エレナの闘い
「あれは、一体なんなの?」
少し
「私も
アリシアを木と我が身の間に挟むようにして庇いながら、エレナは自分の推測を小声で語った。
「魔獣? そんなのがどうして、こんな辺境の村にまで?」
「分からない。でも、あんな生き物は見た事が無い」
アリシアが脅えて見つめ、エレナが睨んでいる先、少し離れた位置に立派な
獅子の顔には牙が見え隠れする口が一つ、小さな穴が二つ空いている鼻が一つ、そして顔の上半分を覆うような巨大な
瞼には斜めに剣で斬られたような傷跡があり、開く事が出来ない様子だ。
獅子の
アリシアは震えつつも、エレナと対策を相談する為に魔獣を観察している。
「あいつ、目が見えないのかしら?」
エレナは獅子の胴体の上にある物を確認する。
「どうやら、そうみたい。あれは
獅子の腰の辺りから上に向けて、黒く長い髪をした大柄な女性の
女性の両目は瞼が開かれていたが、その真珠のように光る白銀の眼球には、
魔獣は二つの頭を左右に振りながら、何かを探り当てたいのか、一人と一頭の鼻を
エレナはアリシアの手を引き、大樹の裏に回り込んで魔獣から離れようと試みる。
だが、そうした瞬間に魔獣の獅子の部位が
エレナは慌てて元の位置に戻ると、魔獣は再び二人を見失ったかのようにキョロキョロし始めた。
「やっぱり、駄目かあ……」
エレナは先程から、こんな感じで魔獣からの逃亡を試みて、診療所へ戻ろうとしていたが、少しずつ押される感じで診療所からも、もちろん村からも遠ざけられていた。
アリシアがエレナに
「足音に反応しているのかしら?」
「どうだろう? 近くを流れる川と滝の水の落ちる音が聞こえて
エレナは焦っていた。
無茶はしたくはないが、このままでは
彼女は決断を
「アリシア、これから言う事を良く聞いて?」
アリシアは真剣な面持ちで頷いた。
エレナは、これから提案する事が大した事じゃないかのように、アリシアを安心させる為に微笑む。
「私が飛び出して
大きく開きかけたアリシアの口をエレナは、予想していたかのように左手で塞いだ。
エレナは自分の唇を閉じ、人差し指を立てて当てると、微笑んだままでアリシアを見つめる。
アリシアは横目で魔獣の方を見つめると、こくりと頷いた。
しかし、それはエレナが囮になる事を承諾したわけでは無い。
大きな声を出さないという意味の肯定だった。
エレナが塞いでいた左手を外すと、アリシアは小さな声で説得を始める。
「無茶よ、獅子の走る速度から逃げられるわけないわ」
アリシアは獅子の持つ太くて丈夫そうな四本の足を見つめながら呟いた。
そう言われると思っていたのか、エレナは予め用意していたかのように反論する。
「大丈夫、森の中に入りさえすれば、あの巨体じゃ木々が邪魔をして、私に追いつけっこ無い」
「でも……」
エレナは少しだけ
「このままじゃ、いずれ二人とも襲われてお
アリシアは尚も承服しかねる表情をしていたが、エレナの提案より良い作戦が思いつかなかった。
時間が無いのは明らかなので、アリシアはエレナに従う事に決める。
「分かったわ」
決めたからには迷いを振り払う。
エレナはアリシアの覚悟を決めた瞳を見て、頼もしく感じた。
後は自分次第だと考えて、エレナは飛び出す準備をする。
彼女は右手で片手剣の柄を握ると、鞘から静かに抜いた。
そして左手を地面に置いて身体を支え、前傾姿勢のままゆっくりと腰を上げる。
右足を木の根が露出している部分に掛けて、膝を地面から離す。
すうっと大きく息を吸うと、そのまま呼吸を止めて……。
「ハッ!」
エレナは気合いの入った掛け声と共に、右足が木の根を蹴る反動を利用して飛び出した。
彼女から見て魔獣の右側は崖になっていたが、迷わずそちらへ向かって全速力で走った。
左側だと開け過ぎていて、森の入り口が少し遠かったためだ。
魔獣と崖の間には充分に抜けられそうな距離があった。
エレナは崖の側を魔獣を迂回しながら駆け抜けようとする。
魔獣はエレナを追いかけるように身体の向きを変えたが、その動作は非常に緩慢だった。
しかしエレナは油断せず、魔獣の動きを横目で観察している。
