月喰いの夜

 天使による魔神討伐から二年ほど経った、ある満月の夜。


 一台の馬車が、地獄への入り口とされていて、標高が高い上に長い年月に渡って噴火した記録の存在しない、そんな火山のふもとにある街道を走っていた。

 ここ最近の街道の周囲には、魔獣どころか魔物の影も形も無く、魔者の残党も世界の何処いずこかへと散っている。


 安全ではないが、以前ほど危険でもない。

 そのような道を走る馬車の中から、陽気な酔っ払いの声が外へと漏れ響いていた。


「かくて魔神と魔天使どもは倒され、人々の元へ自由が舞い降りたわけだ!」


 馬車の中では、二人の男達が対面で座っていた。

 後部座席にいる一人は、酒に呑まれた様子で顔を赤くしながら上機嫌に喋っている。

 彼は目立ちはしないが、質素から程遠い贅沢な生地で仕立てられた服を着ていた。

 やや恰幅かっぷくが良く、席の隣に大きな鞄を大事そうに置いている所を見ると、男は何らかの商人であるようだ。


「大きな商談がまとまって、機嫌がいいのは結構だが……旦那、その話は耳タコですよ」


 辟易へきえきしている様子を隠すこともなく、嫌そうな表情をしながら対面の男が答えた。

 こちらの風体ふうていは剣士のようだ。

 動きやすい様に軽装だが、金属製の胸当てや手甲、膝当てを身に着けている。

 腰には、かなり高価そうな装飾の片手剣を帯びていた。

 商人を旦那と呼んでいる事から、どうやら彼の護衛を務めている雇われのようだ。


 商人は護衛を指差し、前のめりになって笑顔を作る。


「何を言う。我々は、天使様率いる英雄達に感謝してもし足りないのだよ。だから、なんど話しても良いのだ」


 そして座席に深く座り直すと、まぶたを閉じて人差し指を立てた。


「魔神討伐の為に『神光の剣』をたずさえ降臨なされし乙女、天使サルヴァティア様。魔神の元配下で、サルヴァティア様にさとされ協力してくれた、裏切りの魔天使シュオ様。そして、この世に斬れぬ物は無いとうたわれた魔剣の使い手、戦士ルグナデヴォル殿」


