1-13 記述『死の世界』
「ただいま…」
返事が返ってくることはない。それはわかっていても、どこか期待して遠慮がちにドアを開ける。今日は鍵を身につけていたのは幸いだった。カバンは教室に置いたまま家まで来てしまったのだ。だから今の柊の持ち物といえば、右ポケットに入ったスマホと、左ポケットの鍵と財布だけだ。とはいえ何かが必要、という訳でもないのだが。
「母さん…?」
この時間に家にいる可能性があるのは母親だけだ。父親と妹は、柊が家を出る前に会社や学校に出発している。専業主婦の母が買い物に行っていなければ、恐らく家にいるだろう。
「母さん…?」
返事なんて来ないのに、柊は呼びかけるような声でゆっくりと廊下を進む。母親の死体など、見たくはない。それでも万が一の期待を込めて、リビングへ向かう。
「……」
わかってはいたことだ。それでも、リビングから見える台所の床に伏す親の姿に、柊は目を閉じて首を左右に振る。毎朝、夫と息子、娘と三人分の朝飯を作り、そのため時間がなくて自分の朝飯は後回しになって、三人が家を出た後一人で自分の分を作り、一人で食べる母。朝と昼が一緒になることもあるらしい。この時間は丁度ご飯を作る段階だったようで、まな板の上に刻みかけのブロッコリーが転がっている。床の上の母の右手には包丁が握られたままだ。
「母さん、危ないから。」
柊は包丁をその手からそっと抜き取ると、まな板の上に置いた。それから母を抱き上げると、リビングのソファに横たえた。いつか生き返る日が来るかもしれない。そんな時、包丁を持ったまま床で寝ている状態に息子としてさせたくはなかったのだ。
「よし…」
柊は台所に戻って手を洗うと、包丁を握った。母が何を作ろうとしていたかはわかっている。スパゲッティだ。母の大好物で毎日食べてると聞いたことがあったし、麺がハカリの上に置いてある。柊は料理を作った経験など殆どない。柊はポケットからスマホを取り出すと、スパゲッティの作り方を調べ始める。
「なるほどね…とりあえずやってみなきゃ始まらんな。」
* * *
「よし、ここから3分…っと。」
冷蔵庫に貼ってあるタイマーを三度押す。ピピピッと軽快な音が、指の圧に連動して部屋に響いた。
部屋でする音は柊が立てる物音と火の音、そしてタイマーの音。それだけだ。
そして三分が経過した時、再びピピピピピピピピと音がする。
そこで柊は何か心の中で引っかかるものを感じた。
「なんだ…なんか見落としてるような…いやとりあえず火を止めてっと。」
出来上がったかに見えるスパゲッティを味見。よくわからない味だ。美味いのか美味くないのかよくわからない。でも柊が一生懸命母の為に作ったのだ、きっと喜んでくれる。
「母さん、作ったから、起きたら食べてね。」
柊は皿に盛ったスパゲッティをソファの前の机に置いた。すごく質素な見た目だ。白い麺に緑のブロッコリーが乗っているだけ。もう少し何か野菜を用意すべきだったかと後悔もするが、その思考はすぐに掻き消される。
「おい待てよ、俺火使ったよな。母が倒れた時にもし火が付いてたら、そのまま火事になってたんじゃないのか!?」
先程の違和感はこれだ。火が付いたまま消す人がいなければ、火事になる。消防車も来ず、火の手は隣へ隣へ広がり、大火事になる。
「確認、しなきゃ!」
確認しても柊には何もできない。それでも家を飛び出したのはただの野次馬根性か、それともーー。
柊はチラと腕時計を見る。
9月4日、12:00ちょうど。
柊は走りながら、燃えてる家がないか確認する。
「ないな、この時間は火をあんまり使わないのか…?いや昼時だ、ありえない。」
柊は商店街に入った。何かが焦げるような匂いがして、脚の速度を速める。
「火事!…あれ?」
木造の串焼き屋が燃えかかっている。赤の炎が木の壁を這うーーように見えた。確かにそこに炎はあったが、炎は動いていなかった。凍り付いた炎ーーとでも表現すべきか。まるでそこに炎のオモチャがあるかのようにビクともしない。それでもオモチャにしてはリアルすぎる。
「炎ってもっとチロチロと揺れ動くものじゃ…ってアッツ!」
炎に手を伸ばした柊は、その温度に反射で手を引く。本物の炎だ。なのにこんなに静かなのは変だ。燃える音すら全くしていない。
「どう、なってるんだ…?」
そのまま歩いていくと、所々に似たような状況の家や店があった。まるで固まったような炎が張り付く。
思えば、家まで歩く道のりで感じた、あの湿った風も今は止んでいる。当然、風に揺れていた木々のざわめきも聞こえない。
ーー静かだった世界が完全な静寂を手に入れたかのようだ。
「ん…?それに俺、なんで疲れてないんだ…?一駅分歩いて、今も家から走って来たのに、全く疲労感がない。俺少し走ったらすぐ息切れするはずなんだが…」
