52杯目 ヒロインへの祝杯

 五月四日。誕生日のその日に、有紗は意気揚々と有栖川茶房に向かっていた。

 朝早くに両親から誕生日についてのメールが届いていた。彼らは連休を利用して何処かへ遊びに行っているらしい。

 ――ホント、自由だなぁ。

 メールの文面に呆れながら、礼と旅路への気遣いを添えて返信した。娘の誕生日だというのに旅行とは、と一瞬思ったが、お祝いの連絡をくれるだけまだいいかとその点については触れないでおいた。

 辿り着いた有栖川茶房はいつもの外観に戻っていた。窓は装飾があり、ドアも覗き窓の無い一枚板に戻っている。

 ――流石に一ヶ月は続けないよね。

 イベント仕様の状態が一ヶ月続いたのは今のところ見たことがない。弥生の苦労も計り知れないが、改装する労力も相当なものだろう。一夜にして変貌する謎は置いておくとして、お茶を楽しむ為なら何でもする桂の行動力は途轍もない。その点に関しては本当に頭が下がる。

 今日は何を飲ませてくれるのだろう。

 いつものように期待をしながら、アイアンのドアノブを押した。


 りん。りりん。


 ドアベルの音が涼やかに感じる季節になってきた。音色が耳に心地いい。

「おー、アリス。来るかなーとは思ってたけど」

「来ちゃった」

 休日仕様の軽い鞄を隣の席に置いて、迎えてくれた弥生の向かい、いつもの指定席に腰掛けた。すぐさま水とお手ふきが出され、それに続いて弥生が差し出したものがあった。

「これ……」

 見たところ葉書サイズの封筒だ。

「誕生日おめでとう」

「おめでとー」

 弥生と桂がそう言うのを聞いて、これがバースデーカードだと知った。

「わあ! ありがとう!」

 表面には、アリスへ、と書かれ、裏は封蝋のようなもので封がされていた。

「開けてもいい?」

「いいぜ」

 許可を得て、封に手を掛ける。封蝋を割るのが勿体なくて、封蝋ごと剥がすようにして封を開けた。中のカードを取り出すと、開くと立体になる仕掛けが施されていて、テーブルに載った大きなケーキが現れた。空いた場所に一言ずつコメントが書かれている。桂と弥生だけでなく、笑太や真白からも一言添えられていた。

「凄い! 嬉しい! ありがとね」

「大したもんじゃねぇけどな」

 感激に浸りながらカードを何度も開けたり閉めたりする。そのたびにケーキが浮き上がって、彼らの言葉が祝ってくれる。

 にやにやしながらカードを眺めていると、ドアベルの鳴る音が聞こえた。

「よかった。居たか」

 入ってきたのは環だった。いつものスーツ姿で、手には鞄と紙袋の手提げを持っている。

 特段の意味もなく彼の手元を見ていると、彼の手が紙袋を持ってこちらへと向いた。差し出された紙袋を、つい反射的に受け取ってしまう。

「これは?」

「キャンディスといって、ドイツの氷砂糖のシロップ漬けだ。それはアールグレイのフレーバーが付いていて、紅茶の中に少し入れて溶かしながら飲むと旨いぞ」

 話を聞きながら袋の中を覗くと、クラフト紙の緩衝材に包まれたものが入っていた。持ち上げてみると、それなりにずっしりとしている。

「少し素っ気なくてどうかと思ったが、誕生日プレゼントだ」

「へ?」

「今日、誕生日だろう?」

「そうですけど、環さんにお話ししてましたっけ?」

「真が言いふらしてたのを耳にしてな」

「真くん……」

 真に悪気は無いと信じているが、まるでプレゼントを無心したようになっていないかだけが気がかりだ。

 自分へのプレゼントということなので、遠慮無く緩衝材を外してみた。瓶の中には乳白色の氷砂糖がシロップ液で満たされていた。試しに蓋を開けてみると、その途端にアールグレイの――もとい、ベルガモットの強い香りが溢れ出してきた。

