41杯目 ヤヨイラビット

 二月初旬。久しぶりに訪れた有栖川茶房は、通常の装いに戻っていた。アイアンのドアノブが少し懐かしい。屋号が書かれた看板も元の年季が入った木製のものに戻っていて、これも見ると安心する。

 すべてが元通りに戻っていることに満足して、有紗はドアノブを押した。

「こんにちはー」

 中に入ると、珍しく真白がいた。そして桂と笑太。

 その三人が、カウンターの上にいるウサギを囲んで立っていた。

「あれ、うさちゃん」

 ロップイヤーの薄茶のウサギは、鼻をひくひくさせてこちらに興味を示した。

「有紗、いらっしゃい」

 真白が声をかけてくれた。

「どうしたんですか、このうさちゃん」

「ちょっと調子悪いみたいでさ。風邪っぽくて。カウンターの上でごめんな」

「ううん。それはいいんですけど。妃さんのうさちゃん?」

「あ……まあ、そんなとこ」

「へぇ。お名前はなんていうんですか?」

「えっと……」

 真白が口籠もる。笑太を見ても自分は知らないとでも言いたそうに目を少し逸らした。

 ――変なの。

 桂を見るとにこやかな笑顔で、

「ヤヨイくんだよぉ」

「え、弥生くんと同じ名前なの?」

「そう。ヤヨイくん」

「そうなんだぁ。初めまして、ヤヨイくん」

 撫でてあげると手に擦り寄って甘えてきた。思ったよりも柔らかく、そして温かい。

「ところで、人間の方の弥生くんは?」

「ここに――」

「今日は風邪引いて休み」

 桂が何か言いかけたのを、真白が遮った。

「コーヒー飲みたかったら僕が淹れるから」

「うん、わかった。うさちゃんも弥生くんも風邪かぁ。寒いからね。私も気をつけよっと」

 今は一番寒い季節。インフルエンザも猛威を振るっているところだ。

「あ、そうだ。宇佐見さん」

「なに?」

「あの、下の名前でお呼びしたいんですけど、いいですか?」

「構わないよ」

「あと、くんとさん、どっちがいいでしょう」

「呼びやすい方で」

「じゃあ、くん、でお願いします!」

「ついでに、敬語も要らないよ」

「は、……うん!」

 有紗はそのまま奥のソファ席に向かった。荷物を置き、マフラーとコートを脱ぐ。

 席について、メニューを捲った。

 今日のケーキの欄には、パウンドケーキがプレーンとココアの二種類があると書かれていた。飲み物は紅茶で散々悩んだが、結局コーヒーに目が行き、

「ココアのパウンドケーキとブレンドコーヒーください」

 水を持ってきた真白に注文をした。

「アリスちゃーん。紅茶~」

「真白くんが淹れるコーヒーも飲んでみたいんですっ」

「そーお?」

 桂のいつもの紅茶飲んで攻撃をかわすと、店内に静けさがやってきた。

 弥生がいないだけで店内の空気がいつもと違う。聞こえてくる足音も違う。少しだけ不思議な心地になって、有紗は店内の物音に耳を澄ませていた。

 余り気にしたことが無かったが、実にいろいろな音がする。

 食器を出す音。湯が沸く音。コーヒーを入れる音。それらと共に、ぱたぱたという足音もする。相変わらず桂は揺れているだけなので、これらの音は真白と笑太のものだ。

 やがて、笑太の足音がこちらに近づいてきて、とん、とお皿とフォーク、そしてコーヒーカップが置かれた。食器毎に音の高さも違う。

「お待たせ。ココアのパウンドケーキとブレンドコーヒーだよ」

「ありがとう」

 彼が立ち去ってから、早速パウンドケーキにフォークを入れた。しっかり目の詰まったケーキはココアのいい香りがする。切り取った分を一口で頬張れば、甘さとココアのビターな感じがとても美味しい。

 ブレンドコーヒーも美味しく、身体が温まる。淹れた人の違いなどわかるわけもなかったが、これはこれで美味しいものとして頂いた。


 りん。りりん。


 この時期に聞くと寒さを覚えるドアベルの涼しい音色が聞こえた。入ってきたのはコートを羽織った忠臣だ。

「……っ、ヤヨイ、なんでまた……あっ……」

 後半で息を呑んだ理由はわからないが、

「本当にヤヨイくんっていうんですね。てっきり桂さんが適当なこと言ったのかと」

「僕、そんなに適当じゃないよぅ」

 ネーミングが誰かはいざ知らず、本当にこのウサギがヤヨイという名前であることははっきりした。

「今日はどうする?」

「コーヒー。で、あいつはどうしたんだ」

「風邪。インフルエンザとかじゃないからすぐ復帰するとは思うけど」

「そ、そうか」

 カウンターの方から忠臣と真白のやりとりが聞こえてくる。弥生は軽い風邪との事なので、一安心。カウンターの上ではウサギのヤヨイが縮こまっていて寒そうにも見える。

「ねー。紅茶飲んでよぉ」

「いい加減俺に言っても無駄だとわかってくれないものか。基本的にコーヒーしか飲まないって言ってるだろう」

「基本的に、でしょ? 例外的に飲むかも知れないでしょ?」

「例外が発生したら伝えるから」

「伝え忘れがないように確認してるんだよぉ」

「桂のそれは確認じゃなくて要求だから」

 桂と忠臣の会話に思わずクスリとしながら、有紗は残りを食べ進めた。

 食べ終わる頃、ゆらゆらしていた桂が何を思い立ったのか二階に上がっていった。特に気にせずにいると、フリースの膝掛けを持って戻ってきた。そして、それでヤヨイをくるむと、有紗の方へとやってきた。

