レフティ対魔獣
レフティは女性の悲鳴が聞こえてきた方へ向かって走っていた。
それは間違いなく彼の義姉の声だった。
森を抜け、草原の勾配を駆け上がって行く。
川の流れる音や、滝壺に水が落ちていく音が、徐々に大きくなっていた。
勾配を登りきって、少しだけ平坦に近い原っぱに出ると、大小の岩が突き出ている場所がある。
まだ遠い、一際大きな岩の上に見たことも無いような化け物が立っているのが、レフティにも見えてきた。
普段の彼であるならば、慎重に監視をしながら仲間の到着を待つだろう。
だが、その大きな獅子の口に咥えられている物が、レフティの目に入ってしまった。
「アリシアアアァァァッ!!!」
レフティは叫んだ。
アリシアの下半身は、獅子の口の中に埋没していた。
彼女の両手はだらりと垂れ下がり、逆さまに万歳をしているように見える。
その指先からは血が滴り落ちていた。
アリシアの意識は既に痛みを感じていない。
瞳に入る光も伝わらない。
身体は重く、冷たく、その感覚すらも少しずつ遠のいていた。
レフティの叫びだけが、まだ聞こえていた。
自分が喰われ始めているという認識すら失っていた彼女の耳に、愛する人の言葉が聞こえてくる。
アリシアの唇が微かに震えた。
「あ……れし……っと……えだ……く……た」
魔獣の獅子が彼女の腹の肉を噛む。
肋骨の下側や腰の骨が砕ける音が響く。
肉が千切れて血が噴き出す。
そしてアリシアの上半身は、魔獣の口から離れて、岩肌を転がり落ちていく。
赤黒い汁を撒き散らしながら、彼女は頭から地面に着いた。
ああ、嬉しい……やっと名前だけで呼んでくれた……。
結局、それがアリシアの最期の言葉になった。
獅子がアリシアの下半身を飲み込む。
魔獣の女性が恍惚とした表情で打ち震える。
彼女は満足げに目を細めて微笑むと、舌舐めずりをした。
「うぅおあああぁぁぁーっ!!!」
レフティは走り続けて来たままで、魔獣に向けて突進した。
アリシアは、もう助からない。
彼女は死んだ。
その認識は今のレフティに存在しない。
拒絶では無く、一時的に忘れようとしているのでもなく、ただ目の前の敵への憎悪だけが、彼の心に塗り込められていく。
だだ漏れの殺気が近づいてくるのを魔獣も感じ取っていた。
獅子は顔をレフティに向けて、威嚇するように咆哮をあげる。
魔獣にとって大抵の敵は、それで一瞬でも怯むはずだった。
だがレフティは、なんら躊躇せずに一直線に向かってくる。
魔獣の蛇が彼の動きを止めるために、口を開けながら伸びて来た。
レフティの背中にあるはずの両手剣が消える。
次の瞬間に彼は剣を手にして構え、その剣身は血にまみれていた。
大蛇は大きく開いた上顎と下顎が更に離れて、胴体の途中までが裂けている。
蛇の痛みが魔獣に伝わり、女性が悲鳴をあげ、獅子が吼えた。
魔獣は、レフティがいる場所と岩を境にして反対側へ跳んで、草の覆い茂る地面へと降り立つ。
レフティは蛇を斬った勢いのまま岩の周囲を回り、魔獣の正面へと現れた。
魔獣は大きな右前足を上げると、レフティに向かって薙ぎ払うように振り切った。
その動きに合わせてレフティは、足首を斬り落とす為にカウンターを狙う。
彼の持つ両手剣と魔獣の足が激しくぶつかった瞬間に、何かが空中へと弾け飛んだ。
それは、衝撃で半分に折れた両手剣の切っ先だった。
レフティは魔獣の一撃で岩まで飛ばされる。
彼は、地面とほぼ垂直な岩肌に着地した。
その反動を利用して、斜め上に向かって跳ぶ。
放物線を描きながら落ちてくる、折れた剣の切っ先を空中で掴むと、魔獣に向かって投げつけた。
獅子が再び痛みの咆哮をあげる。
レフティが投げた剣の切っ先は、魔獣の女性の左目に突き刺さっていた。
落下の勢いを借りてレフティは、手にした折れている剣で右目をも狙う。
魔獣の女性は視えなくとも近づいてくる気配を感じ、自分の柔らかい弱点を両腕を交差してかばった。
大きな衝突音がした。
レフティの半分になった両手剣が再び折れる事は無かったが、魔獣の女性の腕も傷一つ付いていない。
女性の交差された腕に着地し、再び反動を利用して後方へ跳んだレフティだったが、魔獣は死骸となった蛇を振り、彼に向かって横殴りに叩きつけた。
