黒猫


 たぶんそれは爪痕以外、なにも僕にくれなかった。

 冬の匂いが空気から色濃く感じ取れるほど月日がたったころ、誰もが街を歩いていた。ビル達が命を輝かせて、その栄華を主張している。

 僕は黙って、ただ夜を眺めていた。


 僕がそれをするようになったのは、一年前からだったと思う。

 やることは簡単。街の明かりに照らされながら、暗闇の中を歩き続けることだ。真っ暗闇の中で本を読むみたいな、そんな意味の無い旅だ。

 そこに出会いがあって、別れがあった。

 僕が彼女と出会ったのは、大学一年の頃だったと思う。

 たぶん、夏の日の夜だった。

 バーで気取ったカクテル、ギムレットだったかもしれない。大学生によくある、味もたいしてわからないのに高くて美味いカクテルを飲もうとする、そんなことをしていた。

 だが、人は誰も最初は味を知らない。誰かが物を食べさせる。それを自分でやるか、他人がやるか、その程度の違いしかない。それを飲んでいたときに、隣の女に、同じ物を奢ってみた。

「あちらの方からの奢りです」、マスターはそうやって彼女に言っていた。

 酔っていたからよくわからなかったが、あとでとんでもない美人だと気づかされた。

 綺麗な黒髪が腰まで伸びて、愛らしい黒猫のような瞳をしていた。黒、黒、黒。全部が真っ黒だった。

 だから僕は彼女を心の中で黒猫と呼んでいた。

 黒猫は、性格も黒猫みたいだった。すり寄れば離れていくが、離れると近づいてくる。だから僕は人並みに黒猫と接していた。猫の飼い主が、猫と接するときのように。

 僕は黒猫と何度か遊ぶことになった。僕も黒猫も、都心の大学だった。環状線の中に収まる程度の、ほんの少しの距離だ。

 僕と黒猫は、いろんな場所に行った。

 都会だったり、煙の匂いがする海の近くだったり、星が見える山や、開発された丘だったり、いろんな場所だ。

 彼女は丘に住んでいた。金持ち達が静寂を金で買って住んでいるあの丘だ。星が見える丘だ。

 黒猫は金持ちの娘だった。だけど、機能不全家庭と呼ばれる家庭だ。だから、時々愛がわからないようだった。だから黒猫なんだろう。

 黒猫は、僕にいつも言っていた。

「お金なんて、なににもならないわ。だから、愛が欲しい」

 それで、僕はいつもこう言った。

「たぶん、両方ともないよりはあった方がいい。ある程度を越えない程度にね」

 黒猫は、金については同意して、愛については同意しなかった。だけど、そこまで愛を求めているようには見えなかった。たぶん黒猫は、ロマンス小説の読み過ぎだったのかもしれない。



 秋がやってくる頃、僕と黒猫は付き合った。

 どちらかが言い出した訳でもなかった。もっと前から同じような物だった気がする。

 僕と黒猫は幾度も夜を越えた。

 それ以外は、いつもと変わらなかった。

 街を歩いて、海を見て、星を見て、山を見た。

 ただ、全てが綺麗に見えるようになった。街も、海も、星も、山も。

 黒猫はそれを愛と呼んでいた。

 愛は、望遠鏡みたいな物だったのだろう。



 そして、最初の冬がやってきた。

 星が一番綺麗に見えた。

 黒猫の家は出来たばかりの洞窟のように空っぽで、大きかった。昔の彼女の心と同じように。

 ぽつんと置かれた天体望遠鏡で、丘を上がって星を見た。

「最近買ったの。星が好きになったから」

「いつ買ったんだ?」

「秋ごろにね」

 望遠鏡がなくても、星が見えた。冬の大三角と、天の川だ。

「織姫と彦星は、寿命からすると0.3秒に一回会っているらしいわ」

「知りたくなかったね。伝説が興ざめじゃないか」

「でも、幸せでいいと思うわ」

「そうだね」

「ずっと、一緒にいたい」

 僕はなにも言わずに黒猫と手をつないだ。

 普通に手をつないだのは、これが初めてだった。



 そして、春になった。

 僕と黒猫は喧嘩した。

 人と猫がやるみたいな、些細な理由だった。

 たぶん、黒猫は気が立っていたんだろうとその時は思っていた。一ヶ月ごとの記念日を忘れていたからだ。黒猫は僕をはたいた。

「私のことを、忘れないで」

「大げさだ。君のことを忘れたことなんてない」

 言い争っている内に、望遠鏡が壊れた。

 黒猫は今まで見せたことがないような顔をして、泣きわめいた。

 僕はどうすることも出来ずに、空の星を眺めていた。

 そのうちに仲直りして、望遠鏡は買い直した。

 だけど、黒猫はもうどこか変わってしまっていた。



 黒猫は、夏の日に、ヨーロッパのどこかに行った。すぐに帰ってくると言っていたのに。

 僕は空港で見送った。

 黒猫は、その日も喪服みたいに黒い服を着ていた。

「僕も連れていってくれればよかったのに」

「それは出来ないわ」

「なぜだ?」

「あなたは、呪いにかかっていないから」

 呪いの意味を考えている内に、飛行機の時間がやってきた。

「それじゃあ、今まで楽しかったわ」

「永遠のさよならみたいじゃないか」

 黒猫は振り返って、微笑んだ。

 外からの日差しで、顔すらろくに見えなかった。

 そして、黒猫はどこかに行った。



 猫は、死ぬ前にどこかへ消えるらしい。僕はその時猫を飼っていなかったから、そんなことは知らなかった。

 ようやく、その事を知った。

 黒猫は、なにかの病気で死んだらしい。どうでもよさそうな顔をした、黒猫の母親から聞いた。僕も、表情を変えることが出来なかった。冬に余命宣告をされていた。今年の冬までは持たないと言われていた。だから、最後に旅行をしてまわったみたいだ。

 僕をここに置いて。

 たぶん、猫も同じなのだろう。死を悟り、最後に景色を見て歩く。いままで関係してきた全てを忘れ去って、置いて、旅に出る。

 黒猫は永遠の旅に出ていった。

 そうとしか思いたくなかった。



 もう、街に雪が降ってきた。




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