日記
今日は、上を向いてみようと思った。
なぜそう思ったのかはわからない。たぶん、自転車に乗っていたからだろう。とにかく、理由なんてどうだっていい。
それで、空を見た。
空を見た時、自分が今日何をすべきなのかわかってしまった。
18年前通った道を、探してみたくなった。
そして、その場所までペダルを踏んだ。
18年前の記憶を思い出した。
あの頃は何もかも大きく見えて、世界はどこまでも広がっていると思っていた。
幼稚園の時、サッカーをしていた。
ボールを蹴り、走り回り、転んだ。それでバカみたいに笑った。
レゴを組み立て、昼寝をし、砂遊びをしていた。
幼稚園の窓の形、床のパネルすら思い出した。
床に反射する夕陽の色は、今でも覚えている。
そのカーテンが波打つ速度さえ、まぶたの裏に浮かんだ。
あんなにも大きく見えた幼稚園が、あんなにも小さく見えるとは、当時の自分は知らなかっただろう。
18年前に通った道の記憶を思い出した。
鰻が焼ける匂い、魚の匂い、肉の匂い、鉄と油の匂い。
まだその匂いは残ったままだった。18年、全く変わらず続いていたのだろう。
ある家の軒先で、雨宿りをしたことがある。
雨樋を伝って落ちていく雨の滴の形や色を覚えている。
その雨樋の色はまだ変わらずにいた。
18年前、駄菓子屋でよく分からない菓子を買って食べていた。
駄菓子屋の店主は今、18年分年を取って背中が曲がっていた。
道の色がある場所だけくすんだ赤に変わっていて、背の低い一軒家が並んでいたのをよく覚えている。
今でも、道の色はそのままだった。
トーチトワリングの練習をしている中学生の女子を見つけた。
昔やった。油が熱くて、顔が焼けそうだった。
小学校の近くを通ると、公園の遊具の雲梯を渡って、はしゃぎ回っている子供を見つけた。
昔は、雲梯を使えなかったな。
キャッチボールをしていた小学生がいた。
指の皮が剥けるまで、球を投げていた記憶がある。
商店街を通った。小さな、小さな商店街だ。
店の数も変わらなかった。
変わったことといえば、商店街の名前が付いた旗があがっているくらいだ。
うさんくさい健康食品を売る店も、金物屋も、パスタ屋も、魚屋も、喫茶店もまだ残っていた。
アスファルトの塗装の形すら変わらないままで。
積み上げられた写真が雪崩を起こすみたいに、記憶の山が降ってきた。
だから、自転車のハンドルを離した。
自転車は倒れて、自分は空を見上げた。
年を取る度、感覚が麻痺していくその音が許せなかった。
退屈を憎んでいる少年のまま、退屈が増えていった。
鋭敏だった感覚が摩耗して、少しずつ角が削れていく。
注射の色を変えても、量を増やしても、それはどんどん増えていく。
心臓麻痺を遅らせるための注射器はあと何本必要なのか、自分にはわからない。
たぶん、大人になればいいんだろう。
麻痺毒を注射して、植物のような人間になるべきなんだろう。
今日の空は粉雪が降ったみたいな雲と、段々の雲ばかりだ。風でゆっくりと吹き流されていく。
金色の夕日で雲が光っていた。
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