天使なんていない
僕はその日、たぶん煙草を吸っていた。
そのぐらいの曖昧な記憶だった。煙草は百害あって一利なし。ちょっとした安定剤として服用するだけで、副作用として死を併発する。なのに、僕はチェインスモーカーだった。
僕が煙草をふかしているとき、彼女は立ち上がっていて、僕を見下ろしていた。震える手、手首を切った縞模様が見える。まるで烏賊の短冊だ。
「私を、バカにしてるの?」
「バカになんてしてないさ。君が僕の事を考えているのと同じぐらいの気持ちで君に接してる」
最初から最後まで何一つ、見当がつかなかった。なにが僕を追い詰めているのか必死に検討していたが、これは全く理解不能なことだ。
彼女の内面はエニグマみたいだ。僕はイギリスの同性愛者の数学者になった気持ちで、このエニグマを解かなければならない。わからなければ、たぶんロンドンが落ちる。
それはつまり、僕の心臓が物理的に彼女に刺し貫かれるということだろう。
煙草の煙は何色?煙色。白色。灰の色。
彼女の顔は何色?顔色。赤色。青い色。
これはきっと人生の危機みたいなものだろう。だが現実感がなかった。それは昨日アルコールを入れすぎていたからかもしれない。二日酔い。アルコールは合法の薬物だ。煙草と同じように。
「そういう態度が、私を傷つけるんだ」
一体なにがいけなかったのかわからなかった。
彼女は長い黒髪を持っていた。あとは白い肌と、黒い瞳。髪が勝手に伸びる日本人形みたいだ。
それで、男受けを装った服装、スタイル。だけど、性格は地獄よりも暗い。なにかにつけて泣き、そして手首を切った。ちょっとした精神薬も添えて。
涙と血と薬こそが彼女の愛した物だ。僕はそこに含まれていない。
僕の天使が泣きわめいていたのをよそに、煙で遊びたくなる衝動をなんとかこらえた。天使は聖書で最も人を殺した存在だ。悪魔よりも酷い。
四枚羽の天井のファンが回り続けている。僕と彼女をあざ笑うように、くるくるくる、ただ回り続ける。
光と影が重なり合い、交互に動く。
天井から目を離す時がやってきた。
「僕はいつも思ってる。君が好きなのは、僕じゃない。男が好きなんだよ、君は」
彼女の左手首を見て、香ばしい烏賊飯を思い出した。切れ目が増えている。右手は背中だ。たぶんカッターを持っている気がする。でも、どうでもよかった。
「君は、カッターを出そうとする。それで僕を脅す。僕が変わることはない。僕は君に許しを請うか、死ななければならない。愛か死か。謝罪が愛になるなんて、君は思うのか?」
出てきたのは包丁だった。ほう、これはいつもより怒っているみたいだね。おっと、ジョークを飛ばしている場合ではない。
「あなたはいつも、そういうどうでもよさそうな顔で、私の話を聞き流すじゃん。難しい言葉で、煙に巻こうとする。誰も私の話なんて聞かない」、彼女はやっぱり泣き始めた。まただ。
「話を聞いて貰おうとする努力はしたことがあるのかい?話は面白くなければ聞いて貰えない。僕の話が面白かったことがあるかい?僕は自分の話を誰にも聞いて貰おうと思った事はない。なぜなら自分の話には価値が無い。自分のことをどうしてもう一度自分に聞かせなきゃならないんだ?他人の話を聞いていた方がマシだ。僕は無価値だ。僕は・・・・・・」
ダメだ。なぜだか自分の無価値さを話している。ヘンな二日酔いが残っているみたいだ。僕は鬱病の診断をもらっている。彼女と同じように。
「包丁を置いて、僕に光をくれよ。僕の天使」
彼女は包丁を置いた。置かなかったら先にハンマーで殴りつけてやるところだった。
「私は、男好きなんかじゃないし、あなたが好きなだけ」
「じゃあ君が僕がいなくて寂しいと言って、他の男と寝ていた事実については?それを何度も何度も繰り返していた。責める気は無いし、どうでもいいけど」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女はまた泣き出して、崩れ落ちた。
どうでもよかった。なぜなら僕はもう彼女に対して煙草ぐらいにしか興味がなくなっていたからだ。それはつまり、彼女に対して僕は依存症だということだ。
結局その日、飲み物に精神薬を大量に混ぜられて、僕は病院送りになった。
僕はこれを人生と呼んでいた。人生なんて何一つわからない。
何が起こるのかも、何が起こったのかもわからない。
結局僕も、これを読んでいる君も最初から最後まで何一つわからなかっただろう。なぜ怒っていたかもわからない。なにも。
この手紙には新聞記事程度の情報しかない。なにかが起こった顛末だけ。それが人生なんだ。
僕の天使は僕に人生の意味を考えさせてくれる。
それは、天使なんていない、ということだろう。
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