意をしただけだった。


「わたしも、妹がいなくなったように思えて……」

「…………」


 愛美の葬式を終えてから、お互いに触れてこなかった話題。それをあえて今触れるのには、どんな意味があるのか。


「……でもね」


 そんな疑問が頭に浮かんだ瞬間に、夕貴が真剣な口調へと切り替えてくる。


「私はお姉ちゃんなんだから、しっかりしないと」


 俺だけでなく自分にも言い聞かせるようにそう言い切った夕貴が、胸の前で拳を握りしめていた。


「弟の悲しみを軽くしてあげるためにもね」

「……弟?」

「そうだよ、のんちゃんは弟、愛美ちゃんは妹。私にとっては」

「…………」

「だから私は、姉としてすべきことをするつもり」

「……すべきこと?」

「うん。――まずは、朝が弱い弟を起こして、遅刻させないように一緒に学校へ行くこと、かな?」


 大真面目にそんなことをのたまう夕貴に、思わず苦笑いが出た。だがたとえ苦笑いでも、唇の端をつりあげるのは久しぶりかもしれない。


「……ねえ、のんちゃん」


 問いかけされたと同時に、夕貴とバッチリ目が合った。


「……なに?」


 思わずドキリとして、すぐに目をそらしながらごまかすように答えたはいいが。

 夕貴はそんな様子に気づいて、歩きながら俺を覗き込むように顔を向けてきたので、目をそらした意味がなくなってしまった。


「つらいなら……お姉ちゃんを、頼っていいんだよ」


 否が応にも視界に入る夕貴の慈愛に満ちたほほえみと、俺を堕落させそうな優しい言葉。


 ――――お姉ちゃん。


「………………あ、あれ」


 なぜか、俺の目からは涙が零れ落ちていた。必死に止めようとしたけど、まったく止まらない。


「私は、ここにいるから」


 俺の流れ落ちた涙を持っていたハンカチで拭いながら、そう伝えてくれた夕貴。

 

 最愛の妹を亡くした俺は――――初めて異性として意識した姉に、泣きながら「ありがとう」と伝えるだけで、その時は精一杯だったのだ。


―・―・―・―・―・―・―


 俺の中にあった淡い気持ちを恋心とはっきり認識したはいいが、当然ながら夕貴に『好きです』などとは言えないまま、時は流れていく。

 だが、夕貴の存在は、愛美を失ってぽっかりと大きな穴が開いた俺の心を、少しずつ確実に埋めていってくれた。


 ――――愛美はもういない。誰も代わりになれない。でも、夕貴はそこにいる。

 そう思うだけで、不思議と心が温かくなるのを実感できるのだ。


 そうして、愛美の命日がやってきた。夕貴は高校生になり、俺は中学三年生。

 愛美がいなくなって、もう一年なのか、まだ一年なのか、自分でもあいまいだ。

 岸川家(きしかわけ)の墓石の前で、俺と夕貴はしばし手を合わせる。その後、どちらからともなく目を開き、お互いを見合わせてから、ぼそっと夕貴が漏らした。


「……少しは、お姉ちゃんらしいこと、してあげられたのかな。のんちゃんに」


 俺は言葉を返すわけでもなく、ただ頷いた。何を言っても、安っぽくなりそうだったから。

 

 いつか……弟が、恩返しするから。そう心の中で誓って。

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