49杯目 休日の朝模様

 新学期が始まって初めての土曜日、有紗は早くから有栖川茶房を訪れた。アイアンのドアノブを押すと、それより早く店を訪れている人がいた。

「真くん。朝からどうしたの?」

 いつもの有紗の指定席に座っていたのは真だった。注文が届くのを待っているのか、足をぶらぶらさせて手持ち無沙汰そうだ。

「今日ね、ジャックが朝食当番するって言い出したから逃げてきたんだー」

「忠臣さんって、お料理は……」

「目玉焼き焼ける程度。でも、なんかヤな予感してここに来ちゃった」

 カップ麺を作れる程度でないのは幸いとはいえ、真が逃げてくる程だ。その腕前は推して知るべしだろう。

 有紗は真の隣の席に座って、空いた席に荷物を置いた。

「……ということは、いつもは忠臣さんってお食事当番回ってこないんじゃ?」

「何処かのキングがサボって仕事行っちゃったから」

「じゃあ、ジョリーさんも一緒に……」

「そう。で、ボクは昨日だったから二日もやりたくなくって」

「それで逃亡を……」

「妃と忠臣の分だけだから、きっとどうにかなってるよ」

「なってるといいね……」

 大惨事になるかも知れないのだったら、いっそのこと無理して作らずに真のように朝ご飯を食べに来ればいいのにそれをしないらしい。それか、どうにかなる算段でもあるのか。妃宅の食卓事情を知り、瑛の負担を考えると彼がサボりたくなる気持ちも解る気がした。

「その様子だと、瑛さんの当番のことが多そうだね」

「大体キングかジョリーが作って、忙しいときはボクが作る感じ」

「お店もあるから負担大きそうだね」

 そう言うと、真は両肘を付いて手の平に顎を乗せるとぷっくりと頬を膨らませた。

「もうさ、キングはクオーリ辞めて妃の専属料理人になっちゃえばいいのに」

「でもお店を潰しちゃうのはちょっと……」

「あれってキングが趣味でやってる店なんだよね。一応黒字みたいだけど」

「趣味、なんだ」

 クオーリの様子を思い出し、とても趣味とは思えないという感想を得た。メニューも揃っているし、勿論味もいい。それで趣味とは恐れ入る。当人は本気で経営しているかも知れないので安易な評価は出来ないが、良いお店だと言っていいと有紗は思う。

「アリスは知らないんだっけ。キングとジョリーって元々環の所の料理人だったんだよ」

 向かいから弥生が水とお手ふきを差し出しながら言った。

「へっ!」

「で、キングが自分の力を試してみたいって妃に相談して、妃があっさり居抜きのいい店探してきてそこに据えちゃったわけ。ついでにジョリーも引き連れて」

「へー。そうだったんだ」

「それに、環の数少ない友達を引き抜いちゃったから、朝はあんまりハート勢のこと良く思ってねぇんだよ」

「仲、悪そうには見えなかったけど」

「朝も難しいお年頃なんだよ」

「ふうん」

 朝の物言いは性格故のものと思っていたので、弥生が言うような事を感じたことはなかった。良く思っていない、と言われればそうと取れなくもない。だが、少なくとも悪意のようなものを発するのを目にした記憶はなかった。

 クオーリにいた環のことを思い返してみる。瑛を取られたという恨み辛みを持っているようには見えなかった。寧ろ、親しい友人を訪ねに来た、今思うとそんな雰囲気があった。あの様子を見るからに、環自身は悪い気はしていないのだろう。

 すべては推測の域を出ないが。

「ところでアリス、休みの日に来るなんて珍しいじゃん」

「今日ね、大学近くの本屋さんで好きな作家さんのサイン会やるんだ。それで、早めに出てきてお腹満たしてから行こうと思って」

「そういうことか。エースはイングリッシュマフィン頼んだけど、アリスもそれにするか?」

「何が付いてくる?」

「目玉焼きとベーコン」

「完璧! それ頂戴!」

「じゃあ、ちょっと待っててな」

 そう言って弥生は厨房へと入っていった。

 少し前の真と同じく、有紗も手持ち無沙汰になる。その暇を解消するべくか、二階から桂が降りてきた。

「あれぇ。二人とも早いねぇ」

 欠伸混じりに言う桂は、少し前まで寝ていたような様子だ。一階へ降りてくるのは今日はこれが初めてなのだろう。

「桂が遅いんだよぉ」

 真が言うように、流石に遅い。少なくとも店の店主としては遅すぎる。

「桂さん。寝癖、付いてるよ」

「あれぇ。ちゃんと梳かしたのになぁ」

 それでも直す気は無いようで、桂はカウンターの中に入るといつものようにゆらゆらし始めた。寝癖が跳ねていて、今日はいつもより揺れている様が滑稽に見える。

 厨房からは卵とベーコンを焼く音がし始めていた。同時にいい匂いも漂ってくる。

 真とお揃いで足をぶらぶらさせながら待つこと数分。弥生が二人分の皿を持ってやってきた。

「今モーニングコーヒー淹れるからな。今日はマンデリンだ」

 弥生がモーニングコーヒーを入れてくれている間、冷めないうちにと目玉焼きとベーコンとレタスを挟んだイングリッシュマフィンを頂くことにした。

「いただきまーす」

「いただきまーす」

 真と揃ってイングリッシュマフィンを手に取ると、そのまま大きく一口かぶりついた。かりっとした食感に続き、具材の食感が次々にやってくる。ふかふかのマフィン、目玉焼きのぷりっとした白身。二口目まで食べたところで、一旦手を置いた。

