50杯目 郷愁の食卓

 昼時。

 店の前に着いたとき、漠然とした違和感を感じて足を止めた。

 壁や屋根は以前のままだが、飾りの付いた窓だったところが、十字の格子窓に変わっている。ドアも一枚板のドアだったものがのぞき窓が付いている。ドアノブはアイアンのままだが、形が違う。屋号の板はそのままのようだ。

 ――今回のコンセプトって何だろ。

 外観からは判断が付かないまま、有紗は店の中に入った。その途端、トマトの香りが襲ってきた。

「こんにちは……」

 何事が起きているのかとゆっくりと歩を進めていると、

「おお、アリス! 久しぶりだな!」

 手前側のソファ席に座った妃が手を振っている。向かいには忠臣がいた。

 彼らの目の前には楕円のお皿があり、そこには真っ赤なパスタが盛り付けられていた。どうやらナポリタンのようだ。トマトの香りはこれによるものらしい。

「今日は私が無理を言ってな、ナポリタンを作って貰ったんだ! 昨日からどうしてもナポリタンが食べたくてな!」

「でも、お店まで地味に改装してある気がするんですけど……」

「ナポリタンを出してくれれば何でも良かったんだが、桂がレトロ喫茶風にしようと言いだしてこうなったんだ」

「レトロ喫茶……」

 有紗にはどの辺りがレトロなのかわかりかねたが、これが桂が思うレトロ喫茶の姿らしい。英国風と大差ないと言えばない。何しろ昭和の香りを知らないのだ。

 ひとまず席に着こうと店内を一望する。カウンター席は妃達に背を向けるので余りよろしい気がしない。ソファ席の指定席だと妙な距離が生まれる。気を遣った結果、

「お隣いいですか?」

「いいぞ。来い!」

 妃の隣の席に腰を下ろした。誰もいない側にどしりとした鞄を置いて、メニューを取る。

 いつも通りの紅茶とコーヒーの後に、ミルクセーキ、クリームソーダなどの飲み物が追加されている。フードの所にはナポリタン、オムライス、カレーがある。

「アリスちゃーん、いらっしゃい」

 どこからともなく現れた桂が、ゆらゆらしながらこちらへとやってきた。

「今日は昭和の喫茶店だからねー。何だか懐かしいよねー」

「私、平成生まれなので寧ろ新鮮です……」

「あっ、そっかー。じゃあ、新鮮なのを楽しんでねー。今日のお勧めはミルクセーキとナポリタンだよー。宇佐木くんが今必死にジャックのおかわり作ってるからアリスちゃんの分も頼めばすぐ出てくると思うよー」

 おかわり、とは言うが、忠臣はまだ自分の皿の中身を食している。予め注文しているのか、おかわりはするものと見込んでいるのか。

 ――でも、すぐ食べちゃいそうだね。

 いつもの豪快な食べっぷりが戻っている忠臣には、皿に山盛りにしても足りなさそうだ。

「じゃあ、私もナポリタン。それとミルクセーキもください」

「はーい。ありがとねー」

 去って行く桂を見ながら、今日は紅茶は勧めない事に気付き、意外な面持ちでいた。

「ぶな」

 声がしたので目を遣ると、ソファ席の一番奥からてっさがやってきた。

「ぶーな」

「うん。こんにちは。よしよし」

「ぐろろろろ」

 撫でてやると喉を鳴らしながら擦り寄ってきた。太い猫は腿や腰に気が済むまで額を擦り付けると、横にぴったりついて丸まった。猫の体温が伝わって、太ももが温かい。

「てっさは本当にアリスのことが好きだな」

 そう言って妃は笑った。似たようなことを以前桂も言っていた。理由まで知っていそうな彼だったが、真顔になって答えを失っていたのを見てから、深く考えないことにしていた。時々太いだ何だと言っててっさを傷つけてしまったことも多数あるが、それでも猫は懐いてくれている。こちらが可愛がる以上に好かれているようにさえ思う。

