第2話 初めまして、首なしさん
「…………ハッ!」
正気を取り戻した俺の前には、見慣れたオフィスが広がっていた。デスマーチ明けのそこには社員は一人もいない。万が一の時のために仮眠室で待機しているか、半休をもらって帰宅しているかの二択のはずだ。
「あれ、
静まり返る部屋の入り口で立ち尽くしていた俺の頭上から、男の声が降ってくる。俺はゆっくりと振り返った。
「熊崎さん……?」
「おう、熊崎だぞ。どうしたその顔色」
そこにいたのは同じプログラマーの先輩である熊崎だった。その姿をじっと見ていた俺は、数秒後の瞬間から様々なものがないまぜになった感情がドバっとあふれてくるのを感じた。
「ぐま"ざぎざん……!」
「なんだおい、お前いつも以上に変だぞ」
長身の彼にすがりつく形で、俺は泣きじゃくり始める。
「幽霊が、家に、喋って、生首がーー!」
同じところをぐるぐると回転し続ける思考を、大げさな身振り手振りをしてなんとか伝えようとする。
恐怖、混乱、羞恥、混乱。言葉にしきれない感情を吐き出しながらばたばたと家の方向を指さしていると、熊崎はその腕をそっと下ろさせた。
「なんだか分からないが、悪夢でも見たんだな?」
「あくむ……」
「そう混乱するな、ほら深呼吸してみろって」
父親にでも諭されているかのような、あまりに説得力と包容力のあるその言葉に、俺はおずおずと頷いた。
スーハー、スーハー。
言われるがままに深呼吸をしていると、熊崎は気の毒そうに微笑んできた。
「あんなに働いたんだ。無理もないことだって」
俺は何度かまぶたを開け閉めし、急に真理を知った気分になって舞い上がった。
「そっか、悪夢だったのか……!」
それもそうだ。水をくれる生首も、キスしてくる生首も、妙なたとえで口説いてくる生首も全部悪夢だったのだ。
なーんだ、こんな悪夢を見るだなんて、俺の想像力もたくましいもんだなあ。
「とりあえず半休なんだ。仮眠室で休んでこいって」
「はい! そうします!」
打って変わって晴れやかな気分になった俺は、仮眠室への道のりを軽やかに歩き出した。
「ふん、ふん、ふふんー」
誰も見ていないからいいだろうと鼻歌でも歌いだすぐらいには上機嫌のまま、俺は同じ階にある営業部の前を通り過ぎ、その先にある共同の仮眠室へと歩いていく。そのはずだった。
目の前の営業部のドアがゆっくりと開かれ、そこから出てきた人物とぶつかりそうになるまでは。
「ひゃへぇ……!?」
素っ頓狂な声を上げて、俺はその男性の顔を直視してしまう。
正確には男性、なのではないかと思われる人物だ。なぜなら彼の顔は黒い霧のようなものに覆い隠され、性別を判断できるのが体つきだけなのだから、そうとしか言いようがない。
十センチほど上にある彼の顔を固まって見上げていると、彼の霧の中から光る目がぎろりとこちらを見た、気がした。
「ひぅ……」
文字通り
目を開いて初めて感じたのは、頭の痛みだった。何度か目を瞬かせ、すぐそこにある天井――というか二段ベッドの上の段を見る。
ここは仮眠室だ。見慣れているからすぐに分かる。でもいつの間にここに?
「あ」
すぐ隣から聞いたことがあるようなないような、そんな声が聞こえてきて、俺はそちらを向く。
「ひぇ!?」
そこにはつい先ほど遭遇した、夢か何かだと思っておきたかった、首なし男が腰掛けていたのだ。
ん、夢?
自分の思考を反芻し、何か引っかかるものを覚える。
「ええと、大丈夫ですか?」
首なし男は椅子から身を乗り出して、こちらの顔を覗き込んできた。俺は心臓がバクバクと暴れ回るのを感じながら、既視感の正体を探ろうとする。
上等なスーツ、低くて甘い声、顔が黒いもやで覆われた――
「あっ」
見知らぬ男と、唐突な告白と、手渡される生首。
こいつ、あの夢の……!
サッと顔から血の気が引いた俺に、首なし男はさらに心配そうな声色で距離をつめてきた。
「顔色最悪ですよ。病院に行った方がいいんじゃ……」
「ひぃぇっ、だだだ大丈夫です!」
起き上がって首なし男から遠ざかる。彼は困惑と心配が入り混じった声で言いつのってきた。
「でも」
「ほんと、大丈夫ですから!」
目の前の異様な光景に体の震えが止まらない。奥歯をガチガチと嚙み鳴らしながら、潤んだ目で彼を見てしまう。それに気づいたのか気づいていないのか、彼はおそらく笑って、俺に手を差し出してきた。
「俺、営業部の
「シ、システム部の鮎喰です」
差し出された彼の手をとっさに握り返す。俺よりもずっと大きくて力強い手だ。
挨拶をされたことで少しだけ恐怖がやわらぎ、彼のことを観察するだけの余裕が出てきた。
首から下だけしか見えないが、やっぱり夢以外では見覚えのない人物だ。俺は握手をしながら彼の体を上から下まで眺め、その胸に成績優秀者だけがつけることができる特別な名札が光っているのを見つけた。
営業部、柳川竜司。
体つきから見て二十代といったところだから、もしかしたら俺よりも若いかもしれない。きっと若きエース、出世頭とかそういうものなんだろう。
「じゃあ俺はこれで。酷いようなら病院に行ってくださいね?」
柳川はそのまま仮眠室から出ていこうとした。俺はその黒色に覆われた頭部を見送ろうとし――思わず叫ぶようにして彼を呼び止めていた。
「あの、柳川さん!」
彼は半分だけこちらを振り返る。俺は緊張と恐怖で震える喉をなんとか動かして、どうしても聞いておかなければならない疑問を口にした。
「ええと……その顔、どうしたんですか?」
「はい?」
多分何気ない聞き返しだったのだろうが、威圧されたような気がしてしまって、俺は改めて震え上がった。
そんな俺をよそに、柳川はちょっと考え込んだ後、恐る恐る尋ね返してきた。
「もしかして食べかすとか付いてます……?」
「い、いえいえいえ! そういうわけでは!」
ブンブンと首を横に振って否定する。向かい合った俺たちの間に気まずい空気が漂う。
ここは多分、俺から見た柳川の顔が、霧のようになっていて見えないのだということを言うべきなんだろう。
だけど信じてもらえるだろうか。いやうん、もし俺がその立場だったら頭がおかしい扱いをしてしまう。絶対に。
なんとか打開策はないか。なんとか、なんとか。
「あー! 柳川さん! こんなところにいたんですか!」
「
「大須賀さん」
半分開きっぱなしになっていた仮眠室のドアを勢いよく開いたのは、大須賀。営業部所属の俺の同期で、つい昨日、俺を飲み会に引きずっていった人でなしだ。
「課長が探してましたよ! なんでも柳川さんが取ってきた大口取引がどうとかって!」
それだけ言うと、大須賀は慌てて廊下を走っていってしまった。柳川もそれに続こうとしたが、ドアノブを掴みながら勢いよく振り返ってきた。
「本当に体調には気をつけてくださいね!」
バタンと音を立ててドアは閉まる。緊張と恐怖でドキドキしながら俺はベッドに倒れこむ。
「なんなんだよもう……」
ぐりぐりと頭を押しつけた枕はものすごく固かった。
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