53杯目 安堵の飲み物

 笑太は首の後ろをさすりながらカウンター席にいた。膨れ面をして機嫌は斜めだ。

 今日は酷い目に遭った。いつもならなんてことないことが、今日に限って酷かった。

「痛むのか?」

 カウンター越しに弥生が訊いてきた。

「痛むって言うより、違和感がある感じ。今日に限っていつもの医者じゃないなんてついてないよ。あいつ、超ヘタクソ」

 店内には指定席にジャック、弥生と桂が居るだけだ。有紗がいたらこんな話は出来ない。

「でも暴れなかったんだ。偉かったぞ」

 ジャックがコーヒーを啜りながら慰めてくれるも、気分は晴れない。

「でも、あんな掴み方して無遠慮に注射することないと思わない?」

「猫じゃないからそこはわからないが」

「いつもの医者だったらなんともないのに」

「わかったから、そろそろ機嫌直せ」

 数時間前にジャックに連れられて訪れたのは動物病院。そこでワクチン接種を受けたのだが、いつも診てくれる医者が今日は不在だった。臨時なのか何なのか、知らない医者が出てきてぶすりとやられたという次第だ。

 その時は我慢してじっとしていてやったが、本当は引っ掻いてやろうかとも思っていた。ジャックに迷惑がかかるからどうにか堪えていたようなものだ。人の姿に戻ってもまだ首の後ろに違和感がある。

「ほい、ホットミルク」

「ありがと」

 マグカップになみなみと注がれたホットミルクを受け取って、両手でカップを抱えながら息を吹きかけて冷ます。元々それほど熱く作られていなかったので、今口を付けても飲めそうだ。

 それでも怖いのでゆっくりと啜る。少しだけ口に含むと、大好きな甘い味がして、自然と溜息が出た。

「というか、おまえは本当は動物病院なんて行かなくてもいいんじゃないのか?」

「え……?」

 突然のジャックの発言に、笑太は頭の中が白くなっていく感覚を覚えた。

 そして周りが一斉に息を呑んだのが聞こえた。

「弥生や真白ですら行ってないんだし」

「う……っと……」

「どうせ毎日風呂に入ってるんだし、トリミングだって美容院にでも行けばいい話で」

「トリミングはいいんだよ! だって気持ちいいんだもん」

「そこは好き好きかも知れないが、本当に必要か?」

「うう……。だって、人間の状態がどう猫の状態に反映されるかなんてわかんないじゃないか」

「わからないのか」

「わからないよ」

「じゃあ、今のその髪は切りに行ってるのか?」

「う……ううん。思ってみたら、美容院って、行ったことない……」

 正当な理由を見つけようとすればするほど泥沼にはまっていくのがわかる。目を泳がせながらホットミルクを飲んだところで状況は変わらない。

 と、弥生が腕組みをして何事か考えた様子の後、

「そういやおまえ、夏にサマーカットしたとき、人の姿にならなかったよな」

「そう……かな?」

 そんなことを訊いてきた。

 去年サマーカットにされたとき、ふて腐れていたので厨房に立つ気にもならず猫のままでいた記憶がある。

「あの状態で人になったらどうなんの? 坊主頭とか?」

「可能性あるからやめてよ! もう絶対サマーカットしないんだから!」

「じゃあさ、人の状態で刈り上げにしたらどうなんのかな。サマーカットみたいになるのかな?」

「わかんないけど、絶対しない!」

「ものは試しだからやってみようぜ?」

「やだ!」

「ツーブロックとかどうよ。似合うんじゃね? あ、でも、猫の時、側面だけ毛、短くなんのかな」

「もー。他人事だと思って楽しんでるだけでしょ。弥生が自分で試せばいいじゃない」

「俺なんかで試すより、毛玉の真白で試した方が絶対面白いって」

「やっぱり面白がってるだけじゃない。アンゴラウサギの毛を刈るなんて惨いことよく考えるね。自分だって丸刈りにされたらヤでしょ?」

「俺は殆ど人でいるからそういうのはいいんだよ」

「会話、わざと噛み合わなくしてるでしょ!」

 弥生は自分には関係ないこととして、完全にからかってきている。そういうことをする時の弥生は余り好きではない。

 今の〝アリス〟が来るまでは、弥生は意図しなくても噛み合わない存在だった。

 ――昔はずっとズレっぱなしだったんだよな……。

 そう思うと、こんな風に会話できているのも不思議な気持ちがする。そもそも、自分が人の姿を取ることもこんなにはなかった。ぶなぶな鳴いてコミュニケーションにもならないやりとりをしているのが大半だった。猫の状態の言葉を解してくれるのは役割が入れ替わらない者達だけなので、一昔前までは真白かジョリーが遊びに来ない限り会話が成立しなかったのを思い出した。

 ――何で今回の弥生はまともなんだろ。

 何が正常なのかは正直わからない。まともな状態が異常なのかもしれない。

 ――もしかして、今回で終わるのかな。

 そんな淡い期待をしてしまう。閉じては開いてを繰り返して延々と続くお茶会に、疲労こそ感じていないが長い、とは思っている。

 長い。永い。

 正解のわからない半永久。その機関の中に何故自分はいるのだろう。何故人と猫の姿を取るのだろう。

 ――何で人の姿になれるんだろう。

 甘える以外に何かしたかったのか。前足ではなくこの両手で、何かを。

「笑ちゃん。何考え込んでるの?」

 桂の声で、はたと現実に引き戻された。

「弥生が意地悪じゃなくなる方法ないかなって」

 嘘を吐き、冷たくなり始めたミルクを一息に飲み干した。もっと熱いものが飲めたら、と思う。そうすれば、胃壁を焼くような感覚に悶える事が出来るだろうに。そうしたくても、飲み込む以前の問題で口に含めさえもしない。

「俺、そんなに意地悪か?」

「意地悪だよ。それにすぐ悪態ついたり怒鳴ったり指さして笑ったりするじゃない」

「うー。身に覚えなくもない……」

「以後気を付けてよね」

「以後気を付けます」

 無自覚が一番やっかいだ。そうではないことを確認し、言質を取ったところで、マグカップを弥生へと突き出した。

「ホットミルク、おかわり」

 今日はお腹が膨れるまで飲んでやる。

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