1-2 記述『開いた口が塞がらない』

『豪運な少年』第一巻




「はあ…眠…」


柊翔は坂道を登って学校へ向かっていた。現実はいつだって残酷だ。毎朝毎朝早起きしなければならないし、学校へ行くのにきつい坂を登らなくてはならない。流石に五年目、つまり高校二年生なので慣れてはいるが、面倒なことには変わりない。五年目、といったのは決して留年しているからではなく、中高一貫校だからだ。それに何より嫌なのはこの暑さである。夏休みも先日終わり、もう9月3日だというのに、暑い、暑い、暑い。しかも坂。すごく暑い。


「今日も寝るか…」


柊にとって、朝学校へ着いてから机で寝るのはもはや習慣となっている。睡眠は一種の特技で、起きたら三時間目…というのもザラだったりする。




「おはよ、柊。」


教室に到着し、自分の席に座ろうとしていると、隣の席に座っていた男が柊に声をかけた。なんだ木戸かと思いつつ適当にうすと返し、腰を下ろす。




木戸照也。柊の隣の席で、割と気が合っていて、よく話している。少し奇行が多いが、面白い男で、人気も高い。勉強こそかなり残念だが、運動能力は非常に高く、クラスに一人はいる「スポーツなんでもできる系男子」である。




奇行が多い事の例を挙げるとすると、授業中だけでも、突然立ち上がって踊り出したり、机持ち上げてみたりなど、普通はやらないような行動をしている。成績がすこぶる悪いのも、誰もが納得する授業態度だ。タチが悪いのは、先生の前では猫を被っており、そのような奇行は先生が背を向けている時のみ行われる事だ。そのため先生が振り向いた時には、木戸の周りの人達だけが笑っていて、木戸は怒られずに周りが怒られるといった具合である。迷惑な男だ。




ここで、先生はなぜ木戸をそこまで信頼するかという疑問が浮かぶが、その理由は彼の演技力の高さにある。木戸は人の機微を観察するのを大の得意としており、大抵の嘘を見抜くことが出来る。嘘を見抜けるという事は、嘘をつく人の動作や発言を熟知しているということであり、それは逆に言えば嘘をつくのが非常にうまいという事になる。しかしそういった狡猾さを他人に感じさせない振る舞いをしているというのは中々見事というべきか。




「柊、今日のジャンケン。最初はグー、ジャン、ケンーー」


柊は面倒くさそうに手を出す。


柊はチョキ、木戸はパー。


「また負けたー!やっぱ絶対おかしいって!」


「誰も俺には勝てないんだよ。」




毎朝恒例のこの行事、ジャンケン。柊は一度も木戸に負けたことはない。いや、木戸どころか、人生のうちで一度たりともジャンケンで負けたことはない。もっと言ってしまえば、ジャンケンどころか、運が介在するものなら絶対に一番確率の低いものを引くのだ。例えばテストの四択はもし悩んでも運で当たるし、裏で積まれたトランプの束の一番上にあるカードも当てられる。ソシャゲなんかも狙ったのを引きすぎて、むしろつまらないのですぐに辞めてしまった。




そんな特殊体質というか特殊能力というか、そういうものに毎朝木戸は性懲りも無く挑んでいるのである。木戸は一度、出す手を事前に宣言した事があった。木戸にとって心理戦は得意分野。相手の表情で感情を推し量り、それに勝つ手を出せばいい。これなら勝てると意気込んだのだが、見事に負けた。


柊曰く「その手の心理戦はこちらがいくら考えても答えは出ない。それならいつも通り何も考えず運に任せればいい。」木戸はそれを聞いてから頭を使うのをバカらしく思え、次の日から自分も運に任せてジャンケンしているが、それでも勝った試しはなかった。




「ってまた寝ようとしてるよ…今日は転校生が来るんだから、起きてた方がいいんじゃないかい?」


そう、今日は転校生が来ることになっている。しかし柊は全く興味がなかった。いや、柊でなくても、ほぼ全員が深い興味を抱いていない。なぜなら…






転校生は男だから。






ここは男子校である。つまり転校生も男。興味を示さないのも当然だ。私立のため転校生が来ることは考えにくいが、先生の話では姉妹校からの転校生らしい。因みに先生は生徒に「ゴリラ」という名前で親しまれている。本人はゴリラではないと主張しているが、柊曰く、ゴリラであることは証明可能、である。




