逃げ惑う女

 まるで、地底に住むドラゴンの通り道ではないか、と思える程の巨大な洞窟を一人の女性が走っていた。


 白く長い髪をなびかせている彼女の両腕には、胸に寄せるように二人の赤ん坊が、左右に一人ずつ抱かれている。

 それぞれが、おくるみの白い布に全身を覆われていた。

 右腕の赤ん坊は、燃えるような赤い髪をしている。

 その子は何かを恐れているのか、それとも女性が走る振動に揺さぶられるのが嫌なのか、大きく声をあげて泣いていた。

 もう一人の赤ん坊は、輝くような白髪だった。

 対照的なのは髪の色だけでなく、すやすやと揺りかごの中にでもいるかのように眠っている。

 まぶたを閉じている赤ん坊は、三日月の形をした金色のペンダントを身に付けていた。


 女性は、二人の赤子を抱えつつも風のように軽やかに走っている。

 とても、そのような力の持ち主とは思えないほど美しく、均整のとれた容姿をしていた。


 彼女の遥か後方から何か複数の足音が響いてきた。

 その足声が聞こえたのか、泣いていた赤ん坊の声が一段と大きくなってしまう。

 しかし女性は、泣いている赤子を邪険にするような眼差しにはならなかった。

 むしろ、慈しむような瞳で見つめながら走り続ける。

 だが微笑みもせず、その表情は焦りと決意が混ざった複雑なものだった。


 元より巨大とはいえ一本道の洞窟である。

 泣いている赤ん坊の声を聞きつけて、足音が近づいて来ているわけでは無かった。

 女性は、わずかな間だけ後ろを振り向く。

 まだ音だけで、姿までは見えなかった。

 もちろん彼女は足音のぬし達に関して、身に覚えがある。

 彼らは彼女に対する追手だった。


 女性の進む方向の先から大きな水の流れる音がする。

 その音が大きくなるにつれて、彼女の顔に迷いが浮かぶ。

 しかし前に進む以外の選択肢は、彼女に残されていなかった。

 自分の行方を照らしてくれていた友人も、彼女に襲いかかる脅威を排除してくれる恋人も、もういない。

 この先に何が待ち受けようとも、針の穴の大きさ程度の逃げ道しか存在しなくても、自分は捕まるわけにはいかない。

 彼女は両腕の重みを確かめるように強く抱きしめると、表情を決意だけに染めて加速した。


 しかし、現実は針の穴ほどの可能性すら残してはくれなかった。


 巨大な洞窟を輪切りにするかのような大瀑布だいばくふ

 断崖絶壁だんがいぜっぺきすべり落ちる大きな滝を内側の横穴から見ているように、洞窟の壁の下も上も左右の端すらも、ぴったりと急激な水流のカーテンによってふさがれていた。

 水は不思議な事に下から上へと向けて、重力に逆らうように流れている。

 彼女は、昇っていく水の壁の行き先を見上げながら、絶望を塗り込まれた顔をして、膝を地面に屈する。


 やがて、行き止まりに追い詰められた彼女の元へ、足音達が近づいてきた。

 彼女はおびえつつも振り返る。

 まだ少し遠い位置に複数の人型が見えた。

 女性は二人の赤ん坊達を交互に見つめる。

 彼女の頭の中では、これから起こるであろう事の予測と対策が駆け巡っていた。

 そして、何かを決断し終えた顔になると、白髪の赤子からペンダントを外し、赤髪の方へと掛け直した。

 さらに髪が見えなくなるように、お包みのはしを引っ張って頭を隠す。


 足音達が彼女のそばで止まる。


 その中から一人、さらに一歩だけ彼女の前へと出てきた。

 白いマント、白い服、白い手袋、白いブーツ、そして頭全体を覆うような白い円筒形のフルヘルム。

 全身白づくめの人の形をした何かは、右手を差し出して彼女に伝える。


「返して貰おうか?」


 女性は、ゆっくり立ち上がると右手を伸ばす。

 右腕は震えていたが、それは赤ん坊の重みのせいでは無いのだろう。

 彼女は、苦渋に満ちた表情で相手に向けて、赤ん坊を差し出す。

 白づくめは自分の前に来た赤ん坊を大事そうに、白い手袋で覆われた両手で、しっかりと受け取った。

 そして左腕で抱えながら、右手でペンダントを確認して頷く。

 そのヘルムの下の表情は見えないが、満足気な雰囲気が所作に現れていた。

 白づくめはフルヘルムの僅かな隙間を、今度は女性へと向ける。


「大人しく、ついて来て貰おうか?」


 女性は、もう一人の赤ん坊を抱えながら後ずさった。

 白づくめの質問に対して、質問で返す。


「この子は、どうなるの?」


「『今回の逃亡の罰として見せしめに殺せ』との命令を受けている」


 白づくめは質問の答えを事務的に女性に告げた。


 女性の顔から血の気が引いていく。

 予想はしていた。

 だから、こうした。

 しかし……。


 今のところ、事態は女性の予想通りに進んでいた。

 しかし、ここから先の事は彼女にも分からない。

 それでも……。


 女性は意を決して、もう一人の赤ん坊を強く抱きしめたままで後ろへ向かって跳んだ。


 流石にそんな事はしないだろうと、たかくくっていた白づくめは、慌てて女性に向かって右手を伸ばす。


 しかし、その手が届く前に彼女は水の壁の中へと入り、激流と共に上へと去って行った。


 白づくめは右手でくうを握りしめ呟く。


「愚かな……」

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