こうして動き回る間も、柊の目には無数の死体が映る。火事を探す事で頭が一杯だったのが、不可思議な現象で遮られたせいで死体へ注意が行くようになった。衝突して壊れている車も見える。これ以上外にいると、精神が崩壊しそうだと判断した柊は家に戻ろうと判断する。
「…帰ろう、いやその前に食糧を調達しよう、スーパーもすぐそこだ。」
柊がいちいち口に出して独り言を言うのは、寂しさや悲しさを紛らわす為だ。黙っていたら泣いてしまう。独り言でそんな感情を無意識に誤魔化している。
「スーパーに到着、とはいえあまり食う気もしない。料理もできないし、梨だけ持って帰ろう。」
スーパーの籠を取り、入る限りの梨を入れる。そして代金も払わずに家へと歩き出す。
「誰もいない、今は俺しかいない。だから全て俺のものだ。そうだよ…この世界は俺のものだ。つまり俺は今、神と言えるんじゃないか?」
柊はまだ自分では理性的判断を保っていると思っている。彼の精神が少しずつ、少しずつ壊されていくのを、柊はまだ気がついていない。
「俺が法、俺がルール。誰も俺を罰しない。はははは、気楽なものじゃないか!なんて素晴らしい!俺は自由だ!」
そんな時、柊は足元に柔らかい感触を得て下を向いた。
これまで死体の少ない線路などを歩き、道を歩く時も死体を踏まないように避けて進んできた。今、自分の足が死体の一つを踏みつけていることに気がついた柊は、慌ててその足を退けた。
「…!俺は、なんて事を…」
人を踏むなど最低の行為だ。人の尊厳を踏みにじる行為だ。そんな仁義に反する行動をしてしまった自分に嫌気がさす。後ずさって、また別の死体に躓いて尻餅をつく。転がる籠、飛び出す多くの梨。そして尻の下には柔らかい肉体の感触。
「うわああああっ!」
急いで自分の腰を動かし、地面に座る。動けない。怖い怖い怖い怖い怖い。どうして家を出てしまったのかと激しく自分を責める。周りの人間を気にすれば気にするほど、どんどん恐怖が増してゆく。散らばる死体の開かれた眼が、そのすべてが、自分を見つめている気がした。
「違う、違う、俺の、俺のせいじゃ…!」
柊は慌てて立ち上がり、周りの人間に叫ぶ。籠を拾い上げると転がる梨を集め、その場から逃げ出した。逃げる途中で、車のドアを開けたままその場に倒れている人を見かけた。柊は立ち止まり、籠を置くと、その人を引っ張り出し開いたドアから遠ざけた。そして運転席に自分が乗り込み、梨の籠を補助席に乗せ、勢いよくドアを閉めた。
「誰も見ちゃいないんだ…」
思いきりアクセルを踏む。ハンドルの奥のメーターの針が右に大きく振れる。速度違反?そんなものはない。ここでは柊がルールなのだから。
「あははははははは!速い速い!」
アクセルを踏んだまま足を離さない。針はどんどん右に振れる。車はこんなにも早いスピードが出るのか!車のタイヤが時折柔らかい何かを乗り越えたり、潰したりしている。しかし柊の目に入らないそれは、誰に注意を向けられることもない。
車は曲がり角に差し掛かった。しかし高速道路並み、いやそれ以上のスピードが出ているその車は、90度に曲がることなど出来るはずもない。ハンドルを切る柊の努力も虚しく歩道へ突っ込み、車ごと壁に激突する。
「っつぁああああああっ!」
ハンドルからエアバッグが飛び出し、柊の頭が受け止められる。しかしシートベルトのしていない身体は宙を舞い、天地がひっくり返ったかのような浮遊感を味わう。梨も籠から飛び出して車の中で弾丸のように飛び交う。
その全ての運動が停止した時、柊はどこかにぶつけて痛む肩を抑えながら助手席に移り、扉を開けた。運転席側の扉は壁に塞がれているし、変形して開きそうもなかったからだ。
「ってて、梨傷んじゃう。」
家まではすぐそこだ。柊は拾い直した梨の籠を片手にブラ下げながら家に入った。
時計は12:06を指していた。しかし柊は時計を見なかった。柊は黙って二階に上がり、自室に籠もった。本棚にマンガが並んでいる。何が面白いのか、こんなもの。
買ってきた梨を皮も剥かずに齧る。大好物の梨。一番好きな果物。昨晩も同じ場所で食べた神の味。
しかしーー
「梨ってこんな、何の味もしなかったっけか。ぜんっぜん美味くないじゃないか。」
昨日の味と今日の味は大きく違った。いや、本当は違うように感じただけなのだ。柊は自分の精神状態に、まだ気がついていない。
今帰宅する時、柊は多くの人間の尊厳を踏みにじった。それなのに何も感じていない。自分の行動を省みることもない。
なぜなら柊はーー
「ついに全てを手に入れたぜ、俺…」
元々そんな事をこれっぽっちも望んでいなかったのに、最初からそれが望みであったかのように独り言を発する。
時計は12:06を指していた。
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