42杯目 悪魔のおやつ
紙袋の手提げを持って、有紗は有栖川茶房のドアノブを押した。袋の中身は主にチョコレート。そう、今日はバレンタインだ。
ドアを開けてすぐに忠臣の背中が見えた。都合がいい。
「今日は皆さんにお渡しするものがあります!」
有紗はマフラーも取らずに荷物を席に置くと、袋の中身をまず、コーヒーを飲んでいた忠臣に手渡した。
「忠臣さん、チョコです!」
「ありがとうございます」
「あと、妃さんと真くんと瑛さんにも渡してください」
「かしこまりました」
続いて、
「弥生くんと、桂さんに」
「おっ。ありがとう」
「わーい、ありがと~」
「笑太くんと真白くんにもお願いできるかな」
「いいぜ。渡しとく」
「あと、てっさに」
「ぶな?」
名前を出したところ、ソファ席にいた太い猫がやってきた。カウンター席にお座りをする。
「猫おやつだよ~。桂さんに後で貰ってね」
「ぶなー!」
「それと、これはイトーくんに」
取り出した袋の中身はひまわりの種。てっさとイトーくんの分は桂に託し、一通り配り終えた。
「最近イトーくん見てないけど元気?」
「元気に寝てるよ~。連れてこようか~?」
「ううん。寝てるところ起こしたら可哀想だからいいよ」
「そーお?」
きっと大福のようにまん丸になって眠っているのだろう。それを邪魔しては悪い。
「こんなに大人数分、大変だったでしょう」
「日頃お世話になっているほんのお返しです」
「ありがたく頂戴します」
そう言って貰えると、用意した甲斐もあるというものだ。
今日はカウンター席に座ることに決めて、マフラーとコートを脱いで置いた。
「弥生くん、風邪はもう大丈夫?」
「ああ。鼻水酷かっただけだったから、薬飲んで翌日休んで良くなった。悪いな、心配掛けて」
「油断は駄目だよー。気を抜くとぱくってされちゃうから」
「ぱくっ……?」
「風邪に、ぱくっ、て」
「怖ぇな、それ」
会話をしていても風邪っぽさはない。どうやら本当に完治したようだ。発熱がなかったのが何よりも幸いだ。一人暮らしの発熱の辛さは去年思い知っている。あの地獄は出来れば二度と経験したくない。
――さて、今日は何を食べよう。
メニューを取り、開くが早いか、
「今日さ、デビルズフードケーキあるんだけど、どう?」
「デビルズフードケーキ?」
「ココアのスポンジにチョコの生クリーム載った全身真っ黒のケーキなんだけど」
「それ、美味しそう」
ちら、とショーケースの中を覗くと、彼が言うのと同じ姿をしたケーキがあった。本当に何処を見ても黒いケーキだ。
「これは飲み物コーヒーがいいな」
「アリスちゃーん! 前回もコーヒーだったよねぇ! 紅茶飲んで~」
「紅茶だとケーキに負けちゃいそうで」
「うあーん」
譲る気はない。見るからに重たそうなこの黒いケーキは、コーヒーの方が合う筈だ。
「濃いめの紅茶とか少し癖のある紅茶なら絶対合うよぉ!」
「コーヒーで」
「桂も諦めろよ」
「しゅん……」
擬音を口にしてへこむ様を初めて見た。桂には悪いが、今日はやはり譲りたくなかった。
「ジャックに貰ったキリマンジャロあるから、それ淹れようか。酸味が丁度いいかもよ」
そう言って、弥生はコーヒーを淹れる準備に入った。相変わらずこの店は貰い物を客に売る。それを隠しもしないのがいいところだと思っている。
待ち遠しくて、自然と身体が揺れる。コーヒーのいい香りがして、やがて目の前に差し出された。弥生が言うように、酸味が強い香りがする。
そしてメインの登場。真っ黒なケーキ。
「悪魔のように魅惑的。だからデビルズフードケーキ。諸説あり」
「誰か言ってたの?」
「これ作ったパティシエの所のショコラティエがそう言って持ってきた」
「ケーキ屋さんにショコラティエさんもいるんだぁ」
目の前にあるだけでチョコレートに包まれたような気持ちになる。周りは勿論、スポンジの間にもチョコレートクリームがたっぷりと挟んである。食べる量を間違えれば胃もたれを起こしそうな見た目をしている。
「いただきまーす」
三角の先端にフォークを立てると、しっとりとしたスポンジがちぎれていく感覚がある。それを一口で食べると、どっしりとした重みと濃厚なチョコレートの味で、少しだけ意識が浮いた。甘いには甘いが、甘さがするだけというわけでもない。とにかくチョコレートの主張が強いのだ。
「わかってたけど、チョコレートすっごく濃いね!」
「鼻血出そうだよな」
弥生と話していると横から忠臣が皿の上を覗き込んできた。少し黙りこくった後、
「弥生。俺もこのケーキ」
「珍し。ジャックなら二切れくらい食べるか?」
「いや、取り敢えず一切れにしてくれ。流石に重たそうだ」
「ほーい」
甘いものはそれほどと言いつつも何でもぺろりの忠臣でも、この威圧感には敵わなかったようだ。
このケーキは酸味の強いコーヒーと交互に食べて丁度いい。紅茶と食べるのであれば、個性の強いものを持ってこないと完全に負けてしまいそうだ。
半分ほど食べたところで、店内にドアベルの音が響いた。誰だろうかと目を遣ると、入り口に立っていたのは環だった。
――……!
