第1話 初めまして、生首さん

 防音もクソもない薄いガラス窓から、小鳥の声が響いてくる。

 サッシの隙間からは秋めいた風が吹き込んで、カーテンを閉め忘れたせいで朝の日差しが顔に直撃している。

 いっそのことこんな安アパート引っ越ししてやろうかとキレそうになるほどさわやかな朝だ。

 まぶたの隙間にねじ込まれる朝日から逃れるため、寝返りをうって顔面を枕に押し付ける。浅く低迷していた意識が徐々に浮かび上がってくる。

 そうだ、昨日はたしか、やってもやっても終わらないカラカラ回し車系デスマーチになんとかケリをつけたはずだ。

 会社に泊まること一週間。やっとのことでふらふらと帰宅しようとしたところを、急に現れた他部署の同期によって引きずられるようにして飲み会に行った……気がする。

 なんでも欠員が出てしまってこのままじゃ料理がもったいないのだとわめいていた気がするが、よく覚えていない。いや、勘弁してくれと思っていたことだけは覚えている。

「う"ぅー……」

 頭が痛い。おかしいな。飲みすぎたのかもしれない。酒に弱いことは自覚しているから、普段はそんなに飲む性質じゃないのに。

 記憶をたぐることを諦め、しわくちゃのシーツにくるまったままゆっくり体を起こす。

 あの激務の翌日というだけあって、さすがに今日は半休だ。

 なぜ半休。一日休みをくれ。後生だから。

「水……」

 頭を押さえながら這いずってベッドから脱出しようとする。

 その時、1Kゆえにかなり狭いキッチンの引き戸から、ひょっこりと男の顔だけが現れた。

「あ、おはよう、鮎喰くん!」

「誰」

 ぽかんとしながらもその疑問だけは口から出た。次いで、混乱がぐるぐると頭の中を塗りつぶしていく。

 なんで俺の家に他人がいるんだ。自慢じゃないが整頓されているとはいいがたいこんな家に、人なんて上げられないっていうのに。もしかして昨日の飲み会でつぶれた俺を介抱してくれた誰かだとか?

 それにしては見覚えがない顔だ。

 後ろに流した少し跳ねた黒髪に、優しそうに緩み切った目元。だけど顔のつくりだけを見ると、あまり直視しつづけると目がつぶれてしまいそうなイケメンだ。

 男をまじまじと観察していると、彼はさわやかにこちらに微笑みかけてきた。俺はとっさに下を向いて震えだした。

 こんな相手、一介の地味男である俺と接点があるはずもない。だって中小企業以上大企業未満の会社とはいえ、俺は社内プログラマーの下っ端の下っ端だぞ? いや、同僚には社交的なやつはいるといえばいるが、こんな見るからに社長か幹部かエリート幹部候補の人間とのパイプだなんてよりにもよって俺にあるはずが。

 でもなんか、そう――どこか夢で、見た、ような。

「体調はどう? 二日酔いとか残ってない?」

「え、えっと、あたまいたいです……」

「うん。昨日かなり飲んでたからね。今、水持っていくよ!」

 顔を上げられないまま答えると、蛇口をひねる音と、マグカップに水がぶつかる音が聞こえてきた。

 きゅっと音を立てて水道は閉じられ、数秒後には音もなく、使い古されたマグカップは差し出される。

「はいどうぞ」

「あ、はい、あの……」

 それを受け取りながら、うつむいたまま視線だけを上げる。しかしそこには目の前にいるはずの男の体はなかった。

「へ?」

 間抜けな声を上げて固まる。何度かまばたきをする。しかしそこにはやはり何もない。

 だったら今だれがこれを渡してきたっていうんだ。

「ん? どうしたの、鮎喰くん?」

 視界の上のほうから声がして、ゆっくりとそれは目の前に降りてきた。

 キッチンからこちらを覗いていたあの男の顔だ。

 ただし、首から上しかない、生首の。

「へぁああああああ!?」

 マグカップを取り落とし、一気にベッドの端まで逃げ去る。勢いのせいで頭を壁にぶつけた。痛い。それどころじゃない。

 ガンガン痛む頭の中は、今や混乱と恐怖で満たされていた。

 なんだこいつなんだこいつ! 不法侵入者? 不法侵入幽霊!? ああそうだ幽霊だ! 亡霊だ! 首だけだし落ち武者とかそういう――じゃない! 俺、霊感とかないのになんで!!