「第一に、何を言っているかわからない事が時々ある。第二に、ウホッと言う。第三に、力が非常に強い。噂によるとガソリンの切れた車を持ち上げて学校に来たことがあるらしい。あの急な坂を、だ。あり得ないだろ。そして第四に、何も言っていないのに自分からゴリラではないと否定してくる。一生懸命隠そうとしているんだろう。以上より、先生はゴリラだ。証明終了。文句無しの満点だ。これで先生も喜んで花丸をくれるに違いない!」




これをドヤ顔で語った柊もまた、木戸と大差ない大バカに見えるが、実は柊はこれでかなり頭がいい。成績はいつも学年トップクラスである。これは彼の運によるものではなく、実力もキチンと伴っている。この学校自体進学校のため、柊の頭は全国的にもかなりいい頭脳という事になるが、進学校といっても全員が勉強出来るわけでもない。そこは個人の努力次第、ということで、木戸のように残念な頭になってしまった者もいるわけだ。頭の良さ代わりといってはなんだが、柊の運動能力は極端に低い。ちょうど木戸と真逆の性質ということになる。




「柊のやつ、もう寝ちゃったよ…毎日毎日、よく寝るなあ」


机にうつ伏せになるもつかの間、柊は転校生の登場を待たずして、眠りに落ちてしまったのである。






* * *






ーーおい、柊!起きろ!起きろ!おい!






体を乱暴に揺さぶられて、柊は眠たげに目をこすりながら目を覚ました。隣の木戸が、やけに困惑した顔で柊を、見ていた。




「何だ…」




そして気づく。


柊を見ているのは木戸だけではない。


クラスの全員が、自分を見ている。






「…?何だ?」






奇妙な光景だ。俺が寝ていることなど珍しいことではなかろうにーー。


そしてグルリと視線を巡らせ、教壇で止まる。






教壇に立つ人物、転校生。その姿を見てはっと驚く。


驚くなんて生やさしいものではない。全身を雷で打たれたかのような衝撃だ。




皆が自分を見ていた理由はすぐにわかった。柊は転校生の顔を、知っている。




鼓動がドクンと跳ね上がる。




柊は唖然とした顔で、転校生を見つめた。


転校生は柊を見て意味ありげにニヤリと笑ってーークルリと背を向ける。


そしてチョークで黒板に自分の名前を書いたーー。






『柊 翔』






転校生は再び皆の方へ顔を向けた。クラスの人は皆、転校生と柊とを、交互に見比べた。


柊は生まれて初めて、自分の目を疑った。全身の毛が逆立つ感覚に襲われた。絶句。開いた口が塞がらない。しばらく言葉が出なかった。なぜなら、教壇に立つその男はー






柊と、同じ容姿をしていたから。






同じ顔、同じ髪型、同じ背丈、背格好。そして今わかった、同じ名前。違うのは転校生の方はメガネをかけていることくらい。全てを飲み込むのに、少し時間を要した。




しかも、何だって?柊…翔?名前まで、同じ…?ようやくそこまでたどり着いた柊を、転校生は挑戦的な笑みを浮かべて見ている。敵意。その笑みには敵意があった。その態度が、似た者同士で仲良くなる可能性をかき消した。クラス全体が、その後の動向をただじっと見守っていた。




柊にふつふつと怒りが湧いてくる。同じ名前の奴がどうして同じクラスに配属になるのかという、当たり前の疑問すら感じる余裕はない。隣の席で何か騒がしい事が起こっているのにも目に入らない。目の男だけを見る。


ふさけやがって…それは、俺の、名前だ…!顔だ…!体だ…!これは、ただの偶然じゃない!明らかな悪意!


眠気など、とうに吹き飛んでいた。柊はゆっくりと立ち上がりーー、滾る炎に身を任せ、教壇に立つ男をキッと睨んで口を開く。




そして転校生が口を開くのも、時を同じくしての事だった。






「「お前はーー!」」

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