しまった、と有紗は瞠目した。今から慌てたところで時既に遅し。
「あっ、環さん。あの、すみません!」
「藪から棒にどうした」
「今日お会いできると思ってなくて、その、バレンタインチョコ用意してなくって」
「ああ。気にすることない。気持ちだけ受け取っておく」
「うう。私としたことが……」
スペードの皆のことを勘定に入れることをすっかり失念していた。抜かってしまった。そのことが悔しさを増大させる。
「環は山ほど貰ってそうだから大丈夫だろ」
と、弥生。環はカウンター席の奥の方へ向かうと、鞄を置き、コートを脱ぎ始めた。
「今はそんなに貰ってないぞ」
「〝今は〟っつった! 貰い慣れてんなぁ。くっそ」
弥生はそう言って悔しがるが、有紗にしてみれば環と同じ立場ではないのかと思う。
「弥生くんだって沢山貰ったんじゃない? 学生の頃とか」
「貰った記憶無いから貰ってないと思う」
「忘れちゃっただけとか」
「時期によってはそれもあるかも知れないけど……」
例え事実があったとしても、当人にその記憶が無いのであれば意味が無い。そっか、としか返せず、この話は一旦終了となった。
それよりも意識を奪ったのが、環が片手でてっさを抱き上げてその席に座ったことだった。しかも、抱えたてっさを膝の上に載せて平然としている。
――今、ひょいって持ち上げた! ひょいって!
有紗が両手でやっと持ち上がる重さを、片手でこなすとは恐れ入る。環の膝の上に載った猫は、カウンターに両前足をついてお客さん気分だ。
「あの……環さん」
「うん?」
「重く、ないです?」
「重いには重いが、それ程でもない」
「そう、ですか……」
大分前に膝に載せたときは重さで足が痺れるかと思った程なのに、環にとっては意に介すほどではないということらしい。
「アリス。環はな、こう見えてマッチョだから。腹筋割れてるし」
「えー、そうなの!」
弥生の情報に驚くも、ぱっと見そうは見えない。身体の厚みが凄いとかそういうこともない。
「でも、なんで腹筋割れてること弥生くんが知ってるの?」
「前に環がラフなカッコしてたときに見せて貰った」
「えー。いいなぁ」
少しだけ、羨望の眼差しを環に向けてみる。彼はくすぐったそうにしながらも冷静は崩さず、
「今日はスーツだし、女の子に見せるものでもないし」
「女の子は腹筋好きなんですよ!」
「そういうものか?」
「そういうものです。女子は筋肉好きです! 是非機会があったら見せてください!」
「あ、……ああ」
言質は取った。心躍らせながらケーキの続きを食べる。
右横では忠臣がケーキを食べ始めていた。いつものように飲むように食べるのではなく、今日はきちんと食べるように消費している。やはり甘いものはいつものスピードでは食せないらしい。もしくは、このケーキに限ったことなのか。
左横では環が猫と一緒にメニューを眺めている。一通り眺め終わったところで、
「弥生。デビルズフードケーキとコーヒー」
「環くんまでコーヒーなのぉ! 正山小種(ラプサンスーチョン)とか飲んでよぉ。きっと合うよぉ」
「悪いな、桂。このケーキにはコーヒーが合いそうな気がしたから」
「んもう。みんなしてコーヒー、コーヒー、って! ホントに悪魔の食べ物だねっ!」
遂に食べ物を悪者にしてぷんすかしている桂から、全員が視線を逸らしていた。
英国風喫茶に、コーヒーの香りが充満している。こんなことはそうそうない。肺の奥まで満たされた気持ちになって、最後の一切れを口にした。
口の中が幸福に浸食されているとき、いつの間にか食べ終わっていた忠臣が、おかわりを要求していた。一方でケーキを受け取った環は猫を抱えたまま、チョコレート味の塊を口の中に放っていた。
チョコレートとコーヒー。
相まって、幸せだった。
*
有紗が座っていた席に腰掛け、笑太は二つの頂き物を抱えてほくほくしていた。チョコレートを貰うのは初めて。おまけに猫用おやつまである。
「ていうかさ、おまえだけ二つってズルくね?」
環や忠臣も帰った有栖川茶房の店内で、向かい合っている弥生が仏頂面をしていた。
「ズルくないよ。有紗の中で俺とてっさは別物なんだから仕方ないじゃん」
「俺だってウサギでいたことあるのに」
「一回だけでしょ? しかも、妃のウサギだと思われてるからニンジンの差し入れは無いと思うな」
「別にニンジン欲しいわけじゃないんだけど、なんか癪だなぁ」
「そんなに悔しいならもっとウサギでいたら?」
「んなことしたら店回らなくなるだろ」
「じゃあ文句言うなよ」
確かに自分は役得だと思う。猫でいれは自由気ままに過ごし行動できるし、笑太でいれば有紗と会話することが出来る。彼女の目の前で自在に変わることは出来ないが、それぞれに利点はある。
彼女に知られていないのをいいことに、猫の本能剥き出しで甘えて喉を鳴らしているのは事実だ。
「うー。やっぱズルいなぁ」
「えー、まだ言うの? じゃあ、おやつあげようか?」
「猫用だろ? 俺が食って旨いかな」
「さあ。ウサギの味覚は知らないから」
「だよなぁ。じゃあ、今度食うときに一口くれよ」
「いいよ」
今回は円満に収まった。
とはいえ、当初から強かった弥生の嫉妬が最近とみに強くなっているように思えるので注意しよう、と改めてチョコレートを抱えながら思った。
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