弾き飛ばされたレフティは、今度は岩へと衝突してしまう。
折れた剣を杖代わりに立ち上がろうとしたが、途中で咳き込むと、赤黒い色で地面の草を染め上げてしまった。
魔獣は更に蛇の死骸を、本来の尻尾のようにレフティに向けて振るった。
上顎と下顎を引き裂かれ二股になった大蛇の成れの果てが、再びレフティを別の岩へと弾き飛ばす。
岩肌へ叩きつけられたレフティの手から、折れた剣がそのままの勢いで、後方へ飛ぶよう離れていった。
さらに吐血するレフティ。
霞んでいく視界の中で、ゆっくりと近づいてくる魔獣が見えた。
力を込めようとしても込められず、気を抜いた瞬間に肘から先の左腕が、岩に寄りかかるようにして倒れた。
その指先に触れる物がある。
それは上半身だけになって、頭を地面に着け、左腕を岩肌に預けていたアリシアの、天を向いた左手の指先だった。
アリシアにレフティと呼ばれた過去を想い出す。
その名前の由来は、彼女が彼を見つけた時に左手で握り返してきたから、という単純な理由だった事を、彼は子供の頃に聞いていた。
その時の自分は、なぜか喜んでいた事も……。
レフティは再び左腕に力を込めた。
まだ、死ぬわけにはいかないと思った。
せめてアリシアの仇を取るまでは……。
「これを使え!」
その時、遠い過去に聞いた覚えがあるような男の声が、レフティの耳に届いた。
それと同時に青白く輝く何かが、彼の目の前にある地面に突き刺さる。
それは片手剣だった。
レフティは左手一本で、それを握った。
左斜め上に持ち上げるように引き抜く。
高々と振り上げると、左手首を回した。
岩から離れるように身体を前に倒して、左手を振り下ろす。
近づいて来ていた魔獣の前足を剣身が通り過ぎた。
魔獣は更に歩みを進めようとしたが、右膝から下が付いてこなかった。
輪切りになった右足の切断面を、傷跡で塞がれている一つ目で反射的に見ようとして、獅子は首を傾ける。
すると、今度は左膝の辺りから滑るように太腿と脛が分かれて、魔獣の身体はやや左に傾きながら前方へ突っ伏した。
レフティは右斜め前に向けて前転をすると、魔獣の後ろ足も胴体の付け根から切断する。
獅子は腹を地面に着けて、咆哮をあげながら短くなってしまった四本の太腿をばたつかせた。
レフティは立ち上がると、死骸になった蛇も魔獣の胴体から斬り落とした。
根元の部分はまだ酷く暴れていたが、やがて止まって大蛇の頭部以外の場所も死骸と化す。
レフティは動けなくなった魔獣の胴体の上に乗ると、躊躇なく女性の後頭部を突き刺して捻った。
魔獣の女性の頭蓋骨は、木の枝を折るような音を鳴らしながら、その内側から割られたクルミの殻ように粉々になる。
脳と脊髄液が魔獣の獅子の背に撒き散らされた。
顎から上が無くなった魔獣の女性は、獅子の頭に覆い被さるように倒れ込む。
その女性の心臓と獅子の頭をレフティは、上から片手剣で串刺しにした。
もがくようにばたついていた魔獣の胴体が、しばらくして痙攣に変わり、そして動かなくなった。
その様子を確認し終えたのか、無意識なのか。
レフティは突き刺さったままの片手剣を引き抜かずに手を離すと、魔獣から降りて一つの岩のそばへと向かった。
倒れ込むように跪いて、片膝を地に、もう片膝を立ててアリシアの亡骸に触れる。
彼女の頭の位置を天に向けると、レフティは優しく抱き締めた。
「……名前でなんて、これから、いくらでも呼んでやるから……」
アリシアの最期の声は、レフティに届いていないはずだった。
しかし微かに震えていた唇と、今まで重ねてきた日々が、彼に彼女の言わんとした最期の言葉を伝えていた。
「アリシア……アリシア、アリシア、アリシア!」
アリシアは答えない。
「なあ? 俺たち、まだまだ、これからだった……これからだったはずだろう!?」
レフティはアリシアの頭を強く抱き締めて、泣いた。
彼の慟哭は滝の音と共に強く響き、それに合わせるかのように、風が草を揺らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます