第3話 愛の手料理(強制)

 仕様書を見る。キーボードをたたく。

 仕様書を見る。キーボードをたたく。

 仕様書を見返す。キーボードをたたき続ける。

 ブルーライトカット用の眼鏡がずりおちそうになるのを右手で直したとき、俺はふと正気に戻った。

「あれ!? いつの間にここに!?」

 ついさっきまで仮眠室で寝ていたはずなのに、いつの間にか自分のPCの前にいるという事実がすぐには呑み込めず、俺は手を止めて呆然とする。向かいのデスクに座る熊崎がキーボードをたたく手を止めないまま、答えをくれた。

「何言ってんだ、もう三時間以上前に来て作業してただろう」

「三時間……」

 ぼんやりと画面上の時計に目をやる。三時二十五分。本当に時間が経っている。

「仮眠室にいたときからきおくがとんでる」

「そうか……無意識のうちに仕事をするだなんて、社畜ここに極まれりって感じだな……」

 熊崎から哀れみの目を向けられ、俺は画面に映る自分へと視線をそらした。なんで仮眠室に行ったんだっけ、そうだ今日は悪夢を見て早く出社しちゃったからそれで。ぐるぐると思考は巡り、思い出してしまったのは仮眠室で見たあの奇妙な男性のこと。

「うぅ……」

 大きく悲鳴を上げることもできないまま、俺は両手で顔を隠す。

 首から下は普通のサラリーマン。首から上は謎の霧。変な夢といい、今朝の生首といい、霊感なんてないのにどうしてこんなことに。

「うぐぅー……」

 もし、あれが現実だとするなら、記憶が飛んでるのってもしかしてあんなものを見たショックをなかったことにする脳の防衛本能なんじゃないだろうか。

 ほら、トラウマを封印するとか、そういう。

 多分それだ。でもだったら封印するならちゃんと封印してくれ。思い出しちゃってるじゃないか。しっかりしろ防衛本能。

「うなってないで作業に戻れって。この量なら下手すれば、今日は定時に上がれるかもしれないぞ」

「て、定時……!」

 定時。なんて甘美な響き。

 俺はひとまず妙な出来事を思考から追い出して、無心で手を動かすことにした。

 夢だ夢。あんなものはただの白昼夢だ。本当に疲れてるんだなあ俺。


 奇跡が起こり、本当に定時には俺の作業は終わっていた。同僚たちはまだ作業を続けていたが、どうやら皆、もう一時間も粘れば終われそうらしい。

 快く送り出してくれる皆の厚意に甘えて、俺はすがすがしい気分で会社を後にした。

 外はもうぼんやりと薄暗くなっている。街灯の明かりを通り過ぎ、軽い足取りで足を踏み入れたのはアパートへの近道である公園だ。

 今日はいい日だなあ。なんだか朝に幻覚を見たり、昼に幻覚を見たりしたけれど、早めに帰ってごはんを食べてゆっくり眠れば回復するはずだ。

 歩きなれた海辺のテラスを行きながら、肌寒くなってきた風に身を縮こまらせる。

 テラスのあるこの公園には、かなり気は早いがクリスマスにむけて電飾がまたたいており、いつの間にか口ずさんでしまっていた鼻歌をその空気の中に溶け込ませていった。

「ふんふーんふん」

 調子はずれな歌は誰にも聞かれることなく、海の向こうに消えていく。俺は欄干をつかんで夜風を背中から受けた。

「晩ごはん何にしようかなあ」

 最近は不摂生が続いていて、まともな食事を食べた記憶は遠い彼方だ。昨日の飲み会の一件は記憶が飛んでいるので数えないものとする。

 まだこの時間ならスーパーもやっているはずだし、コンビニにも揚げたてのチキンが並んでいるかもしれない。

 でもそうだな、もう少しだけ待てば割引シールが貼られるだろうから、一度家に帰ってからスーパーに行こう。そうしよう。

 俺は欄干から手を離すと、誰も聞いていないのをいいことに、昔流行ったアニソンを口ずさみながら自宅に向かって歩き始めた。


 ものの十分で、自宅であるボロアパートへとたどり着く。立地はそこそこいいのだが、あまりのボロさに家賃が異様に安い物件だ。

 いつもよりは足取り軽く三階へと上がり、ドアにカギを差し込む。だが、なぜかカギがかちゃりと開く感触がしなかった。

「へ?」

 嫌な予感がしてドアノブをひねってみる。するとドアはすんなりと開き、その向こう側から、あたたかな蛍光灯の光が漏れてきた。

 まさか、泥棒!? 空き巣!?

 足をがくがくと震わせながら、一歩後ずさろうとする。

 見つかったら口封じに殺されてしまうかもしれない。とにかく、ここから離れて警察に電話しないと!

 しかし閉まりかけたそのドアを、内側から押し開けてくる人物がいた。

「あ、おかえり! 鮎喰あくいくん!」

 当然のようにそこにいたイケメンの生首は、満面の笑みで俺を迎えてきた。

「あひゅぅ…………」

 その顔面を見た瞬間全身から力が抜けて、俺は玄関先に卒倒した。



「……くい、あくい、鮎喰!」

「ひゃぁい!」

 耳元から聞こえた大声に、俺は思わず目を開けて返事をしてしまう。目の前では見知った人物がこちらを覗き込んでいた。

「はれ、大須賀?」

 目を丸くして尋ねると大須賀は心底安心したとでも言いたそうな顔で大きく息を吐いた。

「なんでここに」

「何ってお前、無言電話かけてきただろ」

「へ?」

 ほら、そこにあるだろ、と指さされた先には確かに自分のスマホが転がっていた。

「いくら電話に話しかけても返事ないし、心配になって来てやったんだよ」

 何が何だかわからないが、いや、何があったのかは理解したくないが、どうやら自分は気絶していたらしい。

 自宅の玄関先で倒れてしまっていた体を起こし、きょろきょろとあたりを見回す。怪しいものは何もない。倒れる前に何かを見た気はしたが、きっと気のせいだ。気のせいに決まっている。

「まあ生きててよかったよ。熊崎さんの帰りを待たずに来て正解だった。感謝しろよ」

 しれっと恩着せがましいことを言ってくる。常日頃から熊崎にストーカーじみた行為をしているだけのくせに偉そうに。

 そんな言葉を飲み込んで、俺は素直にうなずくことにした。

「うんありがとう、大須賀」

「友達だから当然だって」

「ん? 友達?」

 素で聞き返してしまう。大須賀は一瞬固まった後、俺の両肩をつかんで揺さぶってきた。

「待てお前俺のこと友達だと思ってなかったのかおい何だと思ってたんだコラ」

「会うたびに俺のこと振り回してくる迷惑な同期」

「否定できない……!」

 つい昨日飲み会に引きずられていった恨みはさすがにまだ忘れていない。

 頭を抱えて大げさにショックをアピールしてくる大須賀を無視して立ち上がる。地面に打ち付けたらしい頭がガンガンと痛んだ。

「いたた……」

「大丈夫か? 病院行くか?」

「多分だいじょうぶ……」

 確かに痛いが我慢できないほどではない。だから行くとしたら頭の病院だろう。心の病的な意味で。

「空き巣に殴られでもしたのか? 部屋のドア開いてるし」

「ううん、そうじゃないと思うんだけど……」

 二人して部屋の中をおそるおそる覗き込む。狭い部屋だ。キッチンと寝室の間の引き戸も開いているし、部屋の奥まで簡単に見通せる。

「誰もいないよな」

「うん……」

 靴を脱いで、そろそろと部屋の中に入っていく。数歩歩いてキッチンの前を通り過ぎようとしたとき、いい匂いが鼻をくすぐった。

 大須賀もそれに気づいたようで、キッチンへと歩み寄って、鍋の中身を覗き込んだ。

 そこに入っていたのはまだ湯気が立っている肉じゃがだった。量はそんなに多くなく、大体二人分ぐらいだろう。

「すごいな、お前が作ったのか?」

 部屋のほうを覗き込むと、散らかっていたはずのちゃぶ台の上がきれいに片づけられ、そこには味噌汁や白米、ほうれん草の小皿も乗っている。

 俺がこんなものを作れるはずがない。そもそもうちにはこんなきれいに盛り付けができる器なんてないはずだし、鍋だって一つしかなかったはずだ。

「誰がこんなこと……」

「あっ、おかえり鮎喰くん! そろそろ帰ってくると思って晩ごはん作っておいたよ!」

 突然のイケメンだった。イケメンの頭部だった。

「ひぇぅ……」

 どこからかすっ飛んできたそれを目の前に、俺は腰を抜かしてへたり込む。大須賀が慌てた様子で俺の肩を揺すった。

「お、おい鮎喰どうした!」

「なんでそろそろ帰ってくるってわかったって? それは愛のパワーだよ! こうピーンっと愛の電波が飛んできたんだ! なーんて嘘嘘! 僕の顔見て鮎喰くんが気絶しちゃったからさ、僕が大須賀のこと呼んだんだ! 残念だけど君には直接触れないから……」

「大須賀、お化けが……お化けが!!」

 中腰になった大須賀に抱きつき、宙に浮かぶ生首を指さす。大須賀は俺と指さした先を何度も見比べる。生首は舌打ちをした。

「は? 誰の許可得て鮎喰くんにすがられてるの。ぽっと出の同期ごときが生意気なんだけど」

「助けて大須賀! お化けがにらんでくる!」

 彼のスーツをしわができるほど握りしめ、片手で生首を指し続ける。大須賀は困惑の顔から急に落ち着いたらしく、俺の前にしゃがみこんで俺と視線を合わせてきた。

「落ち着け鮎喰。そこには何もいないし、誰もお前を睨んでない」

「だってあそこに確かに!」

「そうだよ僕がにらんでるのは鮎喰くんじゃなくてそこの虫けらだから!」

「ひぃぃぃぃぃ!」

 生首から顔を背けて大須賀に体を寄せる。背後から不穏な声が聞こえた。

「むぅーーー……」

 恐々と振り返ってみると、そこにはムスッと唇を尖らせたイケメンの生首の姿があった。

 これは明らかに拗ねている。何に? もしかしてこの状況に?

「ずるい! ずるいずるい! 体がないから僕にはそんなことしてもらえないのに!」

 大須賀に対して生首はしばらく食って掛かっていたが、大須賀はどうやらそれを知覚できていないようだ。無視され続けた生首は怒りが臨界点に達したのだろう。急に俺たちから離れると、大須賀の側頭部めがけて急加速した。

「死ねーーーーーッ!」

「大須賀ーー!」

 生首による頭突きのせいで大須賀の意識は刈り取られたらしい。彼は派手な音を立てて床に倒れ伏した。

「お、大須賀、しっかりしろ、大須賀」

 肩を揺すってみても反応はない。慌てて口の前に手をやる。かすかに空気の感触がある。息はあるようだ。

 ほっと胸を撫でおろしていると、横から恐ろしい声が聞こえてきた。氷点下だなんて生ぬるい明確な殺意に近いものを含んだ声だ。

「いい、鮎喰くん」

 そろそろと振り返ると、そこには嫉妬に怒り狂ったイケメンの顔があった。イケメンなので怒っている顔も整っている。そんなことを考えている場合ではない。

「今後、僕について誰かに頼ったりしたら、そいつも同じ目に遭わせてやるから」

 地を這う声で生首は呪いを吐き出す。俺は全身からぶわっと汗が噴き出すのを感じていた。

「今度は気絶じゃすまさないよ。分かったね!?」

「ひゃい! わかりましたぁ!」

 思わず背筋を伸ばして返事をする。すると生首は、それまでの怒りが嘘のようにころりと表情を変え、満足そうに俺に笑いかけてきた。

 その様子がさらに恐ろしくて、俺はがくがくと震えて顔を俯かせた。

「よろしい! じゃあごはん食べよっか!」

「ひぃ……わかりました……」

 下を向いたままちゃぶ台の前に座る。生首はキッチンのほうへと行ったかと思えば、すぐに戻ってきたようだった。視界のすみで肉じゃがが盛られた皿が移動しているのが見えた。

「物……」

「ん?」

「物、持てるんですね」

 視線を上げると、生首と目が合った。肉じゃがの皿は、ちょうど生首に体があったとすれば腕のある位置に浮かんでいる。

「うん! この通り、自由に持てるよ!」

 生首は笑顔で皿を揺らしてみせる。どう見てもポルターガイスト現象だ。こわい。

「でも君には触れないんだ。僕には君を愛する腕がないからね……」

 生首は視線を遠くにやると、突然、詩的なことを言い出した。思わず「なんだこいつ」という顔をしてしまう。

「どうしたの、鮎喰くん? 変な顔して」

「ひっ、なな、何でもないです」

 慌てて顔を伏せる。視界に気絶したままの大須賀が入った。

「あの、大須賀は……」

「ああコイツ? 目が覚めたら適当に言い訳して追い出そっか。ここは僕と鮎喰くんの愛の巣だもんね!」

 愛の巣なんかにしてたまるか。

 口から出かけた突っ込みをぐっとこらえ、目の前に置かれた箸を見つめる。

 本当に食べなきゃいけないのか。生首が作ったものなんかを。変なものが入っていたりするんじゃないか。

 緊張で視界はぐらぐら揺れ、膝の上で握った拳にぎゅっと力がこもる。

「食べないの? 僕が食べさせてあげよっか?」

「え、ひえっ、た、食べます食べます! 自分で! 食べます!」

 俺は箸をつかみ取ると、勢いよく手を合わせた。

「いただきます!」

「うん、めしあがれ!」

 その勢いのまま味噌汁の入ったおわんを持ち上げる。わかめとおあげが浮いていて、味噌は白だ。おそるおそるおわんの端に口をつけ、ゆっくりとその中身を飲み込む。

 さすがに色々とあったせいで若干冷めてしまってはいるが、まだ温かい。塩気や出汁も良いバランスで、飲み込んだ後にため息が出た。

「美味しい……」

「でしょ!? やったー! 君のために頑張った甲斐があったよ! ほらほら、そっちの肉じゃがも食べてみて!」

 言われるままにおわんを置き、じゃがいもを箸でつまんで口に運ぶ。

「美味しい? どうかな、美味しい?」

「……うん、美味しい」

「うひゅーーー! この世にこんなに嬉しいことがあるなんてー!!」

 俺が一口食べるごとに、生首は嬉しそうにもだえ苦しんでいる。俺はといえば胃の中へと吸い込まれていく質量に、本当にこれが幻覚ではないことを思い知っていた。

 本当にこいつ、存在してるんだ。だったら会社で見たあの首無しさんも?

「うふふ、僕の作ったものを鮎喰くんが食べてる……これってもはや性行為に近いんじゃない?」

「ぐふっ」

 味噌汁を吹きそうになってなんとか飲み下す。慌てて生首を見ると、彼はうっとりと熱のこもった視線をこちらに向けていた。

 本気だ、この生首。

「僕はね、鮎喰くんに健康的な生活を送ってほしいんだ。だってこのままじゃ鮎喰くん早死にしちゃうじゃない? それじゃダメなんだよ。だって鮎喰くんは僕が幸せにするんだから!」

 訳のわからない理屈を展開する生首を無視することにして、俺は味噌汁をすすった。

 悔しいけど、こんなあったかくて美味しいごはん、久しぶりだ。本当に悔しいけれど。

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