1-7 記述『帰り道と妹』

「じゃあな」

柊は振り返って一言だけ、そう告げた。視線の先には親友、木戸照也が不安げな瞳を柊に投げていた。

「大丈夫、心配すんな。」

柊は前を向いて歩き出す。背後で扉の閉まる音がして、木戸を乗せたまま、ゆっくりと電車は動き始める。電車が線路を踏む、軽快な音が遠ざかり、柊はもう一度振り返った。

「大丈夫、大丈夫だ。」

小さく呟いて、柊は階段を一歩一歩、言い聞かせるように降りて行った。そう、大丈夫ーー。



* * *



「はぁぁっ、はぁぁっ、はぁっ、はぁっ…」

全力疾走。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。身体は自分のものか疑うほど軽く、飛ぶように夜道を駆ける。街灯が、街路樹が、音もなく置き去りにされ遠ざかる。


「!」


柊はハッと、足を止めることなく後ろを振り返る。誰もいない。この動作を繰り返したのはもう何度目か。駅から家までの道のりが長い。こんなに長く感じたのは初めてだった。と同時に、こんなに全力で走ったのも初めてだった。


「!」


降り返る、人気はなし。自分の吐息と、心臓が煩い。もっと静かに、誰にも気付かれずに走りたいのにーー。駅から家までの距離は歩いて約1km。柊はその距離の全てを、全力で走ったことはなかった。それを試みたとしても、1/3くらいで体力の限界を迎える。そして脚が痛くなるのが常だった。しかし今は違う。疲れという感覚はない。あるのはただ疾く、疾くーー、それだけだった。少し速度を落としつつ、身体を90度回転、角を曲がる。


「!」


「…!あ、翔くん、こんばんは…?」

近所に住むおばさんにぶつかりそうになる。挨拶をするのも煩わしく、短くこんばんはと答えて疾走。そして自分の不注意さに深く反省。今、角を曲がったとこにいたのが、奴だったら…不注意に飛び出すなど、あまりに愚かだった。考えただけで身震いが走る。結果的に危険はなかったことに、ただただ安堵するばかり。


「もう…すぐ!」


ここからはほぼ一直線。あと50mちょい。10秒もあれば、家に着く。だが、加速しきった柊の鼓動は、10秒すらも遅いと見なす。ただ疾く、疾く、疾くーー。地面を脚で蹴る。

家が見える。玄関の扉にぶつかる寸前で急ブレーキ、脚を止め、インターホンを乱暴に押す。


「はぁ…はぁ…はぁ…」


これはインターホン、家には普通備わる、侵入者妨害システムの一つだ。家屋の居住者、若しくは敷地に入りたい者は、持っている鍵で扉を開けるか、インターホンを鳴らして部屋内にいる人間に扉を開けて貰う必要がある。当然、中にいる人がインターホンに気づき解錠するのを待つよりも、自分で鍵を開けた方が早いのだが、生憎柊の鍵は彼のリュックサックの中なのである。まだか。まだか。早く開けろ。俺を早く安全な場所へ。ふと、後ろから肩をたたかれる幻覚を覚え身体がこわばる。早く……!


ようやく中から人が近づく音が聞こえ、カチャリと鍵の回るのが聞こえる。何度も後ろを振り返りながらその瞬間を待っていた柊は、大急ぎで扉を開け、また大急ぎでバタンと音を立てて閉めた。


「はぁ、はぁ、た、ただいま。」

「おかえり。」

すぐそこに、部屋着に着替たらしい母親が立っている。柊は母親への説明の言葉を考えていなかったことを思い出し、焦った。それでも何か言葉を探そうと、とりあえず口を開き、声を出す。

「あ…か、母さん、これは…」

母親は息子の顔を数秒間、じっと見つめる。何を言われるのか、と身構える息子に、母親はハァとため息をついて、

「あんたの事だから、何か事情があったんだろうとはわかります。今話せないなら、無理に話せとは言いません。その代わり、話せるようになったら、キチンと説明なさい。」

「…あ、あぁ、わかった。心配かけて、ごめん。」

「それと、柚希も心配してたから、お礼言っときなさい。」


柊柚希、柊の妹である。テレビの前のソファに寝そべってドラマを見ている。内心どう思ってるかは知らないが、大して面白いとも思ってなさそうな表情で見ているところなど見ると、やはり兄妹だな…と兄は苦笑を抑えられない。妹はテレビのリモコンを取ると画面を一時停止し、それでも顔は柊の方を見ることなくテレビへ向けられたままで、こちらもハァとため息をついてから兄へ言葉を投げる。