 膝に載せてあげられたら、と時々思うことがある。だが、猫の重さがそれを許さない。てっさも解っているのか、初めの一度きりしか載ってきたことがない。

 なんだか昔から飼っている家猫のようだ。

 そしてここは、昔から通っている田舎の家のようだ。若しくはかつて住んでいた家のようだ。

「どうした? アリス」

 妃の問いに、即答できなかった。

 ――どうしちゃったんだろう。

 疑問が先に浮かび、

「なんか、不思議な気分で……」

 そこまで口にしたところで、厨房から楕円の皿を二つ持った弥生がやってきた。

「お待たせー」

 先に有紗の前に一つ、そして忠臣の空いた皿を持ってからもう一つを彼の前に置いた。

 チープなトマトケチャップの香りがする。具材はタマネギにピーマン、ウインナにマッシュルーム。典型的とも言えるナポリタンのそれだ。

「おい、桂。アリスに水も出してねぇじゃん」

「あ~。忘れてた~」

「ったく。一人にしとくと水も出せねぇのかよ……」

 桂が紅茶を入れること以外をしないことはわかりきっていたので気にしていない。それよりも笑太のみならず、弥生にまで同じ事を言われている事に、有紗は苦笑した。

「そうだ宇佐木く~ん。ミルクセーキ作って~」

「そのくらいおまえが作れよ!」

「だって僕、紅茶専門だもん」

「そうやって仕事放棄すんな!」

 のしのしと歩いて弥生はミルクセーキを作りに厨房へ戻っていく。

 彼が戻ってくるまでの間にナポリタンを少し食べ進めてしまおうと、有紗はフォークを手に取った。一口分を巻き取って、口に入れる。久しく食べていないケチャップの味に、思わず童心に返った。

 ――ナポリタンなんて何年ぶりだろう。

 何年どころか子供の頃以来かも知れない。思い出したのは母親手作りの味。弥生が作ってくれたものと具材も同じで、味も似ているように感じた。

「どうしたの、アリスちゃん。硬直しちゃって」

 遅ればせながら水とお手ふきを持ってきた桂に声を掛けられ、我に返った。

「お母さんと同じ味がして懐かしくなっちゃって」

「ふふ。それは良かったね」

 笑みを残して桂は去って行く。

 有紗は懐古しながらナポリタンを巻き取っていく。ミルクセーキを待つつもりが、あっという間に半分程度食べてしまっていた。

「アリスにしちゃ早いな」

 卵色の飲み物を持ってきた弥生に言われ、自分でも驚いた。

「美味しいし何だか懐かしくて一気に食べちゃった」

「何処かのジャックと違うんだから、ちゃんと噛めよ。あと、そろそろ一回、実家帰った方がいいんじゃねぇの?」

「そうだねー……」

 ホームシックとはまた違った感情のように思うが、丸一年親と会っていない。弥生の言うように、一度帰るのもいいかもしれない。フォークでパスタを巻きながら思案する。機会があるとすればゴールデンウィークか夏休みか。

 ――でも、ゴールデンウィークはお誕生日あるからなぁ。

 祝って欲しいのは親よりも有栖川茶房の面々であった。無論、当日は店に顔を出すつもりでいた。

「面倒臭がるなよ?」

「はーい」

 見透かされたような気がして、ここは素直に返事をしておく。

 ここで一旦パスタを食べる手を止め、ミルクセーキに手を伸ばした。抱えるようにグラスを持ってストローで吸うと、バニラアイスのような味がケチャップの味を掻き消していく。もう一口飲むと、口の中は完全にバニラ味になった。

 今日は個性の強い味を頼んでしまったようだ。どちらかを食べると食べた方のの味に支配される。

 ――昭和って濃いんだなぁ。

 再びケチャップ味に満たされながら、有紗はぼんやり思っていた。

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