 生首はちょっとだけキョトンとした顔をしたあと、嬉しそうな笑顔になってこちらに顔を近づけてきた。文字通り、顔だけを。

「ヒッ……」

 思わず目をつぶって縮こまると、額に軽く何かが触れる感触があった。ついでに小さくリップ音もした。

「な、なにを」

「決まってるじゃない! おはようのキスだよ!」

 生首は満面の笑みで答える。

 俺は混乱とか恥ずかしさとかそういうものでいっぱいになって、おでこを押さえながら叫んでしまった。

「な、なにすんだよ、へんたい!」

「失礼な! 俺の君に対する想いは本物だよ! 君の好きなところを上げろって言われたら俺はいつまでだって語りつくすね!」

 堂々と生首は言い放つ。俺は小さく悲鳴を上げた。

 なんだこの状況。無茶苦茶だ、泣きそうだ。というかほとんど泣いている。鼻もぐずりはじめている。

 恐怖ゆえの俺の沈黙に、さあ愛を語れ、と言われたとでも思ったらしい。男の生首は少しだけ俺から離れると、まるで正面に正座しているかのような位置に浮かんだ。

「まずもう一挙一動すべてが愛しいんだよね。ちょっとくしゃっとしたその髪も、垂れた目も眉も、控えめな視線も、遠慮がちな笑顔も、何かあるとすぐ混乱しちゃうところも、だけど好きなことには熱中しちゃうオタクっぽいところも、ああもう、全部かわいい! 君のすべてを愛してる!」

 うっとりとした笑みで熱っぽく生首は言い放つ。俺はそのあまりの熱量にあてられて、なんとか拾うことができた単語を茫然とつぶやいた。

「か、かわいい……?」

「うん! 死にかけのハムスターみたいでかわいいって思ってるよ!」

 なんだその例え。

 一瞬だけ冷静になったが、直後に恍惚とした表情の生首がにじりよってきて、俺は再び後ずさろうとした。だが後ろには壁だ。ぶつかった頬がひんやりしている。

「ああ、本当にかわいいなぁ……これからずっと君と同居できるだなんて俺は幸せ者だよ……」

 ずっと同居!? この幽霊と、俺が!?

「とりあえずもう一回キスしてもいい? 今度は唇にさ!」

 バチンと効果音が聞こえてきそうなほど綺麗なウインクが飛んでくる。NOと言っても聞いてくれるわけがない。生首は自然な動きで俺の唇めがけて近づいてきた。

 必死に顔をそむけるも、後ろは壁だ。逃げられない。助けはない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。その時俺は、左手に柔らかい感触を見つけた。

「く、来るなぁぁーー!!」

 とっさに手に取った枕で、生首の横っ面を殴りつける。

 命中した感触があった。ついでに「あふん」とかいう間抜けな声も聞こえた気がした。殴られた生首は、ベッドの上をてんてんと転がり、俺の右手にあるベッドの隙間へと落ちていった。

「はぁ、はぁ……」

 俺は立ち上がり、枕を握ったままベッドの端をにらみ続けた。しかし反応は何もない。悲鳴も、うごめく音も聞こえてこない。

 今のは夢か幻覚だったんだろうか。だけどその隙間をのぞき込む勇気は俺にはなかった。まるで家具の隙間にゴキブリが落ちたときのようだ。

 そうだ、あれは大きなゴキブリだったんだ。んなわけあるか。あんなうすらでかくて変態のゴキブリがいてたまるか!

「とにかく、逃げ、逃げないと」

 俺はスーツ一式をひっつかむと慌ててそれに着替え、全速力でいつも通りの道を駆けていった。

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