 商人は、まるで劇場の舞台にでも立ったかのような手つきで、胸を右手で抑えて左手を斜め上に高く挙げる。


「彼らが魔神討伐をしたからこそ、我々は生を謳歌おうかできるのだよ!」

「まるで、見てきたかのようにおっしゃりますねぇ?」


 剣士は口の端を吊り上げ、冷ややかに笑った。

 商人は目を大きく開けて、誇らしげに微笑む。


「見たさ! もちろん、実際に魔神を討伐なされた所では無く、街に立ち寄った英雄達を遠巻きにだがね」

「へえ……どんな方々だったんですかい?」

「サルヴァティア様は、まるで獅子のようだった。激しく燃える篝火かがりびのような、勇ましく情熱的な髪をなびかせていたよ」


 商人は子供のような表情で、在りし日の光景を想い出していた。


「シュオ様は、腰にまで届いている程の長く美しい銀色の髪をお持ちだったなあ……」


 商人は遠い目をしつつ、窓の外を見る。

 その時、満月の光に照らされて銀色に輝く何かを目にした。


「そうそう、丁度あんな感じの……」


 商人は驚いた表情で大きく目を見開き、御者に指示を出す。


「おい! 停めてくれ!」


 御者は指示に従い、馬車を停めようとする。

 彼も何かに気付いたのか、商人の意図を理解して馬車をそれの近くへと寄せる。

 商人は街道の端に停車した馬車の扉を開けると、慌てるように外へ駆け出した。

 川の水の激しく流れている音が聞こえてくる。

 この地点は街道の近くに、大きな川が存在していた。

 商人は駆け足のまま河原に踏み入る。

 その何かの近くに来ると、ゆっくりとひざをついた。


 それは、白く長い髪をした美しい女性だった。

 月明かりの下で白髪が、銀のように輝いている。


 商人は、女性の胸に自分の耳を当てようとして躊躇ためらう。

 後から走ってきた護衛が、女性の手首を取ってみゃくはかった。

 次に、彼女の鼻の前へと耳を寄せる。


「かすかに息もしている。気を失っているだけですね」


 その報告を聞き、商人はホッと胸を撫で下ろす。


「旦那……まさか、この女性が?」


 護衛の質問に商人はハッとして、改めて女性の顔を見つめる。


「……似ている、シュオ様に……だが、まさか、そんな……」


 護衛は川の上流を睨んで尋ねる。


「でも、この川は英雄達が入ったと言われる、地獄への入り口とされた地下迷宮ダンジョンのある、その山の洞窟から流れ出てきていますよ?」


 護衛の剣士は、さらに商人に追加の質問を投げかける。


「魔神に支配されていた時代なんかは、時折ときおり魔獣の死骸しがいすら流れてきたとか……そんな場所から普通の人間が、流されて来ますかね?」


 その質問に商人は答えられず、女性を見つめたまま押し黙ってしまう。


 商人は女性の濡れた服を見て考える。

 彼女がシュオかどうか確認する方法はあったが、はずかしめに近いやり方になるので、実行するのは不敬ふけいにあたる。


 それに、もし仮に、この女性が裏切りの魔天使だとすれば、実際の魔王討伐の成否は……。


 商人は、それを有り得ないと思いたかった。

 現に魔天使どもは、英雄達が地下迷宮に赴いてから、だだの一体も地上に姿を現していない。

 だが、入り口付近の浅い階層では、未だに魔物の数が多く、並みの兵士や冒険者を寄せ付けないでいる。

 また各地方には、まだまだはぐれた魔者や魔獣が存在していて、人々に危害を加えている。

 もっとも、だからこそ彼の今回の商談が上手くいったわけだが……。


 固まってしまった商人の考えが纏まるまでの間に、護衛は辺りを見回した。

 すると、少し離れた場所に丸まった白い布を見つける。

 護衛は、それが何かを確認する為に立ち上がると、近づいて行った。

 商人も彼の行き先を目で追う。


「こいつは……」


 護衛の呟きが商人に聞こえてきた。

 商人も立ち上がると、護衛のいる場所に向かって歩き始める。

 やがて彼が目にした光景は、護衛によって白い布を拡げられ肌着だけになった赤ん坊と、その胸に耳を当てている剣士の姿だった。


「旦那、この子は駄目だ。もう、死んでいる」


 護衛は心臓の鼓動が聞こえない事を確認すると、赤ん坊の冷たくなった手を取って、そう言った。

 赤ん坊は女性の髪の色と良く似た、白っぽい輝くような毛髪をしている。

 それを見た商人は、安堵あんどの溜息を漏らした。


「旦那?」


 なぜか安心したような表情の雇い主を怪訝けげんそうに見る護衛。


「あ……いや、すまない。シュオ様は、人間のように見えて魔天使だ。人間の赤ん坊をお産みになるとは考えにくい」


「つまり、あの女性はシュオ様とかいう御仁ごじんじゃねえ、と?」


 護衛と商人は、同時に赤ん坊を見つめた。


「ああ、魔天使は人間の女性を襲ってはらませるが、産まれてくるのは必ずと言っていいほど魔獣だ」


「けれど、そりゃ男の魔天使が相手に産ませる場合でしょう? 女の魔天使が産む場合は、違ったりしやせんか?」


「それは、なんとも……なにせ女性の魔天使など、シュオ様ただ御一人だと言われているからなあ」


「それに、この赤ん坊がシュオ様とやらの子供じゃない可能性だってあるでしょう?」


 護衛にかれた商人は、確認するように赤ん坊を見つめ直した。


「いや、髪の色が一緒だろう? 少なくとも、この二人が親子関係にあるのは間違いない」


「髪の色ねえ……」


 護衛は、赤ん坊の頭頂部にある毛髪を横目で不審げに眺める。


「ま、言われてみれば、そんな気もしますがねぇ」


 その時、二人の背後からうめき声が聞こえてきた。

 振り返ると、女性が意識を取り戻しかけている。


「旦那、結局は本人に訊いてみるのが、一番手っ取り早いでしょうよ」


 護衛の提案に商人も頷くと、再び女性の近くへと戻って来た。

 女性は呻きながら苦しそうに眉根まゆねを寄せて顔をしかめると、やがて瞼をゆっくりと開いていった。

 護衛は優しく彼女に話しかける。


「気がつかれやしたかい?」


 女性は視線を護衛の剣士に向けると、自分を挟んで向かい側にもう一人いる気配を感じた。

 そちらの方、商人に向けて瞳が動く。


「どこか身体に痛む箇所かしょはありますか?」


 商人の問い掛けに女性は、ふるふると首を横に振った。

 商人は緊張した面持おももちで彼女に尋ねる。


「失礼ですが、貴女あなたのお名前は?」


「名前……?」


 その質問に対して女性は考える。

 しばらくすると、徐々に彼女の表情が強張こわばってきた。


「私の名前……私の……」


 女性の様子に、護衛の剣士と商人は顔を見合わせる。

 護衛は女性の背中に左手を回して、ゆっくり上半身だけ起こした後で尋ねる。


「もしかして、名前を覚えていないんですかい?」


 女性は、唇を震わせながら答える。


「名前だけではありません……なにも……なにも思い出せない……」


 それだけ呟くと、彼女はうつむきつつ頭が痛むかのように両手で抱えて、目を見開いたまま顔をしかめた。

 商人は女性の頭の上に、そっと手を置く。


「今は、何も考えないで頭を休めた方がいい。時間が経てば自然に思い出すかもしれん。とにかく、夜なのに女性一人でこんな場所にいるのは危険だ。近くに私の馬車があるから、取り敢えずそれにお乗りなさい」


 商人の提案に女性は、彼の方を見て申し訳なさそうに微笑むと、ゆっくりと頷いた。

 彼女は、二人の男性に腕を支えられながら立ち上がると、歩いて馬車へと案内された。

 女性が馬車の中に入るのを手伝い、座席に着くのを確認した商人と護衛の剣士は、扉を閉めると相談を始める。


「どうしやす?」


「『どうしやす?』って、一晩は私の屋敷に連れて行って泊めるしか無いだろう? 落ち着いたら記憶を取り戻せるように、詳しく事情を尋ねるとか……」


 察しの悪い雇い主の為に、護衛は声をひそめて言う。


「赤ん坊のことでさあ」


 商人は右拳みぎこぶし左掌ひだりてのひらを打った。

 護衛は眉間みけんしわを寄せる。


 二人は馬車の中の女性を一度だけ見た。

 女性は疲れきった表情と焦点の定まらない瞳で、虚空こくうを見つめていた。

 二人は少しだけ馬車から離れる。


「赤ん坊の存在すら思い出せないみたいじゃねえですか」


「そうだな」


「見せれば何もかも思い出すんじゃねぇんですかい?」


 商人は、恐ろしい事を平気で言う男だな、といった顔で護衛を見た。

 そして、だが一理ある、といった表情で考え込む。


「……いや、それは駄目だ。きっと、どこか近くの村か町で生活に困った挙句あげくに、この川に赤ん坊を抱いたまま飛び込んで、無理心中を図ったんだろう」


 商人は激流に視線を向けて、哀しそうな顔つきになる。


「自分だけ助かっただなんて分かったら……彼女が可哀想だ」


「時が経ち過ぎて思い出したら、かえってつらくなりやせんかね?」


「だが、その頃までに身体の方だけでも元気になれれば、気持ちの方も立ち直りが早いかも知れない」


 護衛は、なるほどな、と思いつつ、心優しい主人あるじの意向に沿う事を心の中で決めた。

 それと同時に、残されている問題をどうするかについて尋ねてみる。


「赤ん坊の遺体は、どうやって運びやす? 馬車に彼女の目から隠せるような場所は、ありやせんぜ?」


 商人は少しだけ考え込むと、子供が親におねだりするような目つきで、護衛の剣士を上目遣いに見つめてきた。

 護衛は嫌な予感がし、そしてそれは的中する。


「後で回収しに、ここへ戻ってくれないか?」


「はあぁーっ!?」


 護衛は、開いた口がふさがらなかった。

 彼の雇い主は、一時的にしろ赤ん坊の遺体を置き去りにしろと言うのだ。

 どうやら主人が優しいのは、女性にだけらしい。

 赤ん坊も女の子かも知れないが、雇い主の保護欲求の対象には成り得なかったようだ。


「赤ん坊は、ちゃんととむらって墓も建てる。もちろん彼女には気付かれないように、そして記憶が戻ったらキチンと説明できるように、な?」


 な? じゃねーよ、と思いつつも、雇われの剣士にとって主人の命令は基本的に絶対であり、それが実行可能であるなら断われる立場などでは無かった。


「これから屋敷に帰ってからだと、どんなに急いでも明日の昼前くらいにここに戻る事になりますが、それでいいんですかい?」


「仕方がないな。赤ん坊には申し訳ないが、それで頼む」


 即答する商人に向けて、護衛は溜め息を一つだけくと、赤ん坊の方へと身体を向けた。


「野犬に喰われたら可哀想だ。赤ん坊は軽く埋めてきやすんで、先に馬車に乗って少し待っててくだせえ」


「時間が掛かるんじゃないか?」


「なに、こいつなら地面だって簡単にえぐれますよ」


 商人の質問に護衛は、振り向いて軽く微笑み、腰の片手剣の美しいさやをぽんぽんと叩きながら答えた。

 商人は少しだけ嫌そうな顔をしたが、仕方がないといった風に肩をすくめる。


「しょうがないか……だけど、今回の商談の大事な商材なんだ。まだ試作段階なんだから、丁寧に扱ってくれよ?」


「へいへい」


 護衛の剣士は生返事をすると、赤ん坊に向かって歩き出す。

 独り言を呟きながら……。


「それにしても魔導錬金術のすいを集めた、この『神光の剣』の複製品レプリカの初仕事が、赤ん坊の墓穴掘りとはね……」


 赤ん坊の側まで来た剣士は、片手剣を鞘から抜いた。

 満月の光を受け、剣身が青白く輝く。

 赤ん坊の隣の地面に向けて剣が振るわれると、まるでテーブルナイフを使ってパンケーキでも切るかのように、土が取り払われた。


「大したもんだ」


 護衛の剣士はその剣の力に魅せられた、少しだけ邪悪な笑みを浮かべた。


 真面目な表情に戻ると剣を鞘に納め、赤ん坊を白い布でくるみ直すと、そっと抱いて穴の中へと静かに横たえる。

 土をかぶせて、野犬などに掘り返されないように、目印になるようなゴツゴツした大きな石を乗せた。

 その石の表面が少しだけかげる。


 護衛の剣士が空を見上げると、まん丸だったはずの月が少しづつ欠け始めていた。


「今夜は月喰いの夜だったのか」


 周囲が暗くなり、黒い円が満月を覆い隠し始めると、彼の心に不安が訪れて来る。

 現金なものだと、剣士は自嘲じちょうした。

 魔神が支配していた頃、満月は恐怖の象徴だった。

 魔の眷属けんぞくの多くは、満月の夜にこそ一番強い力を発揮できるからだ。

 だが脅威さえ無くなれば、やはり人間は闇より光を欲するらしい。


 護衛の剣士は、石の置かれた地面の下で眠る赤ん坊に向けて、片手を立てて拝んだ。


「明日、俺が迎えに来るまで、辛抱してくれよ?」


 そして、駆け足で馬車の方へと戻る。


 やがて、石から遠い場所より馬のいななきが聞こえてくると、車輪とひづめの地面に当たる音が連続して辺りに響いた。


 それらの音も次第に小さくなっていくと、石の周りには川からの激流の音しか聞こえない。


 いや……。


 かすかに鼓動の音がする。


 そして石はくだけ散り、赤ん坊の左拳ひだりこぶしが地面より突き出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る