「抱っこ、してみる?」

「え。いいんですか?」

「いいよぉ。喜ぶと思うし」

 そう言って桂は、有紗の膝の上にフリースに包まれたウサギを載せた。

「撫でてもいいかな?」

「大丈夫だよぉ」

 フリースを開いて、ウサギの頭から背中に掛けて撫でてやる。ヤヨイは気持ちよさそうに目を細めて為すがままだ。そして、膝の上がとても温かい。

「えへへ。可愛い」

「気が済むまでそうしてていいよぉ」

 左右に揺れながら桂は元の定位置に戻っていく。

 猫喫茶宜しく、ウサギ喫茶にでも来た気分だ。思えば、今日はてっさが居ない。きっと二階で寝ているのだろうと、撫でながら勝手に想像した。

 時折、ヤヨイが膝に頬をすりつけてくる。もっと撫でろという風にも取れるし、眠くてぐずっているようにも取れる。どちらにしろ意味はわからないので、桂に言われたとおり気が済むまで撫でることにした。


   *


「で。どうだったの、有紗の膝の上」

「どう……って」

 アリスが帰った後、何故か弥生は真白に睨まれていた。

 人の姿でいると鼻水が酷い。

「ティッシュ」

 要求すると、箱ごと笑太が寄越してきた。

 鼻をかんでいる間も、じっとりと見てくる真白の視線は外れない。

「あったかかったんでしょ~。途中から寝てたみたいだし~」

 桂までいたずらっぽく言ってくる。

「そりゃあったかかったよ」

「このドスケベウサギ」

「んだと! この毛玉!」

 何故真白に強く当たられなければならないのか。まずそれを知りたい。彼はアリスについて特段何も思っていない筈なのに。寧ろ、彼女の存在を余りよく思っていない筈だ。それならば何故、と弥生は思う。

「大体、笑太はしょっちゅうくっついたり乗ったりしてるのに咎められなくて、偶に俺がそうするとなんか言われなきゃなんないわけ?」

「笑太は下心ないから」

「ホントかぁ?」

 と、笑太を見やれば、

「……そういうの、考えたことない」

 真面目腐った顔をしてそう返してきた。

「嘘だろ。猫の時はゴロゴロぶーぶー言ってべったりの癖に。それとこれとは別っていうわけ?」

「甘えてるだけだから。猫の本能だから」

「その本能はその姿の時にはないわけ?」

「なくはないよ? でも、俺、有紗にそういう興味ないから」

「俺だけなんで獣みたいな言われ方されなきゃなんないんだよ」

「だって弥生、きっちり三月に発情するじゃない」

「それとこれとはそれこそ関係ねぇよ!」

 だんだん立場が悪くなっていく。そして鼻水が垂れる。鼻をかみながら、一人涼しい顔で二杯目のコーヒーを飲んでいるジャックを見た。

「なあ、ジャック。助けてくれよぉ」

「それよりも帰って休んだ方がいいんじゃないのか?」

「帰るのも怠い……」

「いずれ帰らなきゃならないだろうに」

「店開けるのは頑張らなきゃって思ってどうにか来たんだよ。そしたらどんどん悪くなっていったんだよ」

「よく頑張ったな。だから、これ以上悪くならないように早く帰れ」

 褒めてくれるのはジャックくらいのものだ。

 他の奴らと来たら、周りを取り囲んでアリスの膝の上でぬくぬくしていたことについて何かしら言ってくる。

 今思い出しても温かかった。至福の時だったと言ってもいい。絶対に口にはするまいが。

 ――二度目はないんだろうなぁ。

 正直、あの温もりが恋しい。熱は出ていない筈だが、今は薄ら寒いような気がしている。きっとこの周りの視線の所為だ。

「うう……じゃあ、帰ってもいいか?」

「僕、閉店までいるから帰って暖まってるといいよ」

 さっさと帰れとばかりに真白が手をひらひらしている。

「ていうか、おまえ。単に羨ましいだけなんじゃねぇの?」

「どっかの浮かれウサギと一緒にしないでくれるかな。僕のことなんだと思ってるの」

「毛玉ウサギ」

「間違ってないから何処も訂正のしようがないね」

「チッ……」

 頭が回らないのか悪口も浮かばない。そもそも、口喧嘩で真白に勝ったことなど一度たりともない。

「弥生。家まで送ろうか」

「いや、チャリあるからいい」

 ジャックの申し出を断り、弥生は二階に荷物を取りに行った。今日は開店の準備をしただけでダウンしてしまったので着替えていない。ダウンコートを羽織り、妃に貰ったカシミヤのマフラーを巻き、荷物を持って階下に降りる。

「じゃ、悪いな」

「お大事に~」

 手を振る桂を背に、弥生は店の外に出る。

 扉が閉まると同時に、鼻水が垂れてきた。

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