案の定、彼女に向かって獅子の尾が勢いよく振るわれた。
エレナは高速で自分に向かってくる獅子の尾の動きを見切る。
さらに深く前傾姿勢を取ると、自分の目の前で横一線に広がる魔獣の尾を掻い潜った。
丸太のように太い、白くて毛に覆われていない尻尾が、彼女の頭上を通過する。
その先に広がる森を見て、エレナは魔獣の脇を突破できた事に僅かながらも安堵した。
「えっ!?」
直後、彼女は左足首を何者かに掴まれて、後方に引っ張られた。
エレナの視界が回転し、空へと舞い上がるような浮遊感と共に、地面が離れていく。
そして彼女は、足首を拘束されつつ、高く持ち上げられた後に地面へと顔面から叩きつけられた。
エレナには何が起きたのか分からなかった。
激痛の中で、それでも地面に両手を着いて、本能が危機を感じ取り、起き上がろうとする。
ぼんやりと霞む彼女の視界の先にある地面は、真っ赤に染まっていた。
アリシアの顔は恐怖一色に染まって、身体はガタガタと震えている。
エレナは後ろを振り返り、特に酷く痛みを感じる左足首を見た。
彼女が魔獣の尻尾だと思っていた物。
その獅子の身体に似つかわしくない、無毛で白くて丸太のように太く、井戸に使う縄のように長い尻尾。
その先がエレナの左足首に噛み付いていた。
彼女は無意識で、その蛇の頭に向かって片手剣を突き刺そうとする。
その瞬間に獅子の左前足が、彼女の背を踏みつけた。
「あがっあっはうああああああああっ!!」
エレナの肋骨に容易くひびが入った。
勝ち誇ったように獅子が吠えると、その胴体から尻尾のように生えていた目の無い蛇は、口を開いてエレナの足を解放する。
その様子をぼんやりと眺めていた彼女だったが、獅子の後ろ足の間から蛇に似た別の影が、伸びてくるのが見えてきた。
だらりと垂れ下がっていたそれは、ゆっくりとエレナを指し示すように持ち上がってくる。
獅子の腰から上にいる人間の女性には、無いはずの物。
だが、たてがみを持つオスであるなら、持っていてもおかしくはない物。
「いや……いやああああああああああぁっ!!」
エレナは、その影の正体が何であるのか理解すると、半狂乱になって暴れ出した。
しかし上から巨大な片足で背中を強く押さえつけられているために、手足をジタバタと動かす以外の事が出来なかった。
「いやっ! いやっ! いやっ! いやあっ!」
エレナは、かろうじて握っていた片手剣で獅子の片足を突き刺し続ける。
だが、切っ先と魔獣の皮膚の衝突する鈍い音が木霊するだけだった。
パキイィッン!
少し高めの金属音が響くと、エレナの片手剣が半分に折れてしまっていた。
「ああっ! 離せっ! 離せっ! 離せえぇっ!」
片手剣が折れてしまった事実にすら気付かずに、彼女は役に立たなくなった半身の剣で、必死に魔獣の足を突きまくっていた。
彼女の剣を持つ手がある右肩に蛇がくらいつく。
「うわああああっ!!」
鋭い二本の牙が容易く彼女の筋肉を突き破り骨を砕いた。
堪らずにエレナは、剣を落としてしまう。
「う……あ……?」
その刺さった二本の牙の先から、何か流し込まれている感触がエレナを襲う。
痛みが和らぐと同時に、意識が朦朧としてきた。
「や……いや……死に……ない」
急速に狭くなっていく視界のせいで、エレナは死の恐怖に包まれていくように感じていた。
彼女は逃れようとするかのように、両手の爪で地面をかき始める。
生爪が剥がれ落ちたが、その痛みの感覚すら薄くなっていた。
霞んでいく視界の中に女性の影が見えた。
それは、アリシアだった。
「たす、け、おね、い、た、すけ、ね、た、け」
震えるエレナの唇が、アリシアに助けを求める。
エレナの瞳の焦点が定まっていなかった事は、二人の友情にとって幸運だと言っていいのかも知れない。
アリシアは涙を流し戦慄きながら、首を横に振り続け、傷だらけの親友が意識を失っていくのを、ただ黙って見届けているだけしかできなかった。
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