「わあ! 凄い! 桂さん。ストレートの紅茶、淹れて貰えます?」

「いいよぉ。普通のダージリンが良さそうだね~」

 この小さな粒をいくつか入れるだけで、甘いアールグレイが出来上がるということは、市販のティーバッグの紅茶がいつでも変身するということだ。

「環さん、ありがとうございます!」

「喜んで貰えたようで良かった。誕生日おめでとう」

「……あれ?」

 袋の底を覗いてみると、クラフト紙の紙袋が一つ入っていることに気付いた。どうやら今まで手提げの紙袋と同化していたらしい。

「これは……?」

 言いながら袋を開けてみると、チェコビーズのブレスレットが一つ入っていた。

「ああ。それは宝からだ。本場のチェコビーズだから、いいものだと思うぞ」

「宝さん! お名前しか伺ったことないのに、どうしてプレゼントを?」

「あいつは無条件で女性が好きだからな。アリスのことを聞いて居ても立っても居られなかったんだろう」

 とはいえ、面識の無い人からの贈り物は少しだけ気が引ける。しかも、それなりの値段がしそうな代物だ。

「貰っちゃって、いいのかな」

「受け取ってやれ。宝も喜ぶ」

「そういうことならありがたく。宝さんにお礼を伝えて貰ってもいいですか?」

「ああ。会えたら言っておく。何しろ、殆ど海外に居るから俺も中々会う機会がなくてな」

「そうなんですか」

 環が中々会えないのなら、自分は更に遭遇率が下がりそうだ。

 ブレスレットを大事に袋に戻し、カードと一緒に手提げの中に入れた。キャンディスはカウンターの上に置く。

 皆、誕生日を知って贈り物や言葉をくれる。本来ならば一介の客に過ぎないのにここまでして貰えるのは、

 ――私は果報者だなぁ。

 今日は特に心が温かい。おめでとうという言葉は、魔法か何かに違いない。

「はい、どうぞ~」

 胃も暖かくする紅茶がやってきた。頼んでもいない環の前にも桂は紅茶を置いていった。それについて環は何も言わずにそのまま口を付けている。

「このスプーン使って掬うといいよ~」

 そう言って、ティースプーンを桂が出してくれた。それを使って瓶の中身を一つ二つとシロップごと取り出しては紅い水面に落としていく。取り敢えず三つ、入れてみた。瓶の蓋を閉め、ティースプーンで紅茶をかき混ぜる。

 湯気と共にベルガモットの香りが立って肺まで満たされるようだ。

 氷砂糖が充分に溶けるのを待たずに一口飲んでみた。先ずはやはり独特の香りが鼻を通り、次にほんのりと甘い味が口の中に入ってきた。

「美味しい!」

「他にもラムとかジンジャーとかがあったんだが、それが一番無難かと思って」

「美味しいです。ありがとうございます」

 こんなに素敵な砂糖があったとは知らなかった。ティータイムが捗りそうだと思うと、自然と口元が緩む。

 ――来て良かったな。

 一人の誕生日が嫌でここへ来たのが本当のところだ。贈り物を貰うまで、自分が誕生日を言いふらしていたことを忘れていた程だ。誕生日はいつも休みの日で、当日友人に祝って貰うことが少なかったのも一因している。こうして祝ってくれる人と場所があるのはありがたい。