 口いっぱいのものを咀嚼している間に、コーヒーが並々注がれたカップが皿の横に置かれた。口の中のものを飲み込んで、コーヒーを啜ると、すっきりとした味わいで胃も温まってきた。

「そういやそろそろ新学期、だっけ」

 弥生に尋ねられ、有紗は笑顔を作って頷いた。

「そうなんだ。それでね、去年から悩んでた文芸部、入ったの!」

「お。遂にアリスも作家先生の階段上り始めるのか」

「そんなんじゃないけど、書けるようになったら楽しいよね、きっと。それに、来月から遂にお酒、解禁なんだ!」

「じゃあ、もう二十歳になるのか。誕生日、いつ?」

「来月の四日」

「それじゃあ、盛大にお祝いしないと。クオーリ貸し切ってパーティーやろっか?」

「そ、そこまでしなくて大丈夫だよ」

 賛同すれば本当にやりかねないから怖い。弥生がそういうことを言い出すのは珍しいが、ここは丁重にお断りしておくのが吉だ。

「じゃあ、有栖川茶房でパーティーする~?」

「パーティーはしなくていいですって。お気持ちだけで大丈夫ですよ」

「そーお? パーティーしたいなぁ」

 お祭り好きの桂は少し寂しそうだ。

 有紗に対して彼らが一介の客という認識が無いのはよく知っている。かといって、大袈裟に騒がれるのは本意ではない。

「次クオーリに行ったら一緒にお酒飲めるね!」

 マフィンを手に持ったまま、横で真が満面の笑みを浮かべている。

 忘れていたが、彼はもう成人していて、しかも環よりも年上なのだった。

「まだ飲めるかどうか解らないからちょっとずつだけどね。飲める体質だといいなぁ」

「そうだねー。嗜み程度にも飲めないと、社会人になってから面倒なこともあるからね。飲めないのは悪いことじゃないんだけどさ」

 と、とても社会人には見えない真からの言葉が、数年後の憂鬱を連想させる。

 ――ヤだな。

 今は今のことだけを考えていたい。それが正直なところだ。しかしいずれ来る未来。覚悟と準備は必要なことには違いない。

 ――やめよ。

 有紗はマフィンを手に取り、一口頬張った。お茶会に没頭して、取り敢えず今日はその嫌なことは忘れてしまおう。サイン会も待っている。

「あれ。アリス。何だかちょっとへこんだ?」

「ううん。就職とかどうしようかな、ってちょっと思っただけ」

「文芸部入ったばっかりなんでしょ? 今はまだそれ楽しんでていいんじゃない?」

「そうだね」

 真の言うように、へこんでいても仕方がない。

 ――元気元気。

 まじないのように唱え、マフィンを食べ進めることに集中する。

 すると、ゆらゆらしていた桂が、

「それだったら有栖川茶房に就職する~?」

 とんでもないことを言い出した。バイトさえ要らない状況なのに、彼は何を言っているのだろうと、咀嚼しながら有紗はゆるふわパーマの人を眺めやった。

「あと~、永久就職しちゃうとか~」

 そして話はどんどん飛躍していく。

「かっ、桂……!」

 口元を僅かに引きつらせた弥生が、桂の脇腹に肘を入れている。何の漫才だろうとマフィンを食べながら引き続き眺めやる。

 ――でも……。

 こんなお店で働けるのならば素敵だろう、と店内に視線を移した。

 もっと沢山の客を呼べるように工夫して、得意の笑顔で接客して、紅茶とコーヒーの香りに包まれながら過ごす毎日は、苦労もさながら、楽しいに違いない。

 最後の一口を食べ終わり、コーヒーで口直しをする。

「美味しかったー。ご馳走様」

 口の周りを拭い、再びコーヒーを飲む。腕時計をちらと見れば、時間はまだ十二分にある。もう少しゆっくりしていこう、とコーヒーカップを一旦置いた。

「弥生くん。ここの仕事、楽しい?」

「楽しいけど? 色んな人来るし、色んな事あるし。あ、桂の話、真に受けなくていいからな」

「でも、桂さんがいいって言ったら考えちゃおうかなぁ」

 思わせぶりをして目線を遣ると、

「うふふ」

 店主は意味深な笑顔を浮かべて揺れている。それに違和感を持たなくなった今、完全にこの店の住人になってしまったのだと、有紗は自覚した。

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