「大丈夫なの?」

「大丈夫だ。ごめんな、心配、かけたみたいで。」

「心配?私が?そう…心配。そうね、心配していた、というべきかしら。兄さんがどうなろうと知ったことではないけれど、それによって何か面倒ごとが私に降りかかるのは確かに心配したかもしれないね。」

「相っ変わらず可愛げのない奴だな!でもそのくらいのが今は丁度いい。」


柊は妹との会話(?)を早々に切り上げて、二階の自室へ赴こうと階段へ向かう。早足で向かいたいのを我慢、ゆっくりゆっくり、焦らず焦らずと自分に言い聞かせる。家族に不自然な様子を見られては、何があったか追及されかねないし、家族に迷惑をかけるつもりもなかった。


誰にも迷惑をかけず、自分の力で解決し、何事も無かったかのように振る舞う。下手なことをして漣を立てるよりも、現状を維持する方が合理的。他人に自分のことで迷惑をかけたくない、悩ませたくない、苦しませたくない。厄介ごとや負の感情は自分の中に押し込んで蓋をして鍵をかけ、人には理想という表面を見させる。別に誰もにいい顔をしたいとか、好かれたいとか、人気者になりたいとか、そういう事を柊は考えているわけではない。ただ自己内完結を是とするだけだ。他者に頼るのはかっこ悪い。


本当なら木戸にだって頼りたくなど無かったのだ。大切なものは、遠ざけておけば安全だ。それなのに自ら首を突っ込んでくる木戸の考えは、理解はしていても納得はしていない。木戸は自分が関わることでうまくいくと考える傲慢な奴なのだろうか、と柊は皮肉るがすぐにそれを打ち消す。違う、わかっている。あいつはただ友達を心配しているだけで、一人で悩ませたくないだけだ。それはわかる。でも柊からすると得心はいかないし、柊なら絶対に取らない選択だ。


「兄さん」


呼び止められて歩みを止めて振り向く。妹は今度はこちらを見ていた。滑らかな黒髪が美しく頬を伝う。大抵の男は柊柚希という女に胸を高鳴らせることだろう。だが兄目線から見ると、生意気で可愛げのない妹でしかない。妹なんてそんなものだ。そんな妹との会話をするくらいなら、早く自分の部屋で一人になりたい。内心苛立ちを覚えても、それを悟らせてはならないと、わざと微笑を作って妹の次の言葉を待った。

「兄さん」

「なに?」

「あとで…部屋に行くから。」

「いや、本当に大丈夫だから…」

「行くから。」

強い決意の眼差しと有無を言わせぬ圧力に柊は押し黙る。どこの家でもそうなのだろうか、兄は妹よりも立場が弱い。妹が強く出れば、兄は最終的に屈さざるを得ない。父親だって母親に勝てない、さらに言うと妹にすら勝てていないのを見ると、男というのは女には勝てないのではないかとすら思える。柊は諦めて、ハァと母や妹と同じようにため息をつく。

「…わかった、わかったから。」

面倒だ、全くもって面倒な妹だ。どうでもいいと思っているくせに、入られたくないとこまで入ろうとする。身勝手、誠に身勝手極まりない。ここまで傲慢な生き物があるだろうか。好奇心で首を突っ込んできてはまたすぐに飽きては興味なさそうな顔で俺を馬鹿にして出ていくんだろう。

柊は周囲を確認して自室に入ると、再び部屋の中をグルリと見回して確認、リュックサックを肩からドサリと床に落とす。


「疲れた…」


思わず弱音が声に出る。それでも、制服を脱ぎ、部屋着に着替え、制服をハンガーにかける間も周囲の警戒を怠らない。着替え終わった柊は、転がったリュックを足で追いやり、ベッドへ倒れこむ。ベッドは部屋の角に寄せて置いてある。ベッドの上を四つん這いでその角へとたどり着き、枕を踏まないようにベッドの中央へ投げ、角にに背を向けて体育座りをする。背中は角、両脇は壁、前方には自分の部屋が広がっている。


自分の背後を安全にして、部屋に「奴」が現れないか全力で警戒できる体勢だ。木戸と別れてから、ずっと鼓動が高鳴りっぱなしだ。一人になるのは好きな方だが、こんなに一人が怖いと思ったのは初めてだった。後ろに誰かいるんじゃないか、見られてるんじゃないか、狙われてるんじゃないかと常に恐ろしい。壁を背にしても安心などこれっぽっちもできない。壁からぬっと現れたりはしないだろうか。妄想が妄想を呼び、恐怖だけが増幅する。


こんな毎日を続けたら壊れてしまう。対策を練る必要があるな…と、柊は部屋を見据えて思考に入った。

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