「やっぱりパーティーした方が良かったんじゃない?」

 お祭り好きの桂が、今からでもやり出しかねない雰囲気で首を傾げている。有紗は慌てて首を振った。

「別に騒いで欲しいわけじゃないんだってば!」

「でも、騒ぐと楽しいよ?」

「私はこれで充分ですよ」

「そーお?」

 桂はやや不満そうな顔をしている。しかし、有紗はこれでいいと思っていた。誕生日のその日におめでとうと言って貰えた。本当はそれだけで充分だった。

「そういえば、木葉が花束を贈りたがってたぞ」

「あ……。それは私がクオーリで変なコト言っちゃったから……」

「生花だから確実に会えないと渡せないと言って諦めていたが」

「いいんです。気にしないでくださいって伝えてください」

「わかった」

 この様子だと、トランプの誰かに言ったことは全員の耳に入ると思っていた方が良さそうだ。横の繋がりとは恐ろしいと思い知る。

「思ってみれば、ダイヤの方って龍臣さんとしかお目にかかったことないです。それに、龍臣さんも宝さんも海外多いみたいですね」

「玲も殆ど海外だな。菱は日本で美容師やってるが」

「美容師さんなんですか!」

「ああ。正臣の髪も菱がやってて。その所為で少し個性的なんだが」

「そこは似合ってるのでいいと思います。海外勢の皆さんはお仕事は何を?」

 順調に進んでいた会話が、ここで一旦途切れた。環は眉根を詰めて神妙な顔をすると、

「それは知らない方がいい」

「は、はい……」

 環まで妃と同じ事を言う。何故知らない方がいいのか、という愚問は流石に出来なかった。一旦このことは忘れ、まだ顔を知らない三人について思いを馳せる。

「でも、会ってみたいなぁ」

「機会さえあれば会えるだろう。ただ、菱は難しいかもな」

「それは、お忙しくてですか?」

「あいつはちょっと複雑なんだ」

「複雑……」

「なんて言ったらいいか。自分が〝アリス〟になりたいが故に女の子の格好をし始めた奴だから……」

「〝アリス〟に、なりたかった……」

 その役割につきたくて、姿さえも偽った。そんな人が、自分のことを良く思っているとはとても思えない。複雑と言えば複雑。謂われの無いことと言えば謂われの無いこと。自分も、好きで〝アリス〟になったわけではない。未だにその自覚さえおぼつかないのに、それを強く望んでいた人を前にして姿勢を正していられるか、目を見ていられるかの自信が無い。

「まあ、アリスが深く考えることは無い。あいつは望むだけ無駄なことを望んだだけだ」

「でも、こういう言い方良くないのかもだけど、何だか可哀想……」

「あいつも意地を張ってるだけなんだ。そのうち自ずと気がつくさ。意固地になったところで仕方ないって事をな」

「うん……」

 話もしたことの無い人について何か言う立場にないことはわかっている。故に、環が言うことが的を射てるのかの判断も付かない。

 〝アリス〟になりたかったダイヤのエース。物語にはいろいろな人が居る。それを改めて知った。

「菱くんがよければ、私は会いたいな」

「伝えておく」

 短くそう言うと、環はカップの中身を飲み干した。

 有紗のカップの中にはまだ溶け残った小さいキャンディスの塊がある。それをティースプーンでかき混ぜて、溶かしながら飲んでいった。

「なあ、環。さっきのあれ、言わなくても良かったんじゃねぇの?」

「まあな。少し喋り過ぎた」

「まあ、もう言っちゃったし。遅いか」

「遅いな」

 向こう側で弥生と環が話しているのを聞きながら、

 ――本当に私は何にも知らないんだな……。

 そう痛感した。

 有栖川茶房に通ってお茶を飲んで甘味を楽しんでいるだけだ。必要以上に知ることが出来ないのは当然とも言える。けれど周りは沢山のことを知っていて、沢山の関係が築かれ、沢山の感情を向けられている。そんなことは世の中に良くあることだ。

 けれど、ここは狭い世界だ。椅子に座ったまま一望できる小さな世界で起きていることを知ることが出来ないのは、やはり口惜しく思う。

「アリス。気に病んだなら謝る。菱のことは本当に気にしなくていいからな」

「悪くは捉えてないです。でも、〝アリス〟ってなんなのかなって、ちょっと思って」

「それは……難しい疑問だな」

 環にさえ答えられない疑問。弥生を見ても目を伏せて、わからないという顔をしている。

「何も難しくないよぉ」

 立ち込め始めた昏い空気を破ったのは桂だった。

「〝アリス〟は主人公だよ。登場人物に様々思われるのは当然だよ。そして〝アリス〟はお茶会を遂行していればそれでいいんだよ」

 桂は当然のように言い放つ。その言葉は少し突き放したようにも聞こえたが、これは役割の話だと思って聞けばそれ程冷たくは感じなかった。

「折角のお誕生日だよ。笑顔で居よう?」

 役割ではなく有紗に向けて言葉が続いたのを聞いて、

「そうだね」

 有紗は